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【決定版】これが職場に現れる頭がおかしい人の特徴

更新日:

 

仕事場で「この人頭がおかしい」と思ったことはありませんか?

「頭がおかしい人」に出くわしたことがないという人は相当幸運ですね。

 

ただ、世の中一般として言えば職場で頭のおかしい人との遭遇というのは0で人生を終える人は少ないように思います。

 

人によっては、一人ではなく何人もとなることも少なくありません。

私も幸い社会に出てからは今の所ありませんが、バイト時代に頭がおかしいなと思う人に出くわしたことがあります。

 

そういった自分の経験もあり頭がおかしい人って何者なのだろうと最近興味を持つようになり研究をするようになりました。

何か彼らには共通の特徴があるのではないかと。

 

今日は試論として職場に現れる頭がおかしい人の特徴とそこから見えてくる多くの日本の職場から欠落しているものについて書かせていただきます。

ご笑覧下さいませ。

 

■職場に出現する頭がおかしい人の共通項

ひとくちに職場に出現する頭がおかしい人と言っても幾つか種類があるのではないかというのが一般的な感覚でしょう。

もちろん細部に見ていけばその通りです。

 

一方で、大枠で見た場合このおかしい人にはある特徴があるんですね。

それにたどり着くのに2年もの歳月を要したわけですが、今はこの考えがある程度的を射ていると思っています。

 

結論から申しますと、職場に度々現れる「頭がおかしい人」の特徴は、思考停止している人なのではないでしょうか。

思考が停止しているから、善悪の区別がつかなかったり、巨悪に加担してしまったりするのです。

 

 

例えば、今マクロ的に若者に*不評とされている会社の飲み会も職場にいる頭がおかしい人が主導する際に現れるものではないでしょうか。**実際ある調査では飲み会の場では「無礼講」などと無政府宣言をして違法なことをしてしまう人がいるようです。

 

 

今、飲み会というものを拾いましたが、これはone of themで仕事中であってもパワハラやごますりを強要するということも少なくありません。

 

常軌を逸したそのような人に対してあなたは理解に苦しむでしょう。そして下記のように思うのではないでしょうか。

 

「この人たちはどのような育ち方をしたらこのような悪人になるのか」と。

 

これに対する私の見解が「彼らは悪人ではない。ただ思考をしないだけなのだ」というものです。

つまり、思考停止しているから常軌を逸したことができるんですね。

 

 

これについて異論があるかもしれない。彼らは悪人のはずだと。

ハンナ・アーレントという思想家がいるのですが、彼女はその著書『責任と判断』の中で以下のように述べるんですね。

ほとんどすべての哲学者は、悪とは単なる欠如であり、否定であり、規則からの例外であると考えてきたのです。プラトンにさかのぼる推論の最も危険で、最も顕著な誤謬は、「誰も意志して悪を為す人はいない」という命題が、暗黙のうちにその結論として「すべての人は善を為すことを望む」を含んでいると考えることです。しかし悲しいことに、善を為すとも悪を為すとも決めることのできない人間が、最大の悪を為すのです。

『責任と判断』ハンナ・アーレント(2016)ちくま学芸文庫 p328

 

アーレントは何を述べているのでしょうか。

多くの哲学者は今まですべて人間が『善を為す人』と『悪を為す人』のいずれかへカテゴリー分類できると考えてきました。

しかし、現実はそうではないのです。最大の悪を為す人間というのは善を為すとも悪を為すとも決められない人なのです

 

実は、この分析は当時ナチスにおいて数百万人を殺害したアインヒマンに対する彼女の分析でした。

もちろん「悪党」にアインヒマンを仕立て上げたい世論から大いに非難をアーレントは受けるのですが、彼女はこの主張を変えませんでした。そして時を追うごとにその正しさが受け入れられました。

 

 

 

実は、アーレントの着想は彼女が敬愛するプラトンのソクラテスに関する物語からきています。

 

プラトンはある作品の中でソクラテスに「わざわざ悪をなそうとする人」はこの世にいないと語らせます。

どういうことかというと、一見絶対悪に見えるものもその時点では彼ら・彼女らにとっては「善」なのだということですね。

 

今も世界中でテロが起きていますが、テロを起こしている側も彼らにとっての「正義」や「善」で動いています。(擁護するわけではありませんが)

 

 

少し話が大きくなりました。この章をまとめます。

あなたの職場に頭がおかしい人がいてあなたはもしかすると毎日を苦しんでいるかもしれません。

それは辛いことでしょう。

 

しかしながら、その頭がおかしい人に対する分析を間違えないでください。

彼ら・彼女らは「悪を意志する人」ではありません。思考を停止した人なのです。

 

 

ちなみになぜこのようなことをくどくど書いているのかというと、あなたを苦しめるものが「得体の知れないもの」と考えるよりは「こういうものなのだ」と考えることで一部苦しみが解かれるからです。

かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。

 人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。

『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ(1995)ちくま学芸文庫

 

*不評の実態については下記の記事を確認ください。

一つのDODAのキャリアコンパスの方では、20代の若者にとって過半数程度がネガティブなものと見られています。

二つ目のマイナビの方では、年齢制限をかけていないものですが、7割近い人が飲み会をネガティブなものと考えています。

会社の飲み会、好きですか? 20代の本音を大調査!

