この記事を書いている本日、入管法改正が参議院でも通過し、騒ぎに騒いだ法案もついに正式に成立となりました。
改正内容を見る限りこれまで以上に移民が増えることは間違いなく、世界的に移民政策が総じて失敗に終わる中で「周回遅れの移民政策」を安倍政権は始めたとして後世に語られることは避けられないでしょう。
しかも法案の詳細は「政令」で決められるという事実上の内閣への白紙委任法案のため何が起きてもおかしくはありません。
さて、この入管法の改正については問題が星の数ほどあるのですが、本日はその内容については割愛いたします。
本日取り上げたいのは、外国人に対して異常な嫌悪感を示してきた安倍真理教の方々についてです。
入管法の改正という名の「移民政策解禁」はこれまでそのほかの政策では「財務省の陰謀で安倍さんは動かされている」とか「アメリカのいいなりにならざるを得ないが安倍さんはそんなことを思っていないはずだ」などごまかしにごまかしてきたカルト信者も擁護のしようがないほどに決定的に袂を分かつ法案でした。
これで「安倍政権は反日パヨク」と言い始めるはず、、、、、なのですが、どうもそうはいかないようです。
教祖様が最大の裏切り行為をしたわけですが、洗脳はまだ解けていません。
今日はカルト化した安倍支持者がなぜ考えを改めることができないのかということを記しつつ、今後彼ら・彼女らの行く末について書かせていただきました。
最大の裏切り行為をもってもなお安倍政権を支持できる理由
いろんなSNSにカルト化した安倍真理教の信者というのはいるのですが、プロフィールに色々書いている中で多くの人が書いているものがあります。ここでは個人を批判したいわけではないので、個人のアカウント名がわからない範囲で
それは「移民反対」です。
一例としては例えば下記のようなアカウントがあります。
安倍総理支持という文言とともに紹介文には「移民反対」と書かれています。
この手のアカウントというのは非常に多く「安倍さん=愛国保守=中国や韓国含めた外国人から日本を守ってくれる」という認知があるようです。
しかしながら、冒頭に前振りした通りですが、入管法改正が正式に成立しましたので、「安倍総理支持=移民反対」という論理は破綻しました。
通常ならば裏切り者として反乱でも起きるものですが、これに対する反応が常軌を逸しているんですね。
このアカウントでは「入管法改正おめでとう御座います」という投稿があったのです。
このアカウントが極端な例かと思われても困りますので、このアカウントをたどって他の方も拝見したのですが、なかなかのインパクトです。
下記はその方のアカウントをたどって見つけた別アカウントです。
安倍政権の行なっている政策通りのものもあるのですが、「法人税増税」を支持する旨の記載があります。
しかしながら、安倍政権は別記事でも記載しましたが、法人税を一貫して減税しています。これについては以前別記事で述べましたので詳細は割愛します。
他にも消費増税反対と言いながら支持しているアカウントなども散見されました。
ちなみにこの手のアカウントを定期的にモニタリングしていると面白いことがわかります。
安倍政権が自らと違う政策を可決したら安倍政権を批判するのではなく「自らの認知を曲げる」という方向に走るのです。
ここ非常に重要です。
例えば先のようなプロフィールも「移民反対」を消しているアカウントがそれなりにありました。(スクショを残していないのでエビデンスと言われると困りますが。。。)
これが何故安倍政権が自らの考えに相反する政策を進めようとも支持できるかに対する一つの答えとなるのではないでしょうか。
ブラック企業でメンタルを死ぬほど詰められた方が「自分が悪いんだ」と解釈して自殺をしたり、精神病院に行くのと構図は同じです。
ハンナ・アーレントという今日でもなお全体主義に対する洞察として最も参照される女性思想家がいるのですが、彼女は『全体主義の起源3』においてナチスに対してカルト化した人々を下記のように述べます。
・・・・何よりも軽蔑する常識と日常性から逃れるためだけに自分の人生を馬鹿げた概念の教える方にはめようとまでする彼らのこの情熱的な傾倒であった。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1974) みすず書房p 21
カルトが野放しになる最大の理由
では安倍真理教というカルトが現代社会において蔓延する理由はなんなのでしょうか。
お金をもらっているといったことがあるなら別ですが、御用学者などを除けばこれほど支離滅裂な安倍政権を「あえて擁護する理由」などどこにも本来はありません。
その理由を私なりに考えてみました。
これはもちろん一つではないというのは承知の上で書きたいと思いますが、自身の中で<自分自身>と一致させる基盤が崩壊しているからなのではないでしょうか。
この<自分自身>というのを作り出すのはもちろん「常識」です。
常識自体はどこで体得されるかというと自分が生きる「コミュニティ」から獲得されます。
つまり、「常識」を生み出す共同体が世の中から失われていっていることによって「馬鹿げた」カルト宗教に自らが汚染されやすくなっているという話です。
先の『全体主義起源3』においてアーレントも同様のことを指摘しています。
常識の現実感覚に対する、また常識にとっては世の常として信じられそうに思えることに対する大衆の反逆は、アトム化の結果であって、大衆はアトム化によって社会の中に居場所を失ったばかりか、常識がそれにふさわしく機能しうる枠組みをなしていた共同体的な人間関係の全領域をも失ってしまったからである。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1974) みすず書房p 81
もちろん今私が述べた考えにご納得いただけない方もいるでしょう。
それについてはおそらく立場の問題だと思います。
私はあくまで、自我が先にあって社会に入って行くのではなく、社会に入って行く中で自我が形成されるという立場をとります。
それゆえにその社会が壊れていけば行くほど自我が危うくなるという立場をとるわけです。
少し話が逸れましたが、まとめます。
確かに安倍真理教というカルトの信者は「バカ」で終わらせてもいいことです。しかしながら、私としてはもっと広く物事を見てみたいという心情にかられます。
そういう意味で、もっと根深い問題としてこれが増長してしまう社会の問題点に目を向けたいのです。
共同体の崩壊が馬鹿げた理念へと人々を動員してしまうという近代化の延長で安倍政権が暴れ、その信者は支持し続けているのです。
安倍真理教のこれから
さて今後安倍真理教はどうなるのでしょうか。
おそらく、時が経てば崩壊するか自然消滅するかと思います。
しかしながら、「安倍真理教的なもの」と「それに動員される信者」という構図は存続するでしょう。
それが橋下維新なのか進次郎なのかはわかりませんが、少なくとも「同じ類のもの」であることは間違い無いでしょう。
なぜこのように私が考えるかと申しますと先の章で述べたように根本的な問題に取り組まないからです。
それはもちろん「常識」の基盤となる共同体の崩壊という問題です。
もちろんこの問題は明日に解決できるというものではありません。
ただ、一つの方向として肝要なのが「一人でも多くの人が社会を作るという意識を持つ」ことが大事です。
自己を社会から孤立させるのではなく、常に自己を社会と調和させられるような心がけと行動が求められるのです。
「カルト化する安倍真理教のようなもの」はそれでもって徐々に無くしていけると思います。
他にもいろいろ書きたいのですが以上となります。
下記は本記事を書くにあたってインスピレーションを得た書籍になります。参考までに記載いたします。