読書会というものをご存知でしょうか。
今、20代の若者から30代や40代といった層まで幅広い方々が集って全国各地で開催されているのです。
私が所属するRead For Actionというサイトも含め全国で読書会が毎日開催されています。
Read For Action –日本最大級の読書会コミュニティ
他にも猫町倶楽部なんかも有名で読書会を通してカップルが誕生したりするとも言われています。
今や大読書会時代なのです。
そんなお騒がせの読書会ですが、参加したことがない方にとってはハードルの高いもののように感じる人もいるかもしれません。
今日は、読書会を主催する立場の人間として参加したことがない方向けに「読書会とは何か」を書きました。
■目次
■読書会とは
ではまず読書会とは何か?を書いていきます。
定義として一言で言うと「本を持ち寄った人々同士で集まって何かをすること」ですね。
これだけだとやや曖昧な定義にも見えるかもしれません。
なぜこのような書き方をしているかというと、読書会は開催する方次第で結構毛色が変わるためです。
具体的に代表的なパターンとしては以下のようなものがあります。
- その場でみんなで同じ本を分担して読み進めるスタイル
- 課題本を事前に読んできてその内容をより深めるスタイル
- 自分が好きな本を紹介するスタイル
1については、私の所属するRead For Actionでも流行っているスタイルです。
本を読むのに苦手がある人などでも参加しやすいという魅力を持っています。
2については、すでに読書をするのが好きな人をターゲットにしています。
より深い議論を参加者としたいという人に好まれる傾向があります。
最後の3は自分の好きな本が一冊あれば参加できるというものです。
これは、1と同じく参加しやすいことを念頭に設計されているスタイルの読書会です。
どの読書会も一長一短あるというのが正直なところです。
ですので、どれが一番良いというのはなかなか言い難いものがあります。
いくつか行ってみて自分に合うものを選んでいただければ幸いです。
■なぜ今読書会が重要か
次に「読書会」というものが何故重要なのかについてここでは少しだけ書かせていただきます。
少しだけ小難しい話をしてしまうかもしれません。
読書会が世間でもこれはとても大切だと叫ばれています。
そして、その理由としては、「イノベーションを起こす場所」「人生で成功する方法を見つける場所」と考えてる人が多いようです。
新聞などでもそう書かれていました。
しかし、そのような形での読書会は本質を毀損しているというのが私の立場です。
なぜこのような読書会の進め方に違和感があるのか?
理由としては、「『目的』と『手段』という近代が生み出した功利主義のカテゴリーに蝕まれているから」なんですね。
これの問題点を考えてみましょう。
確かに「目的を立てること」というのは人間と動物を分ける最大の点であるとトマス・ホッブズは述べました。
(デカルトは原因を突き詰められることこそ人間と動物を隔てるものだと述べたわけですが、ホッブズはそれは動物にでもできるという立場でした。)
たとえば、ホッブズが伝統哲学と訣別した一つの理由は、これまでの形而上学はすべて、万物の第一原因を究明することが哲学の主な務めであるとする点でアリストテレスに追随してきたのに対し、目的や目標を指示し、合理的な行為の目的論を打ち立てることに哲学の務めはあると主張した点にある。ホッブズにとってはこの点こそ重要であった。そして、原因を発見する能力なら動物でも具えており、それゆえこの能力を持つか否かは、人間の生命と動物の生命を区別する真の指標にはならないとまで主張した。
『過去と未来の間』ハンナ・アレント(1994)みすず書房 p101
「目的論」を人間の動物に対する優位性だとホッブズは述べたのです。
実際、これが人類の飛躍的な発展に繋がったのだと彼は付け加えるわけですが私はこれを否定しません。
確かに目的を立てて行動をすることとというのは人間にしかできないことです。
しかし、その「目的と手段」という功利主義のカテゴリーで物事を捉えてばかりいると悲劇が訪れるとアレントは指摘します。
