やれグローバル化だ
やれリーダーシップを磨け
と最近はどうも横文字を使って馬鹿騒ぎする人が増えました。
(私も含め)20代をゆっくり過ごしたい多くの人にとってこの手の馬鹿騒ぎというのは迷惑極まりないものです。
しかしながら「今の状態は長く続かないからな!」「これからは一人で生きていかないといけないからな」などと言われると多少なりとも焦るものです。
「20代の過ごし方をどうすればいいのだろう。」
ちょっとした焦りがつきまとう方向けに今日は少し記事を書かせていただきました。
あらかじめ一言で結論を述べますと、いろいろ焦った挙句私が気づいたのは、「巷で語られる20代の過ごし方はほとんどが間違いなので、本当に頭の良い人にじっくりと時間をかけて学びましょう」というシンプルなものです。
その結論に至る背景にどうぞお付き合いください。
■目次
▶巷で語られる「20代の過ごし方」に対する違和感
▶私が考える20代の人が考えるべきこと
▶これが正しい20代の過ごし方ではないか
■巷で語られる「20代の過ごし方」に対する違和感
本屋に行くとここ5年くらいでしょうか。
- 日本にいてはいけない
- 日本はもうダメになる
- これからは海外でも一人で稼げるようになれ
こういったことをテーマにして書かれている本がとても多いですね。
「日本はダメになるから、世界で通用する人間になれ」と。
それから付随して作られたビジネス書や教育本、新書は本当によく売れるのか本屋に行けばあなたもすぐにその存在を見つけることができるでしょう。
さて、こういうものを読むと「日本はもう今までのように豊かじゃないのか」とか「日本では稼げなくなるから海外で稼げないといけないのか」といった風に20代の方々は考えがちかもしれません。
かくいう私がこの手の洗脳を2年ほど受けていました。
何せこの手の本を書く人は「〇〇大学教授」「〇〇大学にてMBAを取得」「マッキンゼー&カンパニーを経て」「東京大学法学部を卒業し」などという肩書きがあるものですから世間的に認められています。
それゆえに、我々のような若輩者はついつい「何か正しい気がするなあ」と思ってしまうのです。
ところで、この「日本はダメになるから20代のうちから稼げる力をつけておけ」という流行りのフレーズは正しいのでしょうか?
もし正しいのであれば、20代の過ごし方は決まりますね。
大前研一や勝間和代、竹中平蔵あたりの本を熟読し、あとは『7つの習慣』や『金持ち父さん』、『LIFE SHIFT』を片手に自己啓発セミナーに行くのが良いと言えるでしょう。そして30歳で起業をするか香港かシンガポールで出稼ぎに行くというのが良いでしょう。
さて、ここからは以下のような人に読んで欲しいです。
- このような考え方に少しでも違和感を感じる人
- このような価値観を是としてる人
- 大前研一やら金持ち父さんがすごいと思ってる人
この20代の過ごし方には違和感を持っていただきたいところです。
まあ20代に限ったことでもないんですけど、同じ世代の人間としてここに違和感を感じて欲しいんです。
■私が考える20代の人が考えるべきこと
さて、今こそ冷静になる必要があります。
「もう日本はダメになるから、海外で稼げるようになれ」
いつの日か私はこのような趣旨の言葉を聞くたびに吐き気を催すようになりました。
なぜか?「日本を切り捨てろ」とこの人たちは言ってるんですよ。
自分たちを長きにわたり育んできたネイションを言葉を変えてるだけで「切り捨てろ」と言ってるんですこの手の人たちは。
恩知らずと言えば良いのか、過去に対する無理解と軽薄さと言えば良いのか。。。。いろいろ言い方はありますが、まあ「ひどい」んです。
一例を挙げます。例えばビジネス界のカリスマ大前研一は下記の記事で以下のように述べています。
どんなに有効な少子化対策を打って出生率を高めても、間に合わない。とすれば50万人のギャップを埋めて、日本の長期衰退を回避する方法は1つしかない。「移民政策」である。
『長期衰退を止めるには移民政策しかない』2013年9月30日号
大前研一の論旨は明快です。
日本は衰退するから移民を大量に入れることでくいとめろと。
つまり、経済力と引き換えに移民を入れて現在の日本の国柄を解体しろと言ってるわけです。(これがイノベーション?笑)
もちろん大前は「移民」という言葉に対しての反論を想定しているのか以下のように付け加えています。
90年には、「日系」にこだわって、日本国籍を持たない日系外国人に定住者の在留資格を与えている。ブラジルやペルーなどから多くの日系人(パスポートを偽造したインチキ日系人を含めて)がやってきたが、廉価な労働力として扱われただけで、日本人に同化してもらうための移民政策には程遠いものだった。
その後、「失われた20年」を経て日本社会はすっかり内向きになり、移民政策をまともに論じなくなった。「移民を入れたら犯罪が急増する」「日本中を新大久保にする気か」と石原慎太郎前東京都知事に一喝されたら終わり。今日のようにネット右翼(ネトウヨ)が跋扈し、外国人に対してヘイトスピーチが垂れ流される時代には議論はさらに難しくなる。
しかしデモグラフィには10年後、30年後の未来図が映し出されているわけで、衰退が見えていて何もしないのは、行政府および立法府の怠慢でしかない。
『長期衰退を止めるには移民政策しかない』2013年9月30日号
彼が言っているのは、「日本に移民を入れたら治安の悪化などデメリットが多いと言われているが、そんなことを放置している間に10年後や30年後とんでもない衰退が待っているだけだ。移民政策をやらないのは行政の怠慢」との事らしい。
これまた、「元マッキンゼー」の人に言われると「そうなのかもしれない」と思うでしょう。
ただ、大前研一も含めたグローバリストには致命的なまでに欠落していることがあるんです。
「国力=金の量」「国力=経済力」でしか見れてないんです。もう病気ですね。
これは、勝間和代や竹中平蔵含め多くのグローバリストに見られる共通項です。
確かに、人口を増やせばGDPは増えるのかもしれません。平均所得も伸びるでしょう。
しかしながら、それ以外のものはすべて衰退していいんでしょうか。
今すでにフランスは移民の受け入れを必死になって食い止めています。
ドイツのメルケル首相は移民との共生は不可能と宣言しました。
トランプ大統領も移民の受け入れを抑制しています。
ここで何が言いたいのかというと、移民がどうこうというのは二次的なものです。
「元マッキンゼー」のお偉いさんともあろう方が全世界的に失敗していることをやれと断言しているのです。
あてにならないのは大前研一だけではありません。事態を矮小化すべきではありません。
今日本で「頭の良い人」と言われている人のほとんどが無茶苦茶なことを言っているということなんです。
だけどチリも積もれば山となるのか、、これらの声の方が主流的になっています。
「国を捨てろ」
「国に外国人を入れて経済活動を活発にしろ」
彼らの権威に騙されてはいけません。
グローバリストの2本柱「日本はダメになるから海外マネーを呼びこめ。そして移民を入れろ」と「日本はダメになるからアジアに売って出ろ」は断じて受け入れてはならないんです。
一つ目は国柄の解体で、二つ目は姿を変えた帝国主義です。
■これが正しい20代の過ごし方ではないか
ちなみに私が最近になってようやくこの手のオピニオンリーダーから受ける洗脳を脱却できたのには理由があります。
理由は一言で言いますと本当に偉大な人物に出会えたからと言えば良いでしょうか。
具体的には古代の賢者に学べたからですね。
ここで、ようやく冒頭の結論に戻ってきます。
20代の過ごし方って結局歴史を超えて残ってきた古典を読むことから始めればいいんです。
それが私の結論です。
もちろん「古典だけ四六時中読め」とかそんな堅苦しい話はしません。
しかしながら、本当に偉大な著者が語る世界は大前研一や竹中平蔵、『金持ち父さん』なんかとは格が違うことを知って欲しいのです。
古今東西歴史を通して多くの智者が語ったことはそんなに違いません。人間としての「常識」があるんです。
ゲーテは孔子と同じことを言ったり、ニーチェやセネカは鴨長明と似たようなことを言っています。どこかで世界中の歴史がつながっているんです。
古典を読むことで、同時に大前研一だか竹中平蔵だかが言ってることはこれまでの人類でむしろ「誤り」とされてきたことを言っているとわかるでしょう。
もし日本人の多くがこのまま気付かないとしたら不感症です。そのまま国も滅びるでしょう。
狂人のみが、壁を修繕するのに必要な土を採るために、家の土台を掘り崩したり、爆破したりするのです。
サミュエル・T・コールリッジ『コールリッジ談話集』(2001)旺史社
くどいですが、20代の過ごし方がわからないのであれば古典に学べばいいんです。
時代の転換期なんて今まで山のようにありました。
その時に頭のいい人はどうしたのか?
そう考えれば古典は古い本ではありません。
下記は「グローバル時代だ!」と馬鹿騒ぎしている人に落ち着いてゆっくり読んでもらいたい本の一節です。
さまざまな世代が、自分たちの経験を、同一の叙事詩や詩の形態で、同じ芸術のジャンルで、同じ象徴さえ用いて、違ったやり方で記録した。その結果、神話と伝説とのつぎはぎ細工が生じ、共同体の歴史の「科学的な」記述に迫ろうとすれば、しばしば恐ろしく骨の俺る取捨選択を余儀なくされるような資料が、増大した。しかしそのような場合でも、このような大量の神話の供給は、科学的な「客観性」を目的とするものではなく、社会的連帯や社会的な自己規定を支えるための、感情的・美的な首尾一貫性の提供を目的としている。
エトニとは、共有された記憶の上に作り上げられた歴史的共同体以外の何物でもない。共通の歴史を持つという意識は世代を超えた団結に絆を作り出す。それそれの世代は、自分たちだけの一連の経験を持ち、それはこの共通の歴史に加えられていく。共通の歴史を持つという意識はまた、自分たちが経験してきた時間の連鎖の中で、人々を想定し、それはのちの世代に、自分たちの経験の歴史的な見方を教える。
アントニー・D・スミス『ネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察― 』アントニー・D・スミス(1999)p32 名古屋大学出版協会