友達が欲しい
物心ついた頃からでしょうか。
我々には友達がいないと寂しく友達がいると多少辛いことがあっても楽しくやっていけるという考えが刻まれています。
友達とはそれほどまでに我々の人生において重要なものなのかもしれません。
そんな「友達」なるものですが、「友達とは何か」と聞かれて答えられる人がいるでしょうか。
実はこれに答えることは容易ではありません。
今日はこの素朴な疑問について考えてみました。
■目次
▶友達の定義とは何か
▶友達とは何かが分かりにくくなる現代社会
▶真の友情はどのようにして完成するのか
■友達の定義とは何か
まず、そもそも友達とは何か?を考えてみようと思います。
それを考えるための題材として何がいいのかなーといろいろ本棚を物色してみました。
探す中で、友情の定義について書く本というのは今も本屋に行けばちらほら見つかるのですが、どれを元に論を始めようかと悩みました。
そんな時こそ「最もはじめに友達の定義を考えた人」の考えに触れてみようというのが私のスタンスです。
調べたところ友情を考えた歴史上で最も最初の人物と思われる人の本を見つけました。
マルクス・トゥリウス・キケロの『友情について』という本を見つけました。
キケロは紀元前106年ー紀元前43年に政治家として活躍した人物です。
随分と昔の人物です。そんなときから現代人のように友達について考えている人がいたんです。
これより昔に友情について書いた書物を今のところ私は知りません。
そういうわけで、キケロが考える友情の定義をベースにいろいろと考えてみましょう。
キケロは友情について書の初めの方で下記のように述べます。
友情は数かぎりない大きい美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ。
『友情について』マルクス・トゥリウス・キケロ(2004)岩波文庫
友情というものはとにかく素晴らしいと彼は述べます。
希望をもたらし魂がくじかれそうな時に救いをもたらすと彼は述べているのです。
別の箇所では以下のようにも述べています。
友情というものは人間に関わるものの中でも、万人が口を揃えてその有用性を認める唯一のものなのだから。
『友情について』マルクス・トゥリウス・キケロ(2004)岩波文庫
友情の有用性を認めない人はいないと彼は断言します。
それほどまでに友達というものは偉大なものであるということですね。
最近これの反動で「友達はいらない」系の本が増えていますが、ああいう類の本を読むと実態は「(薄っぺらい人間関係を前提とする)友達はいらない」という枕詞がついたものであることがほとんどで、実際はその中で有用性を否定しているものではありません。
そういうわけで結局2000年以上経ってもキケロ以降の人たちは友達の定義について「誰もがその有用性を認めてやまないもの」という定義へ正式な反論はできていないようです。
ただ、これだけでは消化不良ですよね。
友達とは何かについて答えているようで答えていないような気がします。
そこで、キケロが述べた「有用性」という箇所に着目してみます。
つまり、友達とはいかなる有用性を意味するのかを考えてみるのです。
■友達とは何かが分かりにくくなる現代社会
我々はどのような時に友達に「有用性」を見出すのでしょうか。
これを考えることで友達の定義にも近づけるのではないかというのが私の仮説です。
ただ、これが一筋縄ではいかないようです。
一般的に「有用性」という言葉は物に対して「使用価値」を感じる時にその言葉を利用します。
しかしながら、この意味で友達というものに適用するのは難しいのです。
友達は物ではないですからね。
それゆえに、難しいと私は述べたわけです。
そこで、「有用性」を別の切り口から考えてみます。
一つのヒントとしてハンナ・アーレントが『政治の約束』という著書の中で述べていることに注目しました。
この種の対話、すなわち有意味であるために結論を必要としない対話は、友人関係に最もふさわしいものであり、友人同士でよく交わされているものでもある。実際、大概の友情は、この種の友人同士に共通する話題のおしゃべりから成り立っている。
『政治の約束』ハンナ・アーレント(2008)筑摩書房
