昨日、スッタニバータ『ブッダの言葉』という岩波文庫の本で読書会をやりました。
実はこの読書会前の私はというと、思想に色々と手を出していながら東洋思想にあまり手をつけていないという恥ずかしい状態でした。どのくらい手をつけてないかというとこれを読む前に私がブッダに持っていた印象は「なんかすげえ奴」という小学生くらいの感想だけです。(完全に素人以下)
しかし、私のように東洋思想を読んだことがない人でも『ブッダの思想』を読んでみると結構楽しめました。
ただ、私は一般的な読み方とは若干違う読み方で楽しんでいた気がします。
具体的にいうと、一般的には『ブッダの言葉』(及びそれに類する書)は何百とブッダの言葉を区切った構成になっていることからそれぞれを独立させて読む傾向にあるのですが、全てをつなげて見てみることでそこに流れている根っこのようなものを探しながら私は読んでいきました。
事実、全体を通してみると「ブッダ」という人間の「聖人さ」は全く見えなくなってくるのですが、逆に「人間らしさ」が見えてくるのです。
これが逆にとてもいい。
そういうわけで今日は、素人ながら『ブッダの言葉』を読んでいく中で見えてきたことについて書かせていただこうと思います。
多分専門家からするとクソみたいなレビューですが、興味があったらよんでくださいな。
■解脱に人生の活路を見出すブッダ
「解脱」という言葉をご存知でしょうか。
私みたいな仏教素人でも聞いたことがある言葉なので多くの人が聞いたことがあるかと思います。
『ブッダの言葉』を読んでいくとわかるのですが、「解脱」できるかどうかがその道を極めていく上では重要だとわかります。
それゆえに人間としての正しい姿にたどり着く上で肝だとブッダが述べる解脱についてここでは書きます。
そもそも「解脱」とは何なのかを見ていきましょう。
『ブッダの言葉』の本をパラパラめくっていき七十三にたどり着くとこういう言葉があります。
これが結構核心をついています。
慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、 犀の角のようにただ独り歩め。
『ブッダの言葉』スッタニバータ、中村元訳(1958)岩波文庫
最後の「独り歩め」というのが重要で、解脱というのは各種定義があると思いますが、「独りになること」というのはいずれの定義においても含まれると考えられます。
平たく言えば、みんなでワイワイ飲み会しながら解脱なんてできねえよってことです。
解脱を成し得るためには他者は邪魔なものでしかないのか他者に対するブッダの嫌悪は凄まじいものがあります。
『ブッダの言葉』の281には「屑(クズ)を取り除け」という言葉が出てくるほどです。(これほんまに宗教の開祖の言葉なんかと思いたくなる言葉遣い笑)
汝らはすべて一致協力して、 かれ を 斥けよ。 殻を吹き払え。 屑を取り除け。
『ブッダの言葉』スッタニバータ、中村元訳(1958)岩波文庫
ここでのブッダの言い分は一言で言えば他者といると欲望にまみれてしまうからだめだというものです。
他者に囲まれている状況はいろいろな欲を生み出すがゆえに最悪の状態ともいえますからね。
それゆえに、解脱というある種のトランス状態になるには欲望を生み出し得る他者を排除せねばならないと彼は考えているのです。
さてこうなると、この「解脱」を果たすとどうなるのかを我々素人は知りたくなりますよね。
そこで、私も答えを探して一から一〇〇まで目を通してみました。
しかし、残念なことにこの『ブッダの言葉』という本には一切書かれていないようです。
「教えてくれよ!ブッダ!俺もトランス状態になりたいんだよ!」
そう私は思っていたのでした。
■孤独に耐えられないブッダ
おおよそ全ての人間ができない「解脱」を果たし、異次元旅行をしているとも言われているブッダ。
彼にたどり着くには凡人はどうすればいいのだろうか。
私もこれまでの仏徒と同じように頭を悩ませてみました。
改めて書籍を読み考えた末に私がたどり着いた結論が一つあります。それについてここでは書いていきます。
実はブッダは「解脱」なんてできてないんじゃないかと私は考えています。
なぜ私がこう考えるかというと『ブッダの言葉』を読んでいくとブッダが「俺やっぱ孤独とか無理」という本音が垣間見えるからです。
