世の中がダメになっていく時、そこにはダメな政治家および政治集団があります。
今の日本はというとまさにこれに該当するわけで、賃金偽装や統計改ざんを筆頭とした文明国家を名乗るのが恥とも言えるような現象を連発して居ます。
もちろん、通常ここに書いたような現象が起こればそのような政治家たちを排除すればいい話です。
憲法上それは可能ですし、政治体制が健全に機能していれば、自浄的にそのようなことが国民の意を通さずともなされます。
しかしながら、最近我が国で起こっている凄惨な出来事の数々を見れば、そのような「通常運転」ではない状態に我が国があることがお分かりいただけるでしょう。
ここに書いたことだけではないのですが、最近起きた統計改ざんを前にしても行政は開き直り続けています。
具体的には、統計改ざんが指摘されたあと修正対応したと言って出してきた報告書でまだ改ざんしていたり、政府与党が統計改ざんに関わった行政の責任者を国会に呼ぶことを嫌がったりと一つ一つ挙げればきりがありません。海賊が国を占領しているのと変わらない状態です。
なぜこのような開き直りが可能なのかというと国民をなめているからなのはもちろん、おそらく行政府を司る自民党がそのようだ態度をとったところで、有権者から排除されないという確信があるのでしょう。
さて、政府与党にこのような不可解な自信を抱かせているものはなんでしょうか?
その答えの一つに「御用学者」を私はあげます。
御用学者というクズこそが我が国の崩壊が進行することを公然とアシストし、多くの国民に誤った判断をさせることで海賊たちの占領を擁護し続けているのです。
そこで、今日はこの「御用学者」をキーワードに記事を書かせていただきました。
具体的には、個別に御用学者をあげ一人一人クズだというのを書いてもいいのですが、今回はそうではなく御用学者なるものが何故生まれてくるのかという観点からもう少し根本的な話をしたいと思います。
御用学者がいつの時代も現れる理由
安倍政権以降「御用学者」というものの存在が顕著になり言葉自体に注目が集まりつつありますが、いつの時代にもそしてどこの国においても御用学者というのは誕生してきました。
本章ではなぜ後世において「クズ」と言わざるを得ないような言論を平気で行なっている御用学者がその時々で大手を振って歩けてしまうのかにフォーカスさせていただきます。
結論から述べますと御用学者が大手を振って歩けてしまうのは我々自身が「知識人」という言葉が指し示す人々を過大評価しているからに他なりません。
おそらく「知識人」という言葉は社会通念上なんらかの「専門家」をさすという意味で捉える人が多いかと思います。
例えば「専門家」という言葉は経済学者、政治評論家、建設コンサルタントなどを我々は「知識人」というボキャブラリーを通して解釈します。
さて、繰り返しになりますがこの専門家としての「知識人」と呼ばれる人たちを過大評価しすぎであるというのが私の趣旨です。
「過大評価」しているとは例えば下記の3つなどを上げることができます。
- あらゆる利害から独立していると思われている。
- その専門分野以外にも詳しいと思われている。(テレビのコメンテーターなどはそうでしょう)
- 専門分野においては間違えることはないと思われている。
そういった過大評価があるからこそ、あからさまにクズな発言を「知識人」なる人たちがしていても「〇〇さんが言っているし」で思考停止してしまい結果として社会の腐敗が加速するのです。
御用学者に日本は歴史的にも弱い
そんな社会の腐敗を支える御用学者は世界中にいますがそれに対する対処がすこぶる下手な国家があります。
それは、日本です。
この章では日本が御用学者の追放に著しく弱い例としてある御用学者を取り上げます。
過去の御用学者を見ることで日本のダメさ加減を見て行きましょうということですね。
日本に限らず歴史に名を残す著名な人でもクズみたいな思想や行動をとった人は多数います。
海外で有名なところだとハイデガーやシュミットでしょう。
彼らはナチスを正々堂々と最後の最後まで支持しました。御用学者の典型です。
彼らの政治思想や哲学においての彼らの功績は色褪せないとしても、汚名は永遠に残るほどに今もなお批判の対象です。
さて本題ですが、日本でいうと御用学者の典型として誰が上がるでしょうか。
私は、吉田松陰や福沢諭吉を御用学者の典型として挙げます。
思想的立場に関係なく非常に人気のある両名を取り上げるのはなかなか勇気のいる行動ではありますが、あえてこの二人を取り上げます。
なぜなら、御用学者の典型なんですから。
彼らは今もそうですが、いい面だけを切り取り映される傾向にあります。
しかし、実態は相当ひどい人物です。
例えば、中国韓国への侵略を「ぜひともやるべきだ」と主張する伊東博文を頭とする政府の理論的支柱となった人です。
理由がなんであれ他国の侵略をやるべきだというのはクズです。
