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学びについて

アドラー心理学の問題点

更新日:

 

アドラー心理学というのが少し前から流行しています。

『嫌われる勇気』という著書がおそらく火付け役だったと思われますが、出版不況と言われるこのご時世では珍しく数百万部も売れました。

 

 

そして、驚くべきは、その後も一時のブームで終わるのではなく、今日に至るまで、大量のアドラー心理学に関連した本が出されているところです。

 

 

現代社会において、なぜアドラー心理学がこれほどまでに流行するのでしょうか。私は3つほど理由があると考えています。

 

 1つ目が現状の悩みに対して解決策を与えてくれるからでしょう。とにかく今は悩みがある人がかなり多いですからこれが登場した時に非常にありがたい存在だったことでしょう。

 

 ただし、これだとその他の自己啓発に関する本と変わりません。ですので、2つ目と3つ目の理由が重要になります。

 

 その、2つ目の理由ですが、アドラー心理学が流行したのは、そういった我々の悩みを解きほぐす言葉に「学問的権威付け」があったからだと考えられます。

 

 

要するに、学問として認められたものが我々の悩みを解決してくれるという安心感が多くの人にとってありがたいものだったのです。

 

 

 

 そして、最後の3つ目も大事なのですが、「非常にわかりやすいもの」というのも理由に挙げられます。後述しますが、アドラー心理学というのは非常にわかりやすくその理論については数行あれば説明できるほど簡潔にまとめられます。

 

 

 

 「わかりやすくて我々の課題を瞬時に解決してくれるツールである」

これだけ聞くといいことづくめということになるでしょう。しかしながら、アドラー心理学には危険な側面があることをご存知でしょうか。ついつい我々は学問化されていると聞くと「常に成り立つすごいものだ」とさえ思ってしまいがちです。しかし、これこそが危険なのです。

 

 

 本章ではそれについて理解する上でおすすめの一冊をご紹介いたします。ご紹介するのは、カール・ポパーの『推測と反駁』という著書です。

 

 

ポパーはこの著書で、科学と似非科学がごちゃ混ぜになっている現状を批判しています。つまり、「科学」とは言い難いものが科学の変装をして当該ジャンルに紛れ込んでいるというのです。

 

 

 その筆頭にアドラー心理学があると彼は考えています。

 

 

そこで、本章では、ポパーのエッセンスを抽出し、それを通して昨今流行りのアドラー心理学を批判的に読んでいただくきっかけにしてもらえれば幸いです。

 

アドラー心理学が似非科学である理由

 早速ですが、ポパーがアドラー心理学が科学のフリをした似非科学であると考える理由を見ていきましょう。結論から申しますと、(冒頭にも少し触れましたが、)似非科学たる理由は、そのわかりやすさにあります。

 

 

 

 アドラー心理学とは何かについてご存知のない方向けに端的に述べますと、この心理学は人間がある行動をとっている理由について「何らかの目的があって」その行動をしていると理解する心理学です。

 

 

 

 

その違いはフロイトの心理学と比較するとわかりやすいかもしれません。フロイトの場合は、人間がある行動をとっている理由について「何らかの原因があって」その行動をしたと理解します。

 

 

 

 

だから、例えば、引きこもりの人がいたとして「会社で嫌がらせを受けたから」と考えるのがフロイトで、「引きこもった方が楽だから」と考えるのがアドラー心理学です。

 

ここまで単純化するとフロイトやアドラーの心理学を専門とする方に怒られそうですが、理論の中心に異論はないでしょう。

 

 

 さて、このアドラー心理学を似非科学だとみなすのがポパーの立場です。なぜならばこの形で打ち出された理論には反証できる可能性が存在しないからです。

 

「反証可能性」というのはポパーの考えの中心部分なのですが、アドラー心理学にはこれが存在しないと彼はいうのです。

どういうことかといえば、全人間の全行動がアドラー心理学で説明できてしまうのです。アドラー心理学を使えば、いかなる反論も受け付けないことができます。

 

そして、まさにこの事実ーこれらの理論がうまく当てはまり、常に確認されるという事実ーこそ、その信望者の眼には当の理論を支持する最強の証拠を提供するものだったのである。しかし、そうした見かけ上の強さが実は弱点なのだということが、わたくしには徐々にわかり始めていた。

『推論と反駁』カール・ポパー (2009)ウニベルシタス p61

 

 ただし、ポパーはここにもあるようにその「全能性」こそが多くの信奉者を生産する一方で、致命的な欠点だと言います。ポパーとアドラーと個人的に知り合いの関係にあったのですが、『推論と反駁』には二人の興味深いやりとりが紹介されています。

アドラーについていえば、わたくしはある個人的な経験を忘れることができない。一九一九年のある時、わたくしは格別アドラー的とも思われないような一事例をかれに報告したことがある。しかし、かれは、その小児患者を見たことさえないのに、自分の列島理論によってその事例を事も無げに分析して見せたのである。

『推論と反駁』カール・ポパー (2009)ウニベルシタス p59

 

 

 この例を見ればわかりますが、アドラーの中では話を聞く前から答えが出ることが決まっています。彼の中では人間の行動の意味について聞かれた時に「わからない」と返ってくる可能性はありえません。

