突然ですが、「有名なビジネス書をあげてほしい」と読書をよくする人に尋ねたとしましょう。
するとどういう本が上がると思いますか?
『金持ち父さん 貧乏父さん』がその一冊なのですが、それと並んでよく上がる本があります。
『7つの習慣』と言う本です。
上記の二つは世界でもっとも売れたビジネス書の二つとされビジネスの世界で成功したくて読まない奴はいないとまでいう人もいるほどによく読まれています。
さて、そんな『7つの習慣』は基本的に好意的なレビューが多いこともあり無批判に読まれることが少なくありません。
しかしながら、批判がないところに名作は存在しないと私は考えています。
かのニーチェが述べたようにより深い理解やより深い尊敬は徹底的な批判を持ってなされるべきだという考えに則るならば、世界で名をはせるコーヴィーのベストセラーに挑むことは避けては通れないのです。
今日は、『7つの習慣』を批判的に読み込んだその結果とこれを読むにあたっての注意点について書いていければと思います。
■目次
▶『7つの習慣』が前提とするものについて
▶『7つの習慣』の危険性
▶『7つの習慣』が好きな人に伝えたいこと
■『7つの習慣』が前提とするものについて
『7つの習慣』は人生を後悔なく過ごしたいと考える多くの人々にとって長年にわたって人気を保っています。
ただ、その本の描いている世界観には数少ない前提があることを見落としている人が少なくありません。
例えば、その大きな例の一つとして「我思うゆえに我あり」でおなじみのデカルトが作り出した世界観をあげることができます。
デカルトの「我思うゆえに我あり」とは咀嚼すると下記のようなテクストになります。
「今や徹底的に物事を疑ってみてわかったことがある。
周囲のあらゆるものは疑わしいものかもしれないということだ。
だが唯一揺るがないものがある。
それは疑いという行為自体を行っている「我」である。」
実は、この考えにのっているのが、ここであげているコーヴィの『7つの習慣』なんです。
そしてこの世界観はほぼ全てのビジネス書に引き継がれていると言っても良いでしょう。
私の主張を後押しするかのように、コーヴィーは第一の習慣で人生の「主体性」ということを非常に重要視する趣旨の発言をするのです。
私たちは、自分の身に起こったことで傷ついていると思っている。しかし実際には、その出来事を受け入れ、容認する選択をしたことによって傷ついているのだ。
『7つの習慣』スティーヴン・コーヴィー
また、それを根拠づけるものとして、コーヴィーは前半部分の中で「インサイドアウト」という概念を提唱します。
これは状況を変えたければ自分が変われというもので、社会や他人のせいにしている間は人生における成功は掴めないというものです。
この考えは言わずもがな現在主流的な「自己啓発書」「ビジネス書」が大いに引き継いでいる箇所であることはおわかりいただけるでしょう。
デカルト哲学は無意識的にかもしれませんが、今本屋に積まれる多くの本の中で生きているのです。
ここまでの話をわかりやすくまとめるとこうです。
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『7つの習慣』はあらゆるものに疑いを持ったであろうコーヴィーがたどり着いた結論でもある「自分だけが疑いなく存在している」というデカルト哲学を前提にしている。
そして、この前提を元に「主体性」という名の下、自らを変えることで人生の「成功」を掴もうという今なお多くのビジネス書に主流的な発想は生まれた。
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■『7つの習慣』の危険性
続いて『7つの習慣』の批判をいよいよ書きたいと思います。
ただ、その前に少し補足が必要なのでお付き合いください。
ここまででちょいちょい名前を挙げてきたデカルトという人物についてです。
私みたいに四六時中哲学に明け暮れている人とは異なりあまりご存知ない方も多いでしょう。
彼は何者なのか?それに対して端的に答えると「近代哲学」(近代思想)の生みの親なのです。
思想史においてデカルト以前と以後では大きく異なるのです。
そういうわけで、デカルトが生み出した近代哲学が生まれた「近代」とはなんなのか?を説明します。
これについては書き出すと一冊の本が出せるレベルですので、ここでは端的に述べるにとどめます。
近代というのはそれまでの時代と明確に異なる点が幾つかあるのですが、その筆頭に「神の死」がもたした信仰心の消滅が顕著となった時代だと指摘することができます。
現代人にとってはリアリティに欠けますが、近代以前の時代にあっては神が人々の考え方及び行動に至るまでをすべてを支配していたのです。
例えば、「汝〜すべし」という教義にほとんどの人が縛られていました。
この神というものの存在に疑いをもち、「我」しか信じるに足りないと述べたのがデカルトなのです。
*その萌芽はセーレンキルケゴールだけど。
だから、わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである。
『方法序説』ルネ・デカルト(1997)岩波文庫
彼は「理性」という概念を持ち出し、これが人間たらしめるものであると述べました。
「神が人間を存在させている」という考えと決別をしたのです。
ここが極めて人類史においてもターニングポイントなのです。
さて、『7つの習慣』の話に戻りましょう。
すでに述べた通り『7つの習慣』は「神の権威を破壊したデカルト哲学」を前提にしています。コーヴィーの著書に「神を信じよ」とは出てきません。
要するに、コーヴィーは一つの無神論を提示しているわけです。
