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なぜ20代で年収1000万円が欲しくなるのか?

更新日:

20代で年収1000万円稼ぐ人

 

世の人々の多くにとって上に書いたプロフィールの人は尊敬の眼差しで見られます。

だからこそ総合商社、広告代理店、保険会社などの高給取りをたくさん輩出する企業というのは大学生根強い人気があります。

実際ランキングを見てみると、一部福利厚生充実企業を除けば人気の企業というのは「年収1000万円」に20代で到達する環境を用意してくれている会社ばかりです。

 

 

しかし、お金に執着のない私にとっては「なぜ20代で年収1000万円であることが嬉しいことなんだろう」という疑問が晴れませんでした。率直にその理由を述べると1000万円なんてなくても生活ができるからです。

 

今日は、学生時代から長らく疑問だった「20代で年収1000万円欲しがる人たち」の生態について考察してみました。

調べてみると結構歴史的にも根拠があるなというのが見解です。

 

■目次

20代で年収1000万円もらって何がしたいのか?
変わらない人間の本質
現代人が失っているもの

■20代で年収1000万円もらって何がしたいのか?

20代で1000万円の年収をもらってそもそも何がしたいのか?

 

これをそうなりたいと語る若者に聞いた時どういう答えが返ってくるでしょうか。

 

 

口には出せないことが多いからなのかもしれませんが、意外と返答に困るという人が多いのではないかと私は考えています。

「もてたい」「BMWに乗りたい」「威張りたい」などいろいろあるでしょう。

 

 

ただ、考察を深めていくと年収1000万円を若くして欲しい人にはある共通点が見えてきます。

 

 

一言で言えば「顕示」ですね。

 

お金を稼ぐモチベーションが「生活の糧」だけではないということなのです。

誰かに顕示するために稼いでいるのです。

餓死しないためであることが目的であるならばそんなにいらないですからね。

 

 

ところで、一見すると「20代で年収1000万円欲しい」という人種はつい最近生まれてきたようにも見えます。

しかし、歴史的に長らく人々を貫いている思想のようで今に始まったものではないようです。

 

少しだけ歴史的経緯を見ていきましょう。

そもそも「顕示」をするという欲求が生まれてきたのには「所有」という概念の誕生に見られるとウェブレンは述べます。

つまりほとんど所有せず、通例ほとんど蓄積しない階級にとってなら、当分の間は支配的な獲得動機であり得よう。だが、考察を進めていくうちに明らかになるように、このような貧しい階級の場合でさえ、肉体的必要という動機の優越性は、しばしば想像されてきたほど決定的ではない。もっぱら富の蓄積に関心を抱いている社会構成員や階級に関する限り、生存や肉体的快適さという誘因は、全く重要な役割を担っていない。所有権は、生存に必要な最低限などとは無関係な根拠に基づいて開始され、人間の思考習慣として成長したのである。

『有閑階級の理論』ソースティン・ヴェブレン(2015)講談社学術文庫

貧しい階級においてすら「生存の必要性」は一時的な動機でしかないのだそうです。

近代化の過程で「所有すること自体」が何よりも重要であると考える習慣が刷り込まれるようになったのです。

 

 

では、「所有権」はなぜ誕生したのかということになりますよね。

これは、もちろんルソーの「社会契約論」的な考えもあるのですが、ウェブレンは以下のように述べます。

 所有権は、成功した襲撃の戦利品として保有される略奪品であることを持ってそもそも始まった。集団が原始未開の社会組織からごくわずかしか離脱しておらず、他の敵対的な集団となお密接な接触を保っている限り、所有されている物や人間が持つ効用は、その所有者と略奪対象であった敵との妬みを起こさせるような比較に大部分由来している。

『有閑階級の理論』ソースティン・ヴェブレン(2015)講談社学術文庫

曰く、敵を攻め込み多くを略奪し戦利品を見せびらかすことが、敵に「妬み」を引き起こさせられ、これこそが「勝利の証」となると彼は述べます。これが「所有」していることが「名誉」と一致した起源です。

 

 

ただ、いうまでもなく略奪文化なるものはいつまでも続きません。

時代が進むにつれ、「略奪文化」が後退するようになり上記のような思考習慣は変化を迫られます。

 

どう変化したかというと、「多くの財を所有していること」という結果だけに帰着したのです。

略奪本能と、結果として生じる略奪能力の賞賛は、略奪的文化の規律の下で長期間過ごしてきた人々の思考習慣の中に、深く浸み込んでいる。大衆の見るところによれば、今日でもなお人間が入手しうる最高の名誉とは、戦争で発揮される類い稀な略奪能力、あるいは、政治の中で発揮される半略奪的な能力によって得られるようなものである。だが、社会にあって陳腐で上品な地位につくという目的で見る限り、名声を獲得するための手段は財の獲得と蓄積に場所を譲ってしまった、と言えるだろう。

