「今の日本人は愛国心が足りない。」
昨今、そのような発言とともに嘆息する方々がおられます。
「愛国心」が薄まったと考える理由はなんでしょうか。
例えば、それはグローバル時代にあって国家というものへの意識が低くなったからなのかもしれません。
また、「愛国心」などなくても生活できるからなのかもしれません。
何れにしても「愛国心」というものが薄まっており、それを強化する必要性を感じている人が一定数いるのでしょう。
ところで、今、「愛国心」「愛国心」と書いていますが、愛国心がどういうものかと聞かれて「〇〇なものである」と答えられる人は意外と少ないのではないでしょうか。
国を愛する心だというのはわかるがそれ以上にと言われると困るというのが「愛国心」です。
さて、この「愛国心」について考え抜いた本があります。
それは幸徳秋水の『二十世紀の怪物 帝国主義』という著書になります。
幸徳秋水というと社会主義者や無政府主義者として有名であると同時に、教科書にも載っている明治天皇暗殺を企んだとして死刑にされた*大逆事件でも有名です。
それゆえに、テロリストのようなイメージがつきまとってか若干嫌煙される方です。
しかしながら、その著書を読むと非常に常識的なことを書いています。
本章では、「愛国心」という切り口から幸徳思想の一端をご紹介できればと思います。
*今日では大逆事件自体は言論弾圧のためのでっち上げだったとされている。
幸徳秋水が述べる「愛国心」の正体
まず大前提ですが、幸徳秋水は「愛国心」というものを徹底的に批判する立場に立っています。その理由は大きく3つの角度から見ることができます。
まず一つ目は、「愛国心」が誰かを助けるためであったり、慈善の心から生じるといった高尚なものではないということをあげます。
むしろ「愛国心」と叫ばれるものには利己的でいやしい心が潜んでいるというのが彼の分析です。
なぜなら、他国を愛すことができず、自国しか愛せないというのは、自分の利益のことしか考えられないことを表明しているのと変わらないからです。
愛国心が愛するのは、自国の土地に限られ、自国の民に限られている・・・上辺だけで中身のない名誉を愛し、自分や自国の利益を独占することを愛するのだ。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
続いて二つ目は、「愛国心」の根本にあるものが、他国や他者に対する単なる憎悪からきていることをあげます。
「あいつはむかつくから黙らせたい」「あの国はむかつくから黙らせたい」こう言った下劣な感情を正当化するために持ち出されるのが「愛国心」なのです。
国民の愛国心は、ひとたび自らの好むところに反する人を見つけると、その人の発信を封じ、行動を縛り、思想さえ束縛し、信仰にまで干渉してくる。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
実際、当時の日本では、「愛国」を喧伝する人と欧米各国を「敵」とみなす人が非常に重なっていました。
そして、最後の3つ目ですがこれが一番彼の主張の核心部分かもしれません。
大半の人を何の利益も得られないことに動員するにあたり、それを正当化する手段として使われることと彼は言います。
具体例として幸徳は度重なる戦争において政府債務を異常に拡大していく結果を正当化する際にも使われたと言います。
多くの敵を殺し、多くの敵の土地と財産を奪い取っておきながら、政府の歳入・歳出の総計は、そのためにかえって二倍にも三倍にも跳ね上がる。それを「国家のためだ」という。愛国心を奮い立たせた結果がこれだ。心強いものだな。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
なお時代背景を少し触れておきますとこの書籍は日清戦争後に書かれたものです。
つまり、幸徳には日露戦争や第二次大戦などが始まる前から今後起きるであろう悲劇が見えていたのです。
当時は日本の戦争勝利を肯定的に見るような論調が多かった中で毅然と批判できるというのは容易にできるものではありません。(だからこそ政府に危険視され死刑にされたわけですが。)
「愛国心」は帝国主義につながる
この下劣な「愛国心」の終着点が帝国主義だと彼は言います。
知らないのか。「帝国主義」の流行は、まさしくこんなやり方によって始まったのだということを。それは「国民の愛国心」、言い換えれば動物的な本能を刺激することによって生じたのだということを。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
帝国主義とは、文字通り帝国を築こうとする思想的立場を指すもので、具体的には領土拡張政策や他国の富を収奪する行動につながります。
大帝国の建設は、そのまま自国の領土の大いなる拡張を意味する。わたしは悲しむ。自国の領土を大々的に拡張することは、多くの不正を犯すことを意味し、道理にそむくことを意味するのだから。また、多くの腐敗と堕落を、そして結局は、落ちぶれて滅亡することを意味するのだから。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
ただし、このような自分を満たすために相手を苦しめることを厭わない帝国主義はそのままだと世論に受け入れられません。
そこであるものが必要になります。それが「愛国心」なのです。前章で指摘した通り、愛国心は大半の人にとってメリットがないことを行われるときにこそ動員されていました。
少数の軍人、政治家、資本家は、あわれむべき多数の国民の日々の生活を妨害し、その財貨を浪費し、その生命さえも奪うことによって、大帝国の建設を試みつつあるのだ。彼らは自国の多数の国民の進歩、幸福、利益を、犠牲にし、さらにあの貧弱なアジア人、アフリカ人そしてフィリピン人を脅かし、辱め、いじめつつあるのだ。にも関わらず、これを名づけて「国民の発展・増大」という。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
帝国主義と愛国心は非常に密接不可分な思想だというのが彼の主張の核心部分です。
「愛国心」が芽生えやすい社会状況
最後に、このような帝国主義にもつながる「愛国心」が生まれやすい社会状況について書きます。
もちろんいつの時代にもこのような「愛国心」は生まれうるのですが、それがより発生しやすい社会的状況があるのです。
それは、端的にいうと、資本主義のなかで格差が著しく拡大したタイミングです。
一般的に帝国主義は自国での経済成長が限界に達した場合に外国を開拓する手段として行われていると考えがちです。
資本家や企業家はなぜ、新市場の開拓を必要とするのか。彼らがいうには、「資本が豊かにあって、生産の過剰に苦しんでいるからだ。」ああ、なんという言い草だろう。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
しかしながら、幸徳の考えではそれは嘘です。国内において資本家が生産過剰に見舞われているのは生産物に対する需要が頂点に達したからではありません。多数の人民がそれを買うことすらできない格差状態だからだと言います。
資本家や企業家のいう生産の過剰は、本当にその生産物つまり商品の需要がないからではなくて、多数の人民がそれを買い得る資力に乏しいからにすぎない。購買力に乏しいのは、富の分配が公正さを失い、貧富の格差がますます拡大しているからに過ぎない。
『二十世紀の怪物 帝国主義 』幸徳秋水 (2015)光文社古典新訳文庫
特定の権力者や財力を持ったものが国民の窮乏状態に目もくれず私利私欲を突き詰める時代に帝国主義とそれに駆り立てる愛国心は叫ばれると幸徳は言います。
この話を踏まえると経済格差が広がり、「ワーキングプア」という言葉ももう当たり前に使われるほど勤労者の実質的な購買力が落ち続けている今の日本も色々と条件が整っています。
今後「愛国心」が叫ばれる流れがさらに強まれば帝国主義が再来する可能性があるということをこの本から今こそ学ぶべきなのかもしれません。