「教養を身につけるために読書をしろ」
「人生で成功者になるために読書をしろ」
「ビルゲイツやバフェットも読書をしているから本を読め」
これは、多くの読書家がいうことであり、多くの教養あると言われる人が繰り返し述べていることです。
あなたも一度は言われたことがあるのではないでしょうか。
では、これを受けて「よーし。教養をつけるために読書をしよう」と考えるのはいいことなのでしょうか。
確かに、私自身も読書活動が人生を面白さを持たせるという意味で読書自体は肯定に評価しています。
しかしながら、このような今はやりの「教養を身につけるために読書をしろ」というものは一線を画する立場をとります。
本日はこの教養ブームなるものの問題点を指摘しつつ、読書をする上で留意すべきことについて私なりに書かせていただきました。
教養をつけるために読書をするべきでない理由
まず、私が「教養をつけるために」読書活動をすべきでないと考える理由について指摘します。
単刀直入に言いますと、「〜ために・・をする。」という「近代合理主義」(いわゆる「功利主義」)を前提とした思考アプローチに意図せず縛られているからです。
言い換えるならば、このような思考のカテゴリーで物の良し悪しを判断していること自体がすでに非常に視野を狭くしてしまっているのであり、その土台から何かを始めても欲しいものは得られないということです。
では、具体的にここに挙げたイデオロギーのどこが危険なのかに話をうつしましょう。
その理由は難しいものではありません。
この「〜のために」という構造に準拠した思考が、「目的」がないあらゆる行動の「価値」を認めない態度を取ってしまうからです。
例をあげましょう。
今世の中で「合理主義者」(またの名を「功利主者」)とされ尊敬を集める人達がいます。
彼らは最短で人生を成功させたためにこのように呼ばれています。
彼ら・彼女らが「成功した要因」として挙げられることはなんなのでしょうか。
それは、一つには「目的を立てない行動に価値を見出さない」という発想を持ち合わせていることではないでしょうか。
彼ら・彼女らの口癖を思い出してみていただければこのことは十分ご理解いただけるでしょう。
「それをやって何の意味があるのか」「それをやる価値はあるのか」と言って「論破」することを得意としているのです。
さて、ここでご察しの良い方であれば、「意味」や「価値」という言葉は全てある言葉に置き換えられることに気づくことでしょう。
それは「目的」という言葉です。
相手に自分の思考の正しさを伝えるために発せられるフレーズの数々が「何の目的があってそれをするのか?」に言い換えられるということです。
この問いの立て方が教えてくれることは一つです。
「合理主義者」に類する人は「目的」がないものには価値がないから取り組む必要がないという考えをあまりに当然のこととするのです。
ところが、意味は今や、具体的行為の個々の直接的目的が意図や組織的手段によって追及されるのと同様のメカニズムをもって追及されるようになった。意味そのものは人びとの世界から離れ無限に続く目的の連鎖だけが人々に残されているかのようである。この連鎖の中では、過去のあらゆる成果が持つ意味は未来の目的や意図によって絶えず打ち消されてゆくかのようである。
『過去と未来の間ーー政治思想への8試論』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房
読書をする上で押さえたいただ1つのこと
さて、このことが本題にどうつながるのかに話を移します。
結論から申しますと、読書という活動に対しても常に「目的」を求め、そしてその「目的」が見つけられるもののみを評価しようとすることが起きるのです。(だから純文学などは評価しない傾向が強い)
そして、読書活動をすればするほど視野を広げる(教養をつける)どころか功利主義的な思考法によって考えが硬直させられるということです。
これが本記事でお伝えしたい最大のことです。
ところで、読書という活動を通して「教養をつける」(視野を広げる?)はずが実に極めて硬直化した考え方を取り込んでしまうというのは冷静に考えてみると恐ろしいものです。
なぜなら、個々人は勉強をして視野を広げるつもりでいるのに、元々の状態をより強固なものにしてしまっていますからね。
しかし、そうはいっても無理もない部分もあります。
といいますのも最近はそれを提供者の側が後押ししているというところもあるからです。
「起業をするために」「金を稼ぐために」「一流のビジネスマンになるために」読書をさせようと出版社も書店も必死なのは書店に行けば一目瞭然です。そして、書籍も目次だけ読めば中身を読まなくても何が書いているか10秒ほどでわかるようになっています。
またそもそもの話をすれば、本記事で主題にしている「教養をつけるために」という言葉も、根底では本当の意味での教養なんかには興味がなくてそれを身につけて「起業をしよう」「金儲けをしよう」といった考えを隠蔽しているにすぎないことも多々あります。
極めて病んでいると言わざるを得ません。
残念ながら、今のところこのような功利主義的なものの見方自体に対して「バカか君は」と批判をする流れはできていません。
売り手も買い手もおりなって硬直した思考法をより硬直化させることに勤しんでいます。
この状況は変わりうるでしょうか。おそらく、まだ先は長いでしょう。
教養とは何か
ちなみに、ここまで偉そうに書いてきてますが、これは私の持論ではありません。
実は多くの偉大とされる著者たちが「〜のために」読書をするということを戒めてきたのです。
それを最後に紹介します。
まずその一人に挙げられるのがヘルマン・ヘッセです。
ヘッセは、著書の中で教養について次のように述べています。
本当の教養は、何らかの目的のためのものではなく、完全なものを目指すすべての努力と同様に、それ自体価値のあるものなのである。
『ヘッセの読書術』ヘルマン・ヘッセ(2013)草思社文庫
本当の教養は何らかの目的のためにあるのではないと明確に述べられています。
別の箇所では『体力や、機敏な運動能力や、美しい身体を得るための努力が、金持ちや、有名人や、権力者になるなど最終的な目標を持つものではなく、その努力そのものが私達をより楽しく、幸せな気分にし、自分の体力に対する自身と、自分が健康であるという気持ちをいっそう高めてくれる』とも述べています。
別の人物を挙げましょう。
ノーベル賞もとったパートランド・ラッセルという人物がいます。
彼も著書の中で物事を考える営みとしての「哲学」の意義について次のように記しています。
(哲学には)・・もう一つ、おそらく最も重要な価値がある。それは、・・・・個人的な狭い目的から・・・自由になることを通じて得られる。本能的な人は自分の個人的利害が及ぶ範囲に閉じこもって生活している。家族や友人たちには配慮しても、それ以外の人については、彼が本能的に望ましいと思う人たちによかれあしかれ関わってこないかぎり気にも留めない。そうした生活には、哲学的生活の落ち着きや自由さとは対照的に、熱狂的で狭苦しいところがある。本能的利害関心という小さな個人的な世界は、大きく荒々しい世界に取り囲まれており、遅かれ早かれ荒廃させられてしまう。
『哲学入門』パートランド・ラッセル(2005)ちくま学芸文庫 *()内は引用者
いずれの人物たちが述べることも、「何らかの目的を持ってやることをよしとするのが当たり前な現代社会」において、受け入れ難いかもしれません。
しかし、これらは言い間違いではありません。
今の時代は「結果」や「目的」に重きを置きすぎ、努力そのものや過程を楽しむということ自体が評価されなくなってきました。
もちろん、ビジネスの世界では結果や目的を重視するのは避けられないことです。
それ自体を私も否定しません。
しかしながら、そのような「ビジネス感覚」なるものを日常生活のいたるところにまで持ち込んでしまうのは、人生を豊かにするとされる「教養」のある世界とは正反対なのです。
「〜をするために」読書をするというのをやめてはいかがでしょうか。
過去の自分に言い聞かせるようなことを言いますが、そうした方が読書は楽しいと思うのです。