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民主主義は多数決か

更新日:

沖縄知事選で県民の民意は示された政府はいうことを聞け

選挙で選ばれたのだから僕が民意だ

皆様にこうして選挙で選ばれているのですから・・・

 

 

このところ「民主主義=多数決」という理解の発言をする人が非常に多いように思われます。上のような発言がまさにそうで、当の政治家から民主主義は多数決で多く取った人が好き放題できるゲームという趣旨の理解を臆面もなく見せていることが多々あるのです。

 

ただ、民主主義とは単に多数決のことをいうのでしょうか。

本日はこれをテーマに記事を書きました。

民主主義は多数決という論法の誕生背景

そもそも民主主義は多数決というのは一つのイデオロギーな訳ですが、これはどういうロジックから来ているのかまずは見ていきましょう。

 

調べていくとわかる一つの重要な説としては、民主主義誕生の最大要因と言われたフランス革命の理論的支柱であるジャン・ジャック・ルソーの思想に(民主主義は多数決という考えの起源がが)あるのではないかと言われています。

 

 

と言いますのも、ルソーは、前提として「真の国家はすべての国民が同質であって本質的に全員一致が成立しているところでのみ成立している」という考えを自著で披露しているからです。

 

この考えを表しているのがルソーと合わせて有名な「一般意思」という言葉です。

 

この「一般意思」というのは、すべての人が自身のうちに持っている自然法(平たく言えば「常識」)に基づけば自然と全員がたどり着くはずの結論を指します。

そして、その「一般意思」は市民の投票行動によって具体化されるとルソーは考えるわけです。

 

 

ただ、ルソーの前提と現実はもちろん違いますよね。

いうまでもなく投票を促した場合、いかなるコンテンツであれ違う方向へ投票をする人はほとんど必ず出てきます。

 

しかし、ルソーはそういった「異なる意見」が出てくるから「一般意思」など存在しないという考えには巧みに答えられます。

それは、私が誤っており、私が一般意思だと考えていたことがそうではなかった、ということを示すものに他ならない。

『社会契約論』ジャン・ジャック・ルソー(1954)岩波文庫

 

要するに「本来の自分」であれば、その「一般意思」がわかり正しく投票できていたにもかかわらず、なんらかの形で目が曇っていたため正しく判断ができなかったのだという考えを持つことを強いるわけです。

 

「一般意思」(多数派)と同じ行動を取れないあんたが悪いという論法ですね。

 

こう聞くと「なんか全体主義くさいなあ」と思ってしまいますよね。

その反応は至極真っ当で物の見事にこのルソーの論法を利用して恐怖政治をやったのがフランス革命後現れた(史上初のテロリストとも称される)ロベスピエール率いるジャコバン派なのです。

 

 

ただ、カール・シュミットによれば、ルソーの言ってることがいかに全体主義くさかろうと純粋にプレーンな民主主義ということについて述べているのはルソーの論理だそうです。

万人の万人との自由な契約という思想は、対立する利害、差異及び利己主義を前提とする全く異なった思想界、すなわち自由主義から生ずる。それに反し、ルソーが構成したような「一般意思」は、同質性の上に基づいている。それのみが、首尾一貫した民主主義である。

『現代議会主義の精神史的状況』カール・シュミット(2015)岩波文庫p149

 

民主主義は多数決という論法が常に真とは言えない理由

では、なぜ民衆の圧倒的支持を得て生まれてきた人間に史上初のテロリストが生まれたり、数百万人殺してしまうような人間が出てくるのかというところに話を移しましょう。

 

こういった例だけでもすでに多数決が即一般意思であり、普遍的に正しいという方程式にならない反証になっていますから。

 

この屈折がなぜ起こるのかは一言で言えば「情報を屈折して受け取ってしまうから」ですね。「最初のジャーナリスト」という異名をとるウォルター・リップマンという方がいるのですが、彼が述べていることがまさにそのことを示しています。