中韓ヘイトだけではありません。
国家のために個人の自由は著しく制限されるべきだと述べたり、戦争は悪いことばかりではないから時としてやっていった方がいいこともあるといった無茶苦茶な発言を公の場で積極的に行いました。
昨今発売されている福沢・吉田の両名に関する本は本当にいい部分だけが切り取られています。
出版社もビジネス書にして出せば売れるからこそこの両名を取り上げるんでしょうが、そのような英雄像は嘘です。
それを知る上で少しマイナーな著書を引用しましょう。下記は福沢が今でいう新聞の社説に寄稿したものを集めたものです。(杉田聡氏編)
『学問のすすめ』という作品で作られた姿が虚像であることがお分かりいただけます。
支那の実例、すでに如此くなりとするときは、日本もまた今の国情において外国と一戦するの利は、必ずその害に幾倍するものならんと鑑定して、あながち不当の説にあらざるがごとくしかるなり。・・・戦争は、必ずしも百毒・百害の性質あるものにあらざるなり。
『朝鮮・中国・台湾論集―「国権拡張」「脱亜」の果て』福沢諭吉、杉田聡編 (2010)明石書店 p27
中国との戦争をしていくことに非常に前向きな発言をしています。
そして、朝鮮半島への侵略を「朝鮮は未開の国だから我々が改革して文明国家にして挙げるのが大事だ」というめちゃくちゃな論理で侵略を正当化します。
朝鮮に出兵したるは、あえてその兵を用ゆるの意あるにあらず。あたかも封建の武士が、百姓・町人に接するに帯刀の必要あると同様にして、これを抜いて人を切らんとするがためにあらざれども、彼のごとき未開国に対して、文明の真味を甞めしめ、その国内の改革を促さんとするには、自ずから帯刀してこれに臨むの必要ありとは、前にも記したるがごとくにして、読者においては、その意を解せられたることならん。
『朝鮮・中国・台湾論集―「国権拡張」「脱亜」の果て』福沢諭吉、杉田聡編 (2010)明石書店 p180
完全なる「帝国主義者」です。クズ中のクズです。
これを私の「切り取り」だとおっしゃる場合は是非上の引用作を読んでください。
『学問のすすめ』などから見える福沢像の方がデタラメだと認めざるを得ないと思います。
なお字数の関係で書ききれませんが、吉田松陰も福沢同様に朝鮮などを侵略しようと発言したり弟子に暗殺をそそのかしたりしています。(完全なるテロリスト)
ここで本題に話を戻しましょう。
今の話で何を言いたかったかというと、御用学者とよんで差し支えない人たちへの後世の対処が日本はダメすぎるということです。
批判にさらされるということを後世にもわたって続けているヨーロッパに比して、日本においては帝国主義者で、差別主義的発言満載の二人が「いまだに」祭り上げられています。
福沢に至ってはご存知の通り最高紙幣を四半世紀以上もつとめあげるという異常事態です。
日本は本来第二次大戦などの総括としてこの福沢、吉田の両名を退けるところから始めなければならないというのが私の立場なのですが、そのウェーブはまだ起こりそうもありません。
むしろ、戦後丸山眞男を筆頭に多くの知識人が彼らを「愛国者」として祭り上げてしまったのです。
福沢と吉田の話が長くて恐縮ですがこの二人への見方は我が国の短所を知る上で非常に重要です。
この二人はいかなる思想からも重用される傾向にあり批判から逃れ続けています。
例えば、吉田松陰は宮本顕治という共産党書記代表もつとめた人物が持ち上げた一方で、「保守」として崇められ戦後最長の政権を運営することになるであろう安倍晋三という政治家からも尊敬する人物として挙げられています。
左から右まで多くの人が侵略主義のデタラメ御用学者を担ぎ続けているのです。
ここでエドワード・サイードの『知識人とは何か』という著書のある一節を引用します。
サイードがのべるある一節が非常に日本に重くのしかかります。
暗い時代に、知識人が、彼もしくは彼女の属する民族の仲間達から往往にして求められるのは、民族の舐めた辛酸を声に出して語り、その証言を残すことである。卓越した知識人とは、オスカー・ワイルドが自分自身について語った言葉を弾かせてもらえば、常に、時代を象徴する関係にある。
『知識人とは何か』エドワード・サイード(1998)平凡社 p75
卓越した知識人とは「時代を象徴する」とかれは述べています。
彼はポジティブな文脈で書いていますが、私はこの文脈はネガティブなケースでも当てはまると思っています。
御用学者を批判的に見られなければ永遠に停滞します。
日本は100年以上思想的には停滞しているといっていいでしょう。
「知識人」を再定義する
最後に今引用したサイードが述べた知識人に対する解釈をご紹介して終わって行きたいと思います。
サイードは知識人というものを冒頭に述べた定義よりもかなり広い解釈をします。
サイード曰く、知識人には専門家という文脈だけでなくアマチュアとしての知識人