今日は久々におすすめしたい本のご紹介をさせていただきます。
本日取り上げるのは名前くらいは聞いたことのある福澤諭吉の『学問のすすめ』を取り上げます。
ご存知『学問のすすめ』は当時の人口3000万人くらいに対し300万部売りあげたとも言われる大ベストセラーで下記の冒頭は日本人のほとんどの人が知っているほどとても有名です。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
『学問のすすめ』福澤諭吉(2009)ちくま新書 p8
この意味は、人々の平等性を説いていると言われており、そう解釈できる理由として下記に続く文章を踏まえると見えてくるのですが、神は元来人に差をつけないにもかかわらず人々の間に差があるのは「学問をしているか否か」が大いに関係があるという記載が続くからです。
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。・・・・賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。
『学問のすすめ』福澤諭吉(2009)ちくま新書 p9
ただ、こういったある意味平易な主旨が冒頭にあるため「そうか。学問をするのが大事なのか」というエッセンスだけをぬきとるだけの読み方が少なくないようです。
しかしながら、それでは『学問のすすめ』の魅力の1%も味わっていないと個人的には考えています。
つまり、もっといろいろかつ深く考えるヒントをくれるのが『学問のすすめ』ではないかと。
そういうわけで少し『学問のすすめ』が伝えているメッセージについて書かせてもらいました。
■福澤諭吉思想への一般的な誤解
福澤諭吉の思想というとよくあげられるのが冒頭に挙げた「学問をせよ」といった人というイメージがあります。
まあこれについては特に批判される方はいられないので今回はもう一つ彼の思想として典型的にイメージされているものを取り上げます。
これは広く伝播されているのですが、福澤諭吉の意図とは全く違うところが面白いところです。
その誤解された福澤諭吉の思想とは「開国思想」(国境なんてものにこだわる時代は終わった。鎖国なんてしている日本は古い古いというもの)です。とにかく国を開いていかなければならない、、、そういったイメージです。
ただ、国を開いていかなければならないと本当に彼は思っていたのでしょうかというのが私の「一般的な福澤諭吉イメージ」への疑問符です。
そう考えた背景にはそもそも論として「開国」がさも日本が主体的に行い良かったものであったかのようにイメージされていますが本当なのかというところが挙げられます。
これらに関しては甚だ疑問という立場を私は取ります。
どうも今の人がなぜか神格化している「開国思想」は当時の日本にとってはとても喜べるものではなかったのです。
どちらかというと外国からの要求にやむなくそうせざるをえなかったとさえ言えるのが「開国思想」のリアルではないでしょうか。
具体的に史実を見ますとペリーがきて結ばれた日米和親条約のあとすぐに結ばれた日米修好通商条約では「関税自主権」の放棄と日本側の「治外法権」の制限が決まりました。関税自主権と治外法権は国家主権の根幹の一つですから要するにこれは明らかなアメリカとの不平等条約だったのです。
自国で起きたトラブルを自国の司法で捌けなかったり、自国の産業を守るための関税を放棄せざるをえなかったことがどのくらいの屈辱的なことだったかはいうまでもありません。(今はそれが当たり前になっていてありがたみがわからない時代かもしれませんが、このあと日本が戦争を繰り返し取り戻そうとしたのが少なからず関税自主権と治外法権と言われています。小村壽太郎などがそれに向けて活躍。)
さて、福澤の思想に話を戻します。
今開国の実態について書かせていただきましたが、福澤は一般的なイメージで持たれているような「開国信者」をむしろ批判的に見ていたことが『学問のすゝめ』では読み取れます。ここ重要です。
あるものを採用しようとすれば、ゆっくり時間をかけて考え、だんだんとその性質を明らかにしてから、取捨選択をすべきである。なのに、最近の世の中の様子を見ると、中程度以上の改革者たち、一人がこれをいえば、皆それに倣い、およそ知識道徳の教えから、政治・経済・衣食住の細々としたことに至るまで、全て西洋のやり方を慕って、これを手本にしないものはない。・・・ひたすら古いものを捨てて、新しいものを求めているようだ。なんと、物事を信じるのに軽々しく、疑い方の粗忽なことよ。
『学問のすすめ』福澤諭吉(2009)ちくま新書 p9
いわゆる一般的な通念である外国に対して個人も国も開いていくべきと言ったような思想は微塵も見受けられません。
そういった西洋賛美をむしろ痛烈に批判していることがここからは読み取れるでしょう。
■福澤諭吉『学問のすすめ』から見える彼の思想
さて、福澤諭吉の思想に対する誤解を解いたところで彼の思想の核心に迫ってみましょう。
もちろんこれが「正解」などというつもりはなく他にもたくさんの読み方があると思っていますので、ご自身でもぜひ読んでみていただければと思います。
予防線を張った上で私の考えに移ります。
まず我々が抑えるべきは「鎖国か開国か」みたいな0・100の見方をすると福澤の思想が余計に見えなくなるということです。
福澤諭吉の思想を一言で言えば閉じるべきところは閉じ、開くところは開くという悪く言えば「平板な」、よく言えば「中庸な」考え方です。(変えるべきところは変え変えるべきでないところは変えない。)
「イノベーティブ」で「大胆な」思想を期待する人にとってはあまりに退屈な思想かもしれません。
ただ、こういった真面目さこそが何よりも偉人たるに必要な条件だと考えることもできませんか?
過激な思想は常に失敗に終わるというのがエドマンド・バークはじめ古今東西における政治思想が指摘する共通点だったりするのですが、福澤もその例にもれません。
現実に即して変えるべきところは変えるが、ただ維持すべきところは何が何でも維持せよというのが彼の思想哲学における根底に流れるものです。
道理がある相手とは交際し、道理がない相手はこれを打ち払うまでのこと。一身独立して一国独立する、とはこのことを言うのだ。
『学問のすすめ』福澤諭吉(2009)ちくま新書 p330
最近はどうも「日本は成熟市場で稼げないからアジアに出て若者は稼げ」とか「日本は衰退していくから外国で活躍できるようになれ」とか「日本は国をもっと開いて自由貿易を活性化させなければならない」といった荒唐無稽でかつ軽薄な思想が蔓延しています。
しかもこれが「グローバル時代の正しい考え方」とされているのですから開いた口がふさがりません。
ただ、そういった三流ビジネス書が唄うような軽薄な思想を信仰する前に今一度福澤諭吉を読んでみてはどうでしょうか。
今と同じように国境意識が弱くなる中でどう考えるべきか、どう行動すべきかについて考えるエッセンスをくれるはずです。
本来考えるべきことと逆のことを考えるべきではないかと福沢は考えさせてくれます。
■福澤諭吉の哲学が学べる著書
最後に福澤諭吉の哲学が学べる代表的な著書をリストアップ致しまして本記事の締めとさせていただければと思います。
ご覧いただきましてありがとうございました。