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今こそ読みたいハンナ・アーレント『暴力について』

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今日も一冊最近読み返した本で印象的だったものをご紹介させていただければと思います。

 

取り上げるのはアーレントの『暴力について』です。

この『暴力について』は、代表作である『人間の条件』や『全体主義の起源』などとは異なり、ジャーナリストとしてのアーレントの色が濃く出た一冊です。

 

その当時の時事ネタを考察した一冊です。

具体的にはベトナム戦争やプラハの春など1970年前後のネタが多いです。抽象度が高いアーレントの作品の中では逆に読みやすいと感じる人もいるかもしれません。

 

少し時事ネタが古いので、今更読んでもという感じがするかもしれません。

しかしながら、読んでいくとどうも今の日本で起きていることがまさに当時起きていたのだなと納得できる本です。

 

歴史は繰り返すというブルクハルトの考えはどうも正しいように感じてしまう、、、

それがアーレントの『暴力について』が教えてくれることかもしれません。

 

■『暴力について』が伝えることーエリートだからといって信頼できないー

エリートと聞いてどういう人を思い浮かべるでしょうか。

 

日本だと例えば以下のようなものが当てはまるでしょうか。

  • 東大を卒業している
  • 会社経営をしている
  • MBAをとっている
  • 大手企業で年収を1000万円稼いでいる
  • 外資系コンサルタント会社で働いている
  • 大学教授をしている
  • 政治家及び官僚をしている

日本型エリートは、まず高学歴であることを最低条件として、それなりに肩書きの立派な人であれば称号が得られるように思います。

さて、このエリートは学生時代から勉強ができると周囲から崇められ、経済的にも成功しているためどうも何もかも正しいと思ってしまいがちです。

 

しかし、『暴力について』はこれに反証することを教えてくれます。

つまり、エリートも過ちを犯すというあまりに当たり前の事実を克明に描き出しているのです。

そして、それに加えてエリートほど時に途方もない規模の過ちをおかしうるということも教えてくれます。

 

例えば、『暴力について』の下記の一節をご覧ください。

 敗北よりも敗北を認めることのほうが恐れられるこの雰囲気の中でこそ、テト攻勢やカンボジア侵攻の惨敗についての人を欺く声明がでっち上げられたのである。しかし、もっと重要なことは、このような致命的なことがらの真相が、ー他のどこでもなくーこの内輪の中では、「戦争に負けた最初のアメリカ大統領」になることをどうやって避けるかということについての心配と、次の選挙のことでいつも頭がいっぱいであることによって、うまい具合に隠蔽されたという点である。

『暴力について』ハンナ・アーレント(2000)みすず書房

少しだけ補足しますと、当時アメリカは第二次大戦に勝利し「地上最強の国」とも言える最強の国とされていました。

しかしながら、ここにあるテト攻勢やカンポジア侵攻において想像以上の苦戦を強いらます。(負けと言っても良い)

 

ただ、そのような1小国に大苦戦したなどと「地上最強の国」であるアメリカは認められません。

そうした流れの中でニクソンを筆頭としてアメリカ政府は嘘やデマを流し続け事実を隠蔽したのです。(アメリカ軍の劣勢具合)

 

 

これは、日本の第二次大戦期に見られた「大本営発表」に近似するものと言えますが、どうもこの手の政府による不都合な事実の隠蔽は日本に特有の現象ではないようです。

そして時代を超えて今日も世界中で起きています。

 

ところで、なぜエリートでありながら嘘をついてしまうのか?というところが気になるかもしれません。

それについて次の段で述べたいと思います。

結論から申しますとエリートこそ途方もない嘘をつきがちなのです。

 

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■『暴力について』が伝えることーエリートにとっては面子が何よりも重要視されるー

エリートにとって何よりも恐れるのは「敗北」と思われがちです。ただ、アーレントの指摘ではどうも違う。

「敗北」を認めることで面子を潰されることこそ彼らは恐れているとアーレントは述べます。

 

「面子」というもののエリートにとっての価値は権力の維持や経済的な利益などをはるかに飛翔することもあると『暴力について』では述べられています。

究極の目標は権力でもないし利益でもなかった。特定の明確な利益を得るのに役立つような世界における影響力ですらなかった。そうした影響力のためには、威信、「世界の最強国」というイメージが必要とされ、そのような意図をもって使用された。イメージそれ自体が目標となったのであって、まさにそれは問題解決家が劇場から借りてきた「シナリオ」や「聴衆」といった言葉において露わに示されている。この究極の目標のために、すべての政策は短期間で相互に取っ替え引っ替えすることのできる手段となり、そしてついに、あらゆる兆候が消耗戦における敗北を示すようになると、目標はもはや屈辱的な敗北を避けることではなく、敗北を認めることを避けて「面子を保つ」方法と手段を見つけることとなった。

『暴力について』ハンナ・アーレント(2000)みすず書房

ここで述べられていることはこうです。

ベトナム戦争の泥沼化の一つの要因にエリートが敗北を潔く認めずいかに面子を潰さずに着地させるかというところにこだわり長期化したからだと。彼らは敗北を認識してもなお「面子」を優先していたとここでは描かれているのです。

 

自分たちの想定が崩れることなどありえない、、、

そんな「面子」を潰さずにどうすればこの状況を終えられるだろうという考えが悲劇を招くのです。

 