自分たちは一般の人びとの心の中にある計画を表面化しただけだ、と指導者たちはよく言う。もし彼らがそう信じているのなら、ふつうは思い違いである。計画は多くの人びとの頭の中に同時に生じるものではない。それは多くの人びとの頭が指導者の頭より必ずしも劣っているというわけではなく、思考は一個の有機体の機能であるのに、大衆は一個の有機体ではないからである。

 この事実が曖昧にされているのは、大衆が絶えず暗示にさらされているからである。大衆が読むのはニュース本体ではなく、いかなる行動方針をとるべきかを暗示する気配に包まれたニュースである。大衆が耳にする報道は、事実そのままの客観性を備えたものではなく、既にある一定の行動型似合わせてステレオタイプ化された報道である。・・・・しかし実験室で行うように、もし多くの人びとの経験からあらゆる暗示と先導を取り除くことができたら、次のようなことがわかるだろうと思う。

・・・・・つまり、漠然と感じている人たちの漠然とした感情が言葉に置き換えられるならば、人々は自分の感じていることをより明確に知るだろうし、そうなればもっと明確にそれを感じることになるということである。

(黒字は引用者)

『世論』ウォルター・リップマン(1987)岩波文庫 p76

リップマンが述べているのは「一般意思」と指導者は称して自分に都合のいいように解釈してくれるように情報を流しているよということです。

まあ当たり前っちゃ当たり前の話です。

 

逆に言えば、全員が「正しく」「等しく」「適切に」情報を得ていたとしたらルソーのいうように全員が同じく、正しい判断をできるという可能性は残されているのです。

 

 

しかし、現実的にそんなことが起こるかというと現状を鑑みればそんなことはありえないとわかるのではないでしょうか。

 

*まあ「マスゴミは偏向報道をやめろ」と報道の度にヒステリックになる自称中立な人たちはルソーと同じ世界観を共有していると思われますが。

 

 

民主主義が機能するために必要な3つの要素

こういった紆余曲折を経て民主主義なる理想が完遂されることの難しさはおわかりいただけたことでしょう。

 

しかし、仮にルソーが述べた形での民主主義という概念に100%到達はできないにせよそれに近づくべく努力すべきだというのが今日の世界に生きる多くの人の想いではないでしょうか。

 

最後にこれを受けて「一般意思」と呼ばれる「正しい判断」なるものをより多くの人ができるためには何が必要なのか言及して終わりとします。

 

十八世紀の政治家であるギゾーは下記の三つをあげています。

(一)「諸権力」が討論し、そのことを通じて共通に真理を求めるよう、常に仕向けられていること

(二)すべての国家生活の公開性が、「諸権力」を市民の統制のもとにおいていること

(三)出版の自由が、市民をして、自ら真理を求め、それを「権力」に向かって発言するように促していること。

(引用元;同シュミット『現代議会主義の精神史的状況』)

 

・ルールメーカーである立法府に所属する人たちの議論を通じて解を出していくこと

・その所属する人を映し出す権力が市民の統制のもとに置かれていること

・出版物などの自由が保障されていること。

 

一つ目は「議会主義」の根本にあるもので、二つ目がNHKなどの国民の受信料から成立しているメディアの存在意義の根本にあるもので、最後が出版を筆頭とした言論の自由の根本にあるものです。

 

 

「民主主義」というある種理想状態を現実的に実現するために上の三つが必要だというのがギゾーの主張なのですが、逆に言えばこれら3つが崩れると専制政体や全体主義につながり得ると言えます。

 

 

以上、いろいろと脱線してきましたが、「民主主義は多数決か?」をテーマに記事を書かせていただきました。

 

この命題は真と言えるのが理想状態だが、現実的には必ずしも真とは言えないということをこの記事では述べたつもりです。

 

ただ、ここで「理想」を捨てて現状を追認するということに先代の偉大な人たちは走りませんでした。

これらの人たちはある種届くはずもないと分かりながらもその「理想」を現実化させるために世の中にいろいろな仕組みを用意したわけです。

 

そう考えると昨今の安易な改革思想というのは危険極まりないなと改めて思いますね。

 

ご覧いただきましてありがとうございました。

こくち

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