功利主義のアポリアは、手段と目的というカテゴリーの枠組みそのものにある。それは、達成された目的一切をすぐさま新しい目的の手段へと転化してしまい、それによっていわば、意味が生まれそうになるや否やその意味を破壊してしまうのである。「何の役に立つか」という功利主義の問いが一見際限なく続くうちに、言い換えれば、今日の目的がより良き明日の手段に転化してゆくという一見際限のない連鎖において、功利主義の思考によっては決して答えらえない一つの問いが最後に浮かび上がってくる。「役に立つことはいったい何の役に立つのか。」これはかつてレッシングが簡潔に発した発問だった。
その悲劇とは、目的を追いかけ続けるとすべてが無意味に感じられ自己破壊的になるということなんですね。
読書会の話題に変換して言いますと、「読書会自体」に意味を見出せなくなるということですね。
これって非常にもったいないと思うのです。
目の前にある本を「金を稼ぐ方法を知るために読む」となった時、その読む過程で文章を味わったりできるでしょうか。
非常に難しいように私は感じます。そういうことですね。
*「目的」の設定自体を一切否定しているわけではないことにご留意ください。
■読書会への期待
最後に読書会に期待していることについて少しだけ書いて終わりとします。
私はこの読書会というものに大いなる可能性を感じている一人です。
それはもちろん「金儲けの方法を考えるため」ではありません。
その空間自体を生み出すことに意味があるのです。
読書会の存在自体が「目的」です。
これは日本全体で進行している「中間組織の崩落」という危機を救うものであるとさえ考えています。
それほど大いなる可能性を期待しています。
「中間組織の崩落」というとピンとこない人も多いかもしれません。
しかし、これがとても我々にとって重大な事象なのです。
トックビルが随分と前に予言したように「中間組織」がなくなっていくと文明に危機が訪れます。
*トックビルは「団体」や「結社」と呼称しています。
民主的な国に住む人々が政治的目的のために団体を作る権利と趣味を持たないとすれば、彼らの独立は大きな危険にさらされるであろう。それでも、富と知識とは長く維持することができるかもしれない。だが日常生活の中で結社を作る習慣を獲得しないとすれば、文明それ自体が危機に瀕する。私人が単独で大事をなす力を失って、共同でこれを行う能力を身につけないような人民は、やがて野蛮に戻るであろう。
『アメリカのデモクラシー〈第2巻(上)〉』アレクシ・ド・トックビル 岩波文庫(2008)
ここでトックビルは何を述べているのか。
人々が「結社」や「団体」を作る力を失い「平等」の幻想に誘われた時そこには野蛮が現れると彼は述べているのです。
もう少し噛み砕いて書きます。
境遇の平等が進むと「自分の一面的な考え」を「おそらく周囲の人もするだろう」という発想になっていきます。
これを「野蛮」な状態の到来とトックビルは述べているのですが、なるほどと思わされる指摘です。
この「野蛮」という言葉の解釈は一通ではないでしょうが、少し踏み込んで解釈を与えますと「自分の考えに全幅の信頼を置くようになってしまう」ことを指しているのではないでしょうか。
つまり人に対して寛容になることができなくなってしまうということですね。
これは自戒も含めて書いているのですが、世の中の多くの人にとっては自分の周囲の人が「自分とは違う」という前提に立つことが難しくなってきています。これは社会が分断され孤立した個人で溢れていることが一員かもしれません。
そんな人々から失われつつある「他者へのいたわり」それを復権する可能性を読書会というものは秘めているのです。
真なるものは私にとってのみならず真なるものであり、私は他人を愛することによってでなければ、自らを愛することはできないのである。私が私だけでいるならば、私は荒廃するに違いない。
『哲学』カール・ヤスパース(2011)中公クラシックス
読書会に参加し、自分の知らぬ「他者」を知ることで「自分」をさらに知ったり「自分」自体に変更を加える。。。。
そういうことをやってみていただければ幸いです。
Read For Action –日本最大級の読書会コミュニティ