「ビジネスリーダーは1日〇〇時間は本を読んでいる!」
「ビルゲイツがお勧めする本を読みましょう!」
「これからの怒涛の時代を生き抜くための読書をしましょう。」
今、読書が熱いようです。
読書離れと言われて久しいですが、電車に乗って辺りを見回せば意外や意外本を読む人が少なくありません。
電車広告も本の宣伝というのが少なくなく本を読むことは廃っているとは言えなさそうです。
ところで、私も読書をするものとして最近いろいろな人から聞かれることがありまして、「読書をする意味を教えてください」「読書のメリットってなんですか」というものがあります。
これから読書をしようかと考えている人にとってはそれなりの活字を読むにはハードルがあるらしくそれなりに意味が感じられないと始めるのが億劫なようです。
そういった世の中のニーズに応える形で今日は、読書をする意味について書かせていただきました。
ご笑覧いただければ幸いです。
■読書をする意味
まず、読書をする意味を求める人に対して結論から述べさせていただこうと思います。
結論としては、「あなたが読書に意味を求めて読めば読むほど読書に意味はなくなる」というものです。
一億円稼げるとか起業できるとか片付けが上手になるとか相手をコントロールできるとか、、、、
そういう明確な「意味」を持たせようとする本というのが最近は巷にあふれています。
しかしどうでしょう。こういった「意味」が明確な本というのは一ヶ月もすれば中身を忘れるかもしくはゴミ箱に入ってるのが関の山ではないでしょうか。
「意味」を明確にしている本ほど意味がないというのが私の読書に対する長年の感覚なわけですが、どうしてこういう風になるのかについて少しだけお話をさせてください。
これは、近代という時代が生み出した認識のカテゴリーに目を向けるとそれとなく見えてきます。
近代というのはホッブズに端を発するのですが、「目的と意味」を同一視した時代だとアーレントが『過去と未来の間』の中で指摘しています。
たとえば、ホッブズが伝統哲学と訣別した一つの理由は、これまでの形而上学はすべて、万物の第一原因を究明することが哲学の主な務めであるとする点でアリストテレスに追随してきたのに対し、目的や目標を指示し、合理的な行為の目的論を打ち立てることに哲学の務めはあると主張した点にある。ホッブズにとってはこの点こそ重要であった。そして、原因を発見する能力なら動物でも具えており、それゆえこの能力を持つか否かは、人間の生命と動物の生命を区別する真の指標にはならないとまで主張した。
『過去と未来の間』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房 p101
ホッブズが指摘しているのは近代のこの先例のない経済的な発展というのは「目的」を立てそこに向けて進んでいくことで成し遂げられたということです。
もはや目的を立てるのが当たり前の我々にとってはそのリアリティは非常に疑わしいものですが、近代以前というのはそういった思考認識のカテゴリーが少なくとも主流的ではなかったようです。
おいおい読書の話からいきなりなんのはなししてるんだよ。。。
となられている方も多いでしょう。
私がここで意図していることは、読書の話にもつながります。
読書もまた「意味と目的」を同一視する傾向が昨今は顕著なのです。
いわゆる近代的な認識のカテゴリーから読書をしようということです。
しかしながら、これは無意味性を呼び込むのです。
近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。
『過去と未来の間』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房 p101
私は、アーレントの『過去と未来の間』にある上の文章が好きなのですが、「行為の意味」は目的に宿るのではなく、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものだという風に彼女は述べています。
平たく言えば振り返った時に読書もまたその意味が認識されるのではないかということです。
■読書をするメリット
そういうわけで読書をする意味、そしてメリットは読書体験を通じてなされた活動の後から生まれてくるというのが私の結論になります。
「なんのために読書をするのか」
「何を意識して読書をするのか」
「目的を持って読書をするにはどうすればいいのか」
「読書はどうすれば効率が良くなるか」
「どれくらい読めば賢くなれるのか」
こういった読書に関するテクニカルな悩みというのはすべて愚問だということなのです。
そういったことを考えるのを辞めた時にこそ読書の意味も読書のメリットも見えてくるはずです。
小林秀雄が『教養ということ』の中で同じようなことを述べていますので、下記に引用します。
現代人には考えることは、かならずわかることだと思っている傾向があるな。つまり、考えることと計算することが同じになって来る傾向だな。計算というものはかならず答えが出る。だから考えれば答えは出るのだ。答えが出なければ承知しない。
『読書について』に収録の『教養ということ』小林秀雄(2013)中央公論新社 p156
「考えること=わかること」の方程式は「目的=意味」と考える図式とかなり近似しています。
両者とも「答え」(決められた着地点)がなくては困るという性質を持っていますからね。
答えがすぐにないと耐えられないというのは私が最近政治の世界にも感じる「議論する体力の低下」と通ずるものがあります。
政治や経済の停滞に対して「道州制」「TPP」「憲法改正」「都政大改革」などなど何かボタンをポチッと押せばすべて解決するように見せかけたファミコン脳向けに仕立て上げられた愚策に扇動されるのです。
そういった我々を幻惑する単純な世界観に騙されないためにむしろ読書はするべきなのでありまして、すぐに答えを求めて読書を続けてしまってはむしろファミコン脳を加速させることになりかねません。
■読書をする意味が知りたい人が読むべき本
最後にぜひとも読書の意味やら読書のメリットを知りたい人に読んでほしい本があるので二冊あげます。
双方とも読書論を書いた本としてはトップクラスの良書です。
一冊目が、ショーペンハウエルの『読書について』です。
この本は一言で言えば、昨今のテクニカルな読書論はもちろん最近の売れ筋本を全否定する本です。
読むと発狂したくなる人もいることでしょう。
ただ、世界的に最も優れた読書論を書いた本とも言えるほどに必読の本です。
本の選び方などは単純明快だけども深遠さがあるというところがいい感じです。
もう一冊が小林秀雄の『読書について』です。
こちらはすでに引用しましたが、日本の知の巨人でもある小林秀雄の語る読書術です。
趣旨としてはショーペンハウエルのものと近いものもありますが、彼の読書論もまたまゆつば物です。
この二冊を読むことで一般的に言われる「意味」ではない読書の意味は見えてくると思います。
ぜひ読んでみてください。