- 人生を充実させるためにはまずゴールの設定が大切だ
- 目標設定ができない奴は三流の人生を歩むことになる
- あなたは何をしたいのか?なぜそれを考えないのか?
今の時代というのは上にあげたような問いが幾度となく飛び交う時代のようでして、一言で言えば「生きる目的」がないとダメな時代のようです。
私なんかは社長になりたいとか起業したいとかそういうものは全くと言っていいほどありませんから三流の人生をまっすぐと歩く典型的な人物です。
「君は何をしたいのか」と聞かれて、「とりあえず今日は10時には寝たい」と答えるくらいしか私には「生きる目的」がありません。
まあ私の話はさておきましょう。
本題ですが、いわゆる意識高い系が言う所の「生きる目的」が皆無な私から一つ言いたいことがあるんです。
「生きる目的」は必要なのかと。
今日はこの「生きる目的」の持つ危うさについて少々書かせていただきました。
「生きる目的」の見つけ方を探す人が増えた理由
そもそも今、「生きる目的」を探す人が増えたのはなぜなのでしょうか。
「生きる目的」というと仰々しいですが、「やりたいことを見つけろ」といったようなキャッチフレーズもそれと同類の類です。
いずれにせよそれがないことは不幸であり、それを持っていることこそが幸福だとされる風潮が今はあるのです。
私が思うに考えられる答えは2つあります。
一つは人生への意味を与えてくれる存在が不在となったからだというのがあげられます。
その昔であれば、キリストだか仏だかが「汝は〜のように生きよ」ということを聖典などを通じて教えてくれたものです。
しかし、そのような宗教に根本的に疑いの目をいつしか向けるようになった我々にとっては、せいぜいキリスト教はクリスマスパーティーをする口実にしかなりませんし、仏教もお盆に長期連休を取る方便でしか無くなっています。
要するに、宗教というものを根本的に信じられなくなっているという現代人の気質が伝統的に「生きる目的」を与えていたものを蒸発させてしまい、今のような「生きる目的」をあさる必要性に我々を駆り立てているということです。
ただし、これをもって宗教を信じなさいということを述べようなどとは思いません。
なぜなら、そのようなことは相当な自己欺瞞を必要とするからです。
「生きる目的がない」のはまずいことなのか
続いて二つ目の理由です。
我々が「生きる目的」を探さなくてはならないと感じるもう一つの理由は「目的」と「手段」という思考の枠組みを打ち立てる功利主義の思考習慣が非常に我々を強く縛るようになったからだと私は考えています。
今の若手ビジネスマンなどを見ているとそれが非常にわかります。
多くの人が起業の準備をする必要に駆られ、多くの人が外資系コンサルティングファームに行かなくてはならないと考えるようになっているではありませんか。
また、全員がビジネススクールに通って「役に立つ」人脈を作ろうと必死になっているのもいい例でしょう。
こういった行動をとる多くの人が支配されているのが、まさに「目的」なき行為や行動は「する価値のないもの」と判断するような物の見方です。
このようなことを述べると「目的を立てて行動するのは当たり前じゃないか」と言われそうです。
しかし、もし本当にそう思っているのであればあまりに発想が貧しいと言わざるを得ません。
世の中にはそういった思考のカテゴリーしかないなんてことはありませんからね。
「生きる目的」を探す必要性に苦しめられたらすべきこと
そうはいっても生きる上での指針は欲しいとおっしゃられる方もおられるでしょう。
そこで最後に「生きる目的」を探さなければならないというこの現代人に特有の強迫観念に打ち勝つ上で重要なことを『ゲーテとの対話』から拝借して述べます。
この著書で推奨されていることは、「なぜ?」という目的を求める問いを通して世界を捉えるのではなく、「どのようにして?」という問いの立て方を通して社会を捉え直すことが重要だというものです。
そうすることで「生きる目的を立てなければならない」という無意味性からも解放されるのです。
著書のなかでゲーテは、「なぜ?」という問いが持つ人間の傲慢さ(自己を天地創造の神だとする自惚れ)を批判的に捉えます。
(我々は)自己を天地創造の目的と考え、他のいっさいのものただ自己との関係において、またそれが自己に奉仕し、役に立つときに限って認めようとしがちだ。