 

さて、エリートの見込み違いの原因はどこにあるのかに話を移しましょう。

これは、アーレントが『暴力について』の下記の箇所で述べています。

未来の出来事をこのように仮説として構築するにあたって生じる論理的な欠陥は、つねに同一である。それは、最初に仮説として登場するものがーその精緻さの程度に応じて、言外の選択肢があるにせよないにせよー二、三節先ではいきなり「事実」となり、さらにその事実から同じように一連の事実ではないものが生み出され、その結果、その企画全体の純然たる思弁的な性格が忘れ去られてしまうということである。

『暴力について』ハンナ・アーレント(2000)みすず書房

要するに、エリートの見込み違いはある計算などから立てた仮説が思弁的なものでしかないにもかかわらず「未来を予測できる」という不可解な勘違いから生じると彼女は述べています。

 

 

計算した仮説をいつの間にか「事実」としてしまう、、、

これは今の時代でもよく使われるトリックです。

 

例えば、不動産投資や投資信託の運用、生命保険などの類はすべてこの思弁的な性格を隠蔽しながら我々に近づいてきます。

これは、人間社会の「予測不可能性」を踏まえて物事を考えるのではなく、「予測可能」という180度ひっくり返った思弁を行っているのです。

 

政治のトピックで言えば、安倍政権が安保法案を強行採決する時に紙芝居を使い印象操作をしていたことなどが直近で言えばこのケースだと思います。実際に紙芝居で説明していたことと起こることはほぼ間違いなく違うことが起きた時に安保法案が使われるので嘘だと思いますが。

 

アーレントのエリート批判は、頭がいいからこそ、理論に合わないと現実をねじ曲げようとし始めるというところに宿っています。

つまり、その発想が途方もない嘘をつかせるのだと。

 

誰もが仰ぎ見るエリートが歴史の随所で、後世から見ると理解しがたいことが起きているのはこの指摘の正しさを物語っているのではないでしょうか。

具体的に言えば、戦艦大和しかりここに上がっているベトナム戦争しかり後世からしたら害しかないことをやっていたのです。

 

 

ところで、なぜそのような浮世離れしたものが市民に当時受け入れられてしまっていたのか?

支持する者がいたからこそ彼らも嘘をつき続けられたわけですからね。

そのメカニズムについて『暴力について』で以下のように述べられています。

嘘をつく人は聴衆が聞きたいと思っていることや聞くだろうと予期していることを前もって知っているという非常に有利な立場にいるので、嘘はしばしば現実よりもはるかに真実味があり、理性にアピールする。嘘をつく人は公衆が信用して受け入れてくれるように注意深く目配りしながらものたがりを用意するが、現実は我々が受け入れる準備のできていない予期せぬものを突きつけるという、いやな習慣をもっている。

『暴力について』ハンナ・アーレント(2000)みすず書房

嘘の方が人間が人工的に作ったものなので、実は人間に受け入れられやすい一方で、現実の方が実は我々に耐え難いほどの辛さをもたらすので受け入れられないことがるとアーレントは述べているのです。

 

大本営発表にしろテト攻勢にしろ「嘘」の方が「我々の願望」に近いことを述べてくれます。

だからこそ信じてしまう。

 

しかし、結果としてはこの嘘こそが傷を深くしたことばかりなのです。

 

 

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■『暴力について』が伝えることーまさに今同じことが起きているー

何か嫌な現実を見るより嘘で虚構の世界に飛び込みたい

 

そんな繰り返しを今の日本もやっていると思いませんか。

それこそ今騒いでいる森友問題はこの『暴力について』で描かれる「エリート」が民主主義の根幹である公文書の偽造に走るという異常事態を引き起こしています。8億の国有地の問題が民主主義の破壊という途方もない傷まで負わせているのです。

 

ネトサポがいうように国家予算規模から考えれば8億というのは些細ですから、他に優先すべき議題があるかもしれません。

ただ、ここまで嘘を塗り固め傷を深くした今これより優先すべき議題はなくなりました。

 

 

現在、財務官僚がしている嘘は小学生でも「悪いこと」だとわかることをやってしまっています。

おそらく私が思うに当の官僚たちも「なんでこんなことをしてしまったのか」と今考えていると思います。

「どうして彼らはそんなマネができたのか」という問いに答えようとする時にまず最初に思い浮かぶ説明は、欺瞞と自己欺瞞は相互に連結したものであるという点となろう。つねに楽観的すぎる〔政府の〕公式声明と、一貫して見通しの暗い諜報機関の誠実な報告書との狂騒では、公式声明では、それが公式のものであるというただそれだけで勝利を収めることになりがちだった。

『暴力について』ハンナ・アーレント(2000)みすず書房

 

エリートといえど所詮は人間であるというだけでなく、エリート特有の爆弾がある、、、

そう考えてみると我々庶民は「エリート」と呼ばれるインフルエンサーを容易に信じず自ら思考し続けることから逃げてはならないのです。

 

 

最近、グーグルやマッキンゼーの人が書いた本が売れたりするのと同じですね。

肩書きがある人を盲信して悲惨な結果を招いてきた歴史に学ばないとまた同じことを繰り返す気がします。

 

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