会社の飲み会が嫌いな人の割合って? 嫌いな飲み会の対処法

 

**女性の受けたセクハラの調査について

それ、セクハラです! 女性が「職場飲み会」であった被害・6選

弁護士ドットコムに寄せられる職場におけるセクハラ被害のまとめ

https://www.bengo4.com/c_5/c_1623/c_1096/bbs/%E9%A3%B2%E3%81%BF%E4%BC%9A+%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%A9/

 

 

■なぜこうなってしまっているのか

では、なぜ「思考停止した人」は生まれてしまったのか、、、

 

これについて考えなければあなたが将来的に頭のおかしい人になりうる可能性が否定できませんし、また別の人に出くわした時に同じレベルでの苦しみを味わうことになるのです。

 

さて本題ですが、この頭のおかしい(思考停止した)人を職場が生み出す要因については、思考停止する理由を理解することで納得することが可能です。

 

では、思考停止はいかにして起きるのかというと行動判断や価値判断の基盤となる常識が喪失する時に起こります。

三権分立で有名なモンテスキューという人がこれは行ったことなのですが、我々の行動を決めるのは伝統や文化に裏打ちされた常識(自然法と彼はこの中では述べる)であると。

個々の知的存在は、その作った法を持ちうるが、しかし、作らなかった法もまた持っている。・・・実定法の存在する以前に、正義の可能的な関係は存在した。実定法が命じまたは禁ずることの他には、正なることも不正なることもないというのは、円が描かれる前には、すべての半径はひとしくなかったというのに同じである。

『法の精神』シャルル・ド・モンテスキュー (2016)中公クラシックス p9

モンテスキューというと『法の精神』を書いたことが有名なのですが、「実定法」と言う認識で彼の著書を読む人がとても多いん絵dすね。しかしながら本当に彼が言っているのはその実定法も含めて我々の社会を秩序あるものにしているのは常識であると述べているのです。

 

この常識というものを失った時、人間というのは危機に陥れられます。

実は、カトリック界の権威であるアウグスティヌスや宗教改革でおなじみのマルティン・ルターはこの常識の消滅を恐れたんですね。

 

 

さて、もう少し踏み込みます。

この「常識」はどのような時に失われるのか?

これは常識というものの特性を考えるとわかります。

 

常識というのは共同体における共通認識ですからそこには常に「他者」が存在します。

「他者」を意識しないところに「常識」は存在しません。

 

 

つまり、個人が分断され孤立する時そこには仮に人がいようとも常識が消滅するわけです。

ルターはそこで言っている。「そのような(つまり孤独な)人間はいつも次から次へと推論を行い、すべてを最も悪く考える」・・・

『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント みすず書房 (1974)p297

 

 

そしてここが私の主張の核心でもあるのですが、常識の消滅を誘引する個人の孤立は「労働を行う場」において生じやすいのです。

もちろんすべての労働とは言いません。

他者の介在を不要とする労働に従事する人たちに当てはまると言えます。

 人間生活は、たとえ自然の荒野における隠遁生活であっても、直接間接に他の人間の存在を保証する世界なしには、不可能である。

 確かに人間の活動力は、すべて、人々が共生しているという事実によって条件づけられているのだが、人々の社会を除いては考えることさえできないのは、活動だけである。

 例えば、労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく、まったく文字通りの意味で<労働する動物>・・ではあるが。

『人間の条件』ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫(1994)p43

アーレントが批判される時、今日とアーレントが描写した当時では時代が違うというものがあるのですが、確かにその部分が随所に見られることは事実ですが、本質的なところに置いて彼女の指摘は今もなお生きていると思います。

 

巨悪を為す人は善を為すとも悪を為すとも決められない思考停止した人間である。

そして、その思考停止は常識の喪失するところから誕生する。

常識は「他者との交わり」が存在しないところからは失われやすく、そのような労働に従事する環境においては顕著に頭がおかしい人を生み出す萌芽がある。

 

これが私の考えです。

 

 

■多くの日本の職場に欠落しているもの

それゆえに、そのような頭がおかしい人を生み出す職場に欠落しているものは一つです。

 

自由な言論活動が可能な公共空間です。

その場があるところに頭がおかしい人は激減するでしょう。

そして、仮にいたとしてそれを食い止めることができるでしょう。

 

逆に言えば、今もし職場におかしい人がいるとすれば、そこには言論の自由というものが存在しないのかもしれません。

 

実存の交わりがそこに「常識」を構築し、他者への「気遣い」を生み出す。

 

これは、アーレント、ヤスパース、ハーバマスを筆頭に多くの現代思想を司る方々が述べたことなのです。

 

本論考は以上です。多少なりともあなたの職場にいる頭がおかしい人の特徴について理解頂けたならば幸いです。

彼らを通して社会の闇を見ていただけるとまたことなった見方ができ彼ら・彼女らに慈悲を向けられるのではないでしょうか。

 

 

ありがとうございました。

*最後にこの記事にて引用しました参考文献を記載します。興味があればぜひご覧になってください。

読書会を大阪とスカイプで開催しています。

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