確かに、『ブッダの言葉』では最初は威勢良く散々1人になれとか人を愛すると欲に溺れるからダメだとか友達はいらないと言った言葉を述べるブッダの姿が描かれています。
解脱するためには邪魔だと言われていますからね。
しかしながら、実は『ブッダの言葉』を俯瞰して読んでいくと徐々に論理のすり替えのようなものが起きていることがわかります。
具体的には「こういう友達はいらない(でもああいう友達ならオッケー)」的な感じです。
「いやいやお前最初友達自体いらんって言ったやん!」と私は突っ込みました笑
二五五にこのような言葉があります。
つねに注意して友誼の破れることを懸念して( 甘いことを言い)、 ただ友の欠点のみ 見る人は、 友ではない。 子が母の胸にたよるように、 その人にたよっても、 他人のためにその間を裂かれることのない人こそ、友である。
『ブッダの言葉』スッタニバータ、中村元訳(1958)岩波文庫
1人になれとか友達を作るなとか言ってたのに「こういう友達はOK!」てのが出てくるんです。
非常に姑息とも言えます。ディベートならもう負けてます。
ただ、ブッダも一応言い訳を用意しているようでした。
彼は「友達はいらない」「1人でいろ」という前言を撤回することなく人と交わる方便を開発したのです。
彼が編み出したのが「一緒に解脱するという遊び」です。
一緒にトランス状態になりそこで他人と交わるという方便を開発したんです。
そうすることで、「1人でいるべき」と言った前言をひっくり返すことなく、自分も友達が欲しいという思いを叶えるのです。
役人とかがやってる答弁に近いですが。。。
これは私の妄想ですが、おそらく「友達はいらんって言ったけど今俺が遊んでのは「ネオ友達」やから」みたいなわけのわからない土台無理な言い訳をするほどに彼にとって孤独は耐え難いものとなりつつあったのかもしれません。
■要するにブッダは中2病
要するに私の見立てではブッダは中二病なんです。
「俺彼女いらねえし」「あいつブス」とクラスの女の子に暴言を吐いておきながら、登下校で楽しそうに帰っていくカップルを見て「俺もやっぱ彼女欲しいわ」って思ってる中学生いたでしょう?
あれですあれ。
彼女を友達というワードに置き換えてもいいでしょう。友達いらねみたいなやつもいましたよね。
要するに、ブッダもちょっとこじらせたどこかにいそうな人だったのではないかということですね。
ここからは完全に私の想像ですが、実はブッダは「解脱」という形で完全に1人になるべく断捨離を極めていった結果あることに気づいたのだと思います。
それは解脱の良さではなく、解脱を進めていくことの危険性です。
「人間は孤独では生きられない」
「人間には他者が必要だ」
「他者がいなければ自分は自分で亡くなる」
そういう悟りを逆説的に開いたのではないかと私は考えています。
実は、完全解脱を進めていき「俺トランス状態になったぜ」と言った途端精神失調を犯した哲学者がいます。
それは、フリードリヒ・ニーチェという哲学者です。
ニーチェは、世の中に吐き気を催し1人で力強く歩いていくという決心をしました。
そして、ある種「悟り」のようなものに彼はたどり着くわけですが、それが皮肉にも地雷だったのです。
さて、以上が私のブッダという人間に対する分析です。
クソみたいな分析かもしれませんが、物事にはバランスが大事だよねということをブッダは教えてくれていると私は考えています。
飲み会ばっかしててもダメだけど、人との交わりを断絶しても頭がおかしくなるよと彼は囁いているように思うのです。
おそらくこの読み方は結構独善的でしょう。
学問的に研究されている方からしたらクレームものかもしれません。
ただ、私にとってこの『ブッダの言葉』は『論語』を読んでいるときに近い感覚がありました。
あの本もそれぞれを切り離して読んでいくと「へえ」で終わるんですが、俯瞰すると面白いんです。
そして、俯瞰すると個別の読み方も結構変わるんです。
ブッダ同様、『論語』を俯瞰することで孔子様の「聖人さ」ではなく「人間らしさ」を見れるんですね。
それが面白い。
私の偏屈な読み方が役に立つかはわかりませんが、とりあえずここまでお読みいただきありがとうございました。
私の論評は嫌いでも『ブッダの言葉』は嫌いにならないでくださいね。