 

この答えがいついかなる時にでも瞬時に出せるという魅力は当の生み出した本人たちも自身の理論に自信を持つ最大の源泉だったようです。

 

 

アドラー心理学が危険な理由

 さて、アドラー心理学の危険な点はここまでくれば明快でしょう。一言で言えば思考停止に人を導くのです。

 

何でもアドラー心理学だけで説明できてしまうという短絡的な思考にあなたを導きます。

例を挙げると、「あなたが仕事でうまくいかない理由」も「上司がむかつく理由」も「妻との関係性がうまくいかない理由」も「あなたのけつがかゆい理由」も全てアドラー心理学を取り扱う人間からすれば瞬間的に説明できます。

 

・・・考えうるあらゆる事例がアドラーとか、同じくフロイトとかの理論によって解釈できるという事なのだから、とわたくしは考えた。この点は、二つのきわめて異なった人間行動の例で示すことができるだろう。すなわち、子供を溺死させようとして水中に投げ込む男の行動と、子供を救おうとして自分の生命を犠牲にする男の行動である。この二つの事例の何れもが、フロイト理論、アドラー理論のいずれをとっても同じくらいに容易に解釈することができるのである。フロイトによれば、最初の男は(たとえばエディプス・コンプレックスの一部を構成している)抑圧に苦しんでいるのであり、第二の男はその昇華に成功していることになる。アドラーによれば、最初の男は劣等感情に支配され、そのため犯罪さえもあえてお菓子うることを自ら証明する必要に迫られているのであり、第二の男も劣等感は持っているが、かれの必要としているのは、あえて子供を救助できることを自ら証明してみせることである、ということになる。わたくしには、この双方の理論によって解釈できないような人間行動など考えることができなかった。

『推論と反駁』カール・ポパー (2009)ウニベルシタス p61

 

その良し悪しを論評するつもりはありませんが、少なくともアドラー心理学は宗教と同じカテゴリーに入ってくるというのが理解いただけますでしょうか。

 

なぜなら、アドラー心理学を信奉するには全現象および全行動に対してあらかじめ答えが決まっているという前提に立つ必要がありますから。

 

この事例が教えてくれるのはアドラー心理学を信奉するということは「神が言っているから」という人たちを「オカルト論者だ」と笑い飛ばせないことを承諾するということなのです。

ポパーが述べる「科学的」なもの

 では、ポパーはどういったものを「科学的」だと考えるのでしょうか。端的に言えば、「反証できるもの」こそが科学的なものだというのです。

換言すれば、有意味な命題とは、可能な事態を記述し、原理的には観察によって確定ないし反証されるような、単純な要素命題あるいは原始命題へ、完全に還元できるのである。・・・それ以外の見かけだけの命題は無意味な擬似命題であって、実際ナンセンスなたわごとということになろう。

『推論と反駁』カール・ポパー (2009)ウニベルシタス p68

 

 このポパーの結論は少々意外に感じる方もいることでしょう。なぜなら、私も含めた多くの人が、誰によっても反証できず、常に当てはまるからこそ、「科学」と呼ばれていると考えるからです。

 

 しかしながら、ポパーは反証可能性がないものは科学ではなく宗教と変わらないと考えていました。ポパーがなぜこのように科学を定義するかと言えば、彼が世の中を我々と正反対の角度から見ているからです。

 

彼は世の中を時間的にも空間的にも常に変化していくものだと捉えていました。それゆえに、ある単一の理論が時代の変化を通して全く役に立たなくなりうると思う方が良い意味でも悪い意味でも理にかなっていると考えていたです。

 

わたくしの答えはといえば、将来は極めて重要な多くの点で過去とは非常に違ったものになるだろう、と信ずるほうが理にかなっている、ということである。将来が多くの点で過去に似たものになるだろうし、よくテストされた理論が妥当し続けるだろう、と仮定した上で行為する事が完全に理にかなったことであることは認める。(行為を理由づけるにはそれ以上に良い過程などあり得ないのだから。)しかし、また、そのような行為の過程が時には重大な困難をもたらすと信ずることも、理にかなったことなのである。なぜなら、われわれの現在頼りきっている法則のいくつかが、実は頼りにならないものである事が容易に証明されるかもしれないからである。

『推論と反駁』カール・ポパー (2009)ウニベルシタス p96

 

 一方で、アドラー心理学の場合はこれとは逆なのはお分かりいただけるでしょう。全人間の全行動が全て瞬時に説明できると考えていますから、世界は固定化して何もかも変化しないという前提にたちます。

 

 どちらの立場にたつかは個々人の好き嫌いによって決まるレベルかもしれませんが、少なくともポパーの方が私にはリアリスト(現実主義者)に見えます。

 

 彼の結論は、「あるケースでは当てはまるがこのケースには当てはまらない」といった柔軟な思考をしましょうという常識的なものです。複雑で難しいこの世界を「簡単に」説明しようとするものはその魅力と引き換えに視野を狭くするリスクを抱えています。

 

 心理学により人生が変わった人は今改めて冷静になってみても良いのではないでしょうか。

 

こくち

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