『有閑階級の理論』ソースティン・ヴェブレン(2015)講談社学術文庫

 

この転換は今の「年収1000万円を渇望する若者」に近づいていると言えます。

財を多く所有することで周囲の妬みを煽り自らの優位性を確認できると。

 

ただ、財を集めるだけでは、豪奢な生活をする人物も浮かぶ一方で、二宮尊徳や松下幸之助のような人物像も浮かんできます。

いわゆるお金を持っているけど浪費しようとしない人です。

 

「20代で1000万円欲しい人」はどちらかというと前者に分類されますのでここにもさらなる思想の分岐があると考えるのが妥当でしょう。

 

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■変わらない人間の本質

20代で年収1000万円を欲しがる人の生態を把握するには「財をたくさん所有していること」からさらに一歩進んだ考察が必要であるとここまで述べてきました。

 

ウェブレンは、この考察の助けとして「顕示的消費」という概念を提供してくれています。

 

顕示的消費とは、「財を所有していることを示すために不要なものに莫大な財を投入すること」を指します。

高級腕時計とか高級自動車とかですね。ガンガン使うことがより重要だという思想です。

 

 

一見財を減らす行為に見えるため理解しかねる部分もあるかもしれませんが、自らが多大な財を持っていることを示すために高価なものを買漁るというのは理にかなっているのです。

 

顕示的閑暇と顕示的消費が名声に値する理由は、それが金銭的な能力の証拠だからである。金銭的能力が名声や名誉に値する理由は、究極的には、それが成功と卓越した力を立証するからである。

『有閑階級の理論』ソースティン・ヴェブレン(2015)講談社学術文庫

 

 

しかしながら、書きながら驚いたことがあります。

貴族時代の外国の話と今の日本で年収1000万円を欲しがる若者にそれほど大差がないということです。

 

これは人間というのは古今東西変わらないんだなと思わせるのに十分な例とすら感じました。

 

貴族時代の豪奢な人たちの生まれ変わりが「20代で年収1000万円を欲しがる若者」なんです。

 

 

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■現代人が失っているもの

最後に少しまとめます。

 

ウェブレンが『有閑階級の理論』で伝えようとしたことはいくつもあるのですが、その一つが「名誉」と「財の所有」の相関性を指摘したことです。

 

 

つまり、より多くの財を持ち、より多くの財を使う人物が人間的にもすごいんだという思想が一般的になっているということです。

現代においても人を功利主義のカテゴリーを通じてのみ評価し始める思想というのは根強く、オピニオンリーダーの類も大概がこれで決まってます。堀江さんとかが筆頭例ですね。

 

 

ただ、これは果たして良いことなのかいささか疑問であるというのが私の立場です。

 

 

確かに、人を評価するにあたってはスピーディーになるのかもしれません。

 

しかし、そうでない人間はクズで役に立たない人間なんでしょうか。

 

こういうことをいうと自己啓発本やビジネス本を1000冊くらい読んでいる人からしたら「君!それはひがみだよ!」とか「君!それは負け犬の遠吠えだよ!」となるんでしょう。

 

しかしこの思想一辺倒になればなるほど世の中が荒んでいくだろうなと感じます。

なぜなら、本来それだけでは人間の評価は定まらないはずですから。

 

 

最後に、ケインズの有名な一節を紹介します。

経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であると自ら信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のある三文学者から彼らの気違い染みた考えを引き出しているのである。私は、既得権益の力は思想の漸次的な浸透に比べて著しく誇張されていると思う。もちろん、思想の浸透は直ちにではなく、ある時間をおいた後に行われるものである。なぜなら、経済哲学および政治哲学の分野では、二五歳ないし三十歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くはなく、したがって官僚や政治家やさらには煽動家でさえも、現在の事態に適用する思想はおそらく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなくて思想である。

『雇用、利子及び貨幣の一般理論』ジョン・メイナード・ケインズ(2008)岩波文庫

ケインズは何にも増して我々を縛っているのは他でもない「思想」であると述べました。

しかも、我々の行動原理を概ね決めているにもかかわらずそのことに対して恐ろしいほどに無自覚であるとここで述べています。

 

これは金言ですね。

「金を持っているかどうか」を意識的に見ている人もいるでしょうが、無意識に見ている人も少なくないでしょう。

私も偉そうなことを書いていますが、無意識に人の価値を「金を持っているかどうか」で決めている可能性があります。

 

 

20代で年収1000万円欲しい若者もまた縛られているのは他でもない思想です。

なぜそれを会得するに至ったかを自覚した頃にはもうその考えから抜けられなくなっています。

 

思想とは恐ろしいものです。

なんか着地点失いましたが、以上です。

 

お読みいただきましてありがとうございました。

 

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