本日、読書会を開催しました。
その読書会で取り上げた著書がハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』という著書です。
彼女の『人間の条件』『全体主義の起源』と並んで不朽の名作に分類される一冊です。
こちら少し前に映画化されたこともあり多少なりとも知名度はありますが、やはりぎっしりと詰まった文字で構成される著書に圧倒されなかなか読みたいけど進まないという方もいるのではないでしょうか。
本日は読書会開催ついでに、『イェルサレムのアイヒマン』を読み始める上で参考になればと思い導入となる要約と私の読後の感想を書かせていただきました。
アイヒマンという人物についてー『イェルサレムのアイヒマン』を超シンプルに要約ー
ページ数がかなりある本なので、その内容をつまびらかにすることは容易ではありませんがここでは「興味」を持ってもらえるようにかなり端的に要約してみます。
早速ですが、「アイヒマンとは何をした人物か?」を書きます。
アイヒマンとは第二次大戦期のドイツにおいてユダヤ人の大量殺戮を管理監督していた人物です。
アイヒマンのもとで殺害されたユダヤ人は老若男女合わせて数百万はくだらないと言われており、「ジェノサイド」として歴史上最大のものの一翼をになったということですね。
さて、この詳細について書き始めるとキリがないのでこのアイヒイマンについて問題を一つに絞ります。
この「何百万人も無実の人を殺せてしまうアイヒマンとはいかなる人物なのか」という点です。
アーレントの著書を通して描かれるアイヒマン像は我々の予想を裏切るものなのです。
当時の世論も同じく、アドルフ・アイヒマンを冷酷無比、サイコパス、罪の意識が著しく欠けた人格破綻者などという形で描写していました。
しかしながら、繰り返しになりますが、『イェルサレムのアイヒマン』でハンナ・アーレントが描くアイヒマンの人物像は全く異なります。
アーレントの描くアイヒマン像は一言で言えば「凡人」なのです。
『凡人』というのは言い換えると、「そこらへんにいそうな人」と言ってもいいでしょう。根っからのキチガイではないのです。
アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』のなかでアイヒマンという人間を下記のように記しています。
アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいず、サディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ、われわれの法制度とわれわれの道徳的判断基準からみれば、この正常性は全ての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。
『イェルサレムのアイヒマン』ハンナ・アーレント(2017)みすず書房 kindle 6046
アイヒマンというのが極悪人であれば事態の収集はどれほど単純なものであっただろうかとここでは書かれています。
むしろ、あまりに我々に共通した部分が散見される「普通の人」だということが私を愕然とさせたと付け加えています。
アイヒマン自体も自分をここまでの大量殺戮の指揮官として導いたものは自分が悪意を人一倍抱く得意な人間だからとは述べません。
あくまであのジェノサイドは「上からの命令」と「法令遵守の精神」に忠実に従った結果おきたものだと述べています。
将軍たちのうちの一人はニュールンベルクで「あなた方は尊敬すべき将軍たちなのに、どうして皆あのように盲目的な忠実さを持って人殺しに支え続けることができたのですか?」と訊かれて、「最高司令官を批判するのは兵士のすべきことではありません。それは歴史か天なる神のすることでしょう」と答えた。・・・これよりはるかに知性もなく見るべき教養もないアイヒマンも、少なくとも自分たちすべてを犯罪者にしてしまったのは命令ではなく法律であるということはおぼろげに悟った。
『イェルサレムのアイヒマン』ハンナ・アーレント(1969)みすず書房 p118
ルールの遵守や上司の言うことへの従属に人よりも厳格だったからこそ、「国家によって人殺しが合法化されていた時代」には最悪の行動をとる人間になってしまったということですね。
なお彼のこの遵守意識はどこからきたかと言うと「役人としての単なる出世欲」しかなかったとアーレントは記録しています。
私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において裁判中誰も目を背けることのできなかった或る不思議な事実に触れている時である。アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった。・・・自分の昇進には恐ろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。
『イェルサレムのアイヒマン』ハンナ・アーレント(1969)みすず書房 p221
単に出世意欲の強い人など現代の日本でも掃いて捨てるほどいます。
そのようなありふれた人物像がジェノサイドを引き起こしたというのがこの著書の読みどころです。
アイヒマン裁判が我々に教えてくれるもの
ざっと要約するとこんな感じですが、アイヒマン裁判についてアーレントが本の最後でしている総括について少し触れておきましょう。
ジェイソンでもマクベスでもない普通の人が殺人マシーンに成り果てたところから今日に生きる我々にも語りかけているかのごとく彼女はこう語ります。
被告を一つのシンボルと解し、裁判を一人の人間の有罪・無罪などということよりも一見もっと興味を引きそうな問題を持ち出す口実とみるならば、当然の帰結としてわれわれはアインヒマンと彼の弁護人の主張の前に頭を下げねばならない。すなわち、アイヒマンが告発されたのは贖罪山羊が必要だったからであり、それもドイツ連邦共和国のためだけではなく、起こったことすべてと、それが起こるのを可能にしたすべてのことーつまり反ユダヤ人主義と全体主義支配のみならず人類と現在ーのために必要だったというのである。
『イェルサレムのアイヒマン』ハンナ・アーレント(1969)みすず書房 p220
要するにアイヒマンをスケープゴートにして臭い物に蓋をするなということをアーレントは語っているのです。
『イェルサレムのアイヒマン』は単なるナチスの組織に関する記録に留まるものではなく、もっとえげつないものを引っ張り出しているということです。
つまり、あらゆる人間がその時々に常に意志することなく巨悪に加担しうる時代に我々は生きているということを述べているのであり、それを直視しなければまた同じことを繰り返してしまうということです。
『イェルサレムのアイヒマン』を読んだ感想
以上、『イェルサレムのアイヒマン』に関する要約を書いてきましたが、最後に私の読んだ感想を。
一言で言いますと、アイヒマンのナチスにおける日々は企業人として働く我々自身を描いているのかと錯覚するほどに共通する部分があります。
どこが共通するのか?
それは具体的には、構成員それぞれに細分化された職務が与えられる「分業」を採用しており、それゆえに「全体像」が見えにくく、自分たちの取り組みの帰結について見えなくなってくるという点です。
そしてその結果として行動に対する「責任」を感じなくなってしまうということも含めて。
アイヒマンは自分が組織の中で認められるべく組織のために頑張った結果、ジェノサイドを主導するまでに至ったわけですが、大小はあれども会社員のような官僚制機構で働く我々もひとごとでは言われません。
最後にもう一度言いますが、この書籍は単なる歴史記録ではありません。
真の「自己啓発書」です。
自分が巨悪に加担しないためにどうすればいいのかを常日頃から考えておくことなければ気付いた時に時すでに遅しになるというメッセージをこの一例から描いてくれているのです。
自己啓発書コーナーに置いてもらいたい本ですね。
最後に、『イェルサレムのアイヒマン』と合わせておすすめの書籍をリストアップしておきます。
一冊目は名前くらいは多くの人が聞いたことがあるモンテスキューの代表作です。
一般的に「法」というと、「実定法」という明文化されたものを多くの人がイメージするのですが、そのような認識でこの本を読むと理解が必ず行き詰まります。
モンテスキューはその前提となる認知を『法の精神』では批判しており、実定法の土台となっている「自然法」の重要性を説きました。
自然法とは平たく言えば「常識」であり、伝統や文化、歴史など諸々のものが重なり合って国民に共有されている「判断の基準」であり、これが失われれば国家は著しい危機に瀕するとのことです。
ナチスの時代はまさにこの自然法が破壊されたのち、実定法にて殺戮が合法化された結果アイヒマンのような人物が殺人マシーンとなったわけです。詳細はぜひ著書にて。
もう一冊が、エマニュエル・カント『純粋理性批判』です。以前このブログでも紹介した一冊ですが、私的には2018年ナンバーワンの一冊です。
アーレントも『イェルサレムのアイヒマン』でカントのこの著書にある言葉を度々引用しており、今再度注目すべき哲学者です。
詳細はここでは触れませんが、アーレント曰くカントが著書で描いたような本来望まれる理性の使いかたを踏み外したからアイヒマンはあのような殺戮を容易になしてしまったとのこと。