ある種「現世の哲学」と言っても良いかもしれませんが、神がいない中でどうするか?それに対する一つの答えを『7つの習慣』は提示したのです。
もちろんここでいうコーヴィーの出した答えとは自らの習慣形成を通して世界に対応するという決意ですね。
さてここでようやく批判に入れるわけですが、このコーヴィー哲学の根本を私は批判したいのです。形而上学的なものを信じない人間はロクデモナイと。
例えば、チェスタートンという作家がいるのですが、「信仰心」を失い「理性」のみを頼りとした場合の危険性について以下のように述べています。
狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。
『脳病院からの出発』ギルバード・K・チェスタートン(2009)春秋社
チェスタートンはこの著書の一節で理性しか信じられない人間は狂人だと述べているわけです。
一般的に「神を信じている」となんの装いもなくいう人の方が狂人認定される今日にあってこの発言は信じられたものではないかもしれません。
ただ、彼の思想を理解していくにつれそのまっとうさに気付かさせられるのです。
彼の指し示したそのまっとうさは実は多くの思想家に共通して見られます。
その共通点とは「人間は間違える」という前提から物事を考えるというものです。
これは、人間理性を絶対化したあの名言「我思うゆえに我あり」とは対極に位置する考え方です。
もちろん『7つの習慣』はこの前提を取り入れると本の論旨が破綻します。
「人間は理性を正しく行使さえすれば正しく考え、正しく行動できる」というのがデタラメだとチェスタートンは指摘したのです。
エドマンド・バークという人もチェスタートン同様に著書の中で下記のように述べます。
固定観念の中でも、長らく存続してきたものや、多くの人々に浸透しているものは、分けても尊重されるべきだと考える。
誰もが自分の理性に従って行動するのは、社会のあり方として望ましいことではない。ここの人間の理性など、おそらく非常に小さなものに過ぎないからである。国民規模で定着したものの見方や、時代を超えて受け継がれた考え方に基づいて行動した方が、はるかに賢明といえるだろう。
『フランス革命の省察』エドマンド・バーク(2011)PHP研究所
ルター、キルケゴール、ゲーテ、アーレントをはじめとして、多くの偉大な思想家はその生きた時代において「人間は間違いを犯す」という考えを共有していました。
モンテスキューは権力集中を警戒し、バークはフランス革命を批判しました。
アーレントはナチスドイツや原子爆弾を生み出した人間の愚かさを指摘しました。
彼ら・彼女らは危険な水域になる前にブレーキをかけてくれる信仰を「合理的」なのだと考えていました。
コーヴィーの作り出した『7つの習慣』の批判点はまさにここです。
その危険性を改めて一言で言えば人間理性に対する過信ですね。
それがいたるところで貫徹されています。
一見すると確かに『7つの習慣』には美しいことが書かれています。
しかしどうでしょう。この理論を実行したらイメージしていたのとは180度異なる結果になるということは想像に難くありません。
■『7つの習慣』が好きな人に伝えたいこと
『7つの習慣』について批判的な文章を今回は書いてきました。
理性を過信する考え方からはろくな考えが出てこないと。
例えば、コーヴイーの考え方は究極的には『金持ち父さん』に近く「金持ちになること」が人生における成功であると暗黙の前提があります。
しかし本当でしょうか。
そのような結論がなぜ断定できるのでしょうか。
そもそも論として「成功」をなんの了解もなく、臆面もなく、その言葉を使えてしまう神経に私はついていけないと言う立場です。
他にもたくさんありますが、そろそろ筆をおかなければならないので、まとめに入ります。
デカルト哲学を批判した数少ない哲学者にカールヤスパースと言う人物がいます。
この人の思想をぜひ読んでみてください。
彼は、デカルトと歩いた道は途中までは同じでしたが、出した結論はまったく異なるものでした。
経験的に考えられた、「我れあり」についての懐疑は懐疑そのものの思惟作用によって直ちに解ける。私が疑うことは、私がこの瞬間にそこにあることをそれ自身のうちに含んでいる。
『哲学』カール・ヤスパース(2011) 中公クラシックス
彼は、思考の中断を拒否しました。
「我あり」という結論を出すことの危険性に気づいていたのかもしれません。
己れの反省が終わることのないという絶えざる危険をいだいて、可能的な自己存在のいわば不可欠の関節としてのすべてを完全に疑問視し、かくして自己が無制限の公開性を敢えてすることによって、初めて実存は自己に到達しうる。
『哲学』カール・ヤスパース(2011) 中公クラシックス
なんらかの結論を出すことに意味を見出すのではなく、絶え間のない反省こそに意味があると彼は述べたのです。自分の知らぬ自分ということの検討を常に継続する必要性を重視しました。
そして、彼はその反省には神はもういないので、他者への愛を通して行うべきだと述べたのです。
真なるものは私にとってのみならず真なるものであり、私は他人を愛することによってでなければ、自らを愛することはできないのである。私が私だけでいるならば、私は荒廃するに違いない。
『哲学』カール・ヤスパース(2011) 中公クラシックス
『7つの習慣』を読んで人生における「成功とは何か」に答えを出した人にはぜひカールヤスパースを読んでもらいたいですね。
そしてその生き方を体現したと言われるソクラテスの著作も合わせて。
そうすれば、愚かな近代の世界観にとらわれていたことに気づくことでしょう。