『ゲーテとの対話』エッカーマン(2015)古典教養文庫 ()は引用者
ここで言おうとしているのは「なぜ?」と我々が問いかけるとき、「(ある主体にとって)〇〇という理由で役に立つから」という答えを常に無意識に要求しているということです。
それは人間の分析にとどまらずあらゆる世界内の対象を分析するにあたっても使われると彼はいいます。
一例としてゲーテは牛の角をあげます。
功利主義者はおそらく、牛に角があるのはそれで身を防ぐためであると言うだろう。だが、それならば・・・・なぜ獅子には角がないのか、例え有るにしても、なぜ何の役にも立たないように、その耳のところで曲がっているのか、と。
『ゲーテとの対話』エッカーマン(2015)古典教養文庫
牛という主体にとって「役に立つ」から角はあるというのが「なぜ?」を起点とした対象理解です。
しかし、それは他の動物の「角」を見たり、見聞を広げていく過程で少々困ることになるのです。
なぜなら、獅子のように「主体」にとって「役に立つ」かどうかだけで「角」が存在していているとは思えない反例を現実においては幾度となく見つけられるからです。
同じような話に柳宗悦という日本の民芸品について多数の著作を残した人の考えも紹介しましょう。
彼は日本の伝統的な工芸品を研究した方なのですが、彼は研究をする中で日本の伝統工芸品の大きな特徴に気づきました。
それは「役に立つ」という観点では説明がつかないデザインや形状をしているのです。
踏み込んでいうならば「役に立たない」形状やデザインをしていることが少なくないのです。
なぜこのような無駄なことが日本の伝統工芸品にはなされているのでしょうか。
それはその無駄にこそ「美しさ」を感じたり「愛着」を感じたり我々はするからです。
そこにこそ日本の民芸の良さがあり、いいところなのだというのが彼の見解でした。
これは興味深い指摘とは思いませんか。機能としては役に立たないものがその作品の「価値」を高めてくれているというのです。
さて、ここでゲーテの話に戻しましょう。
改めてですが、「なぜ?」という社会の捉え方には限界があるというのがここまでで私が述べたいことになります。
そして、そうではない問いの立て方にこそ人生をより充実させる法理があるのだということをゲーテは促したのです。
今の話を踏まえれば、ゲーテが述べた「どのようにして?」がなぜ優れた問いの立て方なのかは自然と見えて来ます。
端的に言えば、この問いの立て方は個々の対象の「個性」を理解しようという柔軟な思考法だからです。
先の「牛」の例に関する続きのテキストをみましょう。ゲーテは次のように著書の中で述べています。
どのようにしてという質問ならば、一歩先に進めることができる。・・牛はどのようにして角を持つか、と尋ねるなら、そのことは、牛の身体の構造を観察することになり、同時に、なぜ獅子に角がなく、またありえないのかを教えられることになるからだ。
『ゲーテとの対話』エッカーマン(2015)古典教養文庫
牛の角がどのようにしてそうなったかを見ようとすることは牛についてのさらに深い理解を進めるのはもちろん別の角に出くわしても柔軟に物事を考えられるということを彼は述べます。「なぜ?」と考える思考習慣のある人には突破し得ない物の見方がそこにはあるのです。
少々本記事のタイトルから遠ざかったように感じる方もおられるかもしれません。
しかし、今の話は自分の人生にも当てはまります。
「なぜ私は生きるのか?」という生きる目的を問いかけるとき、自分の人生を「役に立つ」観点から意味づけを行わなければならないことに気づくでしょう。
もちろんこれで意味づけを行えるのであれば問題ありません。
しかし、そういう人ばかりではないでしょう。
私も含め少なくない人が「自分の人生は〇〇に役に立つ」とは言い難いような状況に置かれています。
だからこそ、「どのようにして私の今はあるのか?」「どのようにして私はその選択をしたのか?」と考えてみていただきたいのです。
「なぜ」が「役に立つ理由づけ」を求めるのに対して、「どのようにして」はあくまで対象の理解に努めるのです。
より一段深い思考をしてみたいという方にはぜひこの発想の転換をしてみていただければ幸いです。