彼女は先に私が述べたように資本主義的な解釈での「使用価値」と意味が正反対の「有意味」に真の友人関係をみています。
要するに目的や結論という意味での結末を不要とすることが友人関係に最もふさわしいものであると彼女は述べているのです。何か結論を必要とする関係は友達とは言わないと。
ちなみに今あげた「目的」という言葉ですが、実はトマス・ホッブズによれば動物と人間を隔てる最大のものだと言われています。
たとえば、ホッブズが伝統哲学と訣別した一つの理由は、これまでの形而上学はすべて、万物の第一原因を究明することが哲学の主な務めであるとする点でアリストテレスに追随してきたのに対し、目的や目標を指示し、合理的な行為の目的論を打ち立てることに哲学の務めはあると主張した点にある。ホッブズにとってはこの点こそ重要であった。そして、原因を発見する能力なら動物でも具えており、それゆえこの能力を持つか否かは、人間の生命と動物の生命を区別する真の指標にはならないとまで主張した。
『過去と未来の間』ハンナ・アレント(1994)みすず書房
目的を立てることこそ人間がその他の動物に比して優れたことを示すものであるとホッブズは述べたとのこと。
そしてこの思想が資本主義を生み出し社会の多大なる物質的発展をもたらしたというのがアーレントの分析なわけです。
目的を据えそこに至るまでの過程を悪く言えば犠牲にできたからこそ巨大な富を生み出せたのです。
一方で、アーレントはこれを好意的に捉えたわけではないということに着目する必要があります。
むしろその指摘されない負の側面を強調しました。「目的」と「手段」というカテゴリー化を常識として物事を見るメガネに警鐘を鳴らしたのです。
功利主義のアポリアは、手段と目的というカテゴリーの枠組みそのものにある。それは、達成された目的一切をすぐさま新しい目的の手段へと転化してしまい、それによっていわば、意味が生まれそうになるや否やその意味を破壊してしまうのである。
『過去と未来の間』ハンナ・アレント(1994)みすず書房
資本主義社会における物の見方が自らの常識とされる現代社会は古代に比べて著しく友達が見つけにくい時代となっているということですね。
■真の友情はどのようにして完成するのか
ここまでをまとめますと、まず、キケロの述べたように、友達とは誰もが無批判にその有用性を認めるもののようです。そして、ここでいう有用性とはその関係性において「目的」や「結論」を必要としないものであるということを述べさせていただきました。
最後に真の友情関係はいかにしてなし得るかについて書いていければと思います。
キケロによれば「自己を愛するように」まずは相手を愛せるかどうかを重視します。
人は皆自分を愛するが、それは自分から愛の報酬を取り立てるためではなく、自分がそれ自体として大切だからである。これと同じことが友情にも移されるのでなければ、真の友人は決して見出されぬであろう。真の友人とは、第二の自己のようなものであるのだから。
『友情について』マルクス・トゥリウス・キケロ(2004)岩波文庫
今述べた「愛」ですが、これはもちろんキケロのいうように自己愛をある程度必要とする一方で、自己愛が強すぎることもまたよくないことがあるようです。
フロムの名著『愛するということ』にはこう書かれています。
愛の本質について先に述べたことに従えば、愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。
『愛するということ』エーリッヒ・フロム(1991)紀伊国屋書店
自己愛を程よく持ちながら、それが行き過ぎないところに友情を成り立たせるような「愛」は存在するのであると。
ここまでで、友達とは何かが少し見えたのではないでしょうか。
もちろんこの定義だけではないと思いますが、やはり「愛」からできているものだと言ってよさそうです。
その「愛」は自らを愛するように運用されるものであるとともに過度なナルシズムではない程度の様態が望ましいようです。
以上、友達とは何かという率直な疑問について考えてみました。
いかがだったでしょうか。
ここに書いたことが友達について考えるのにお役に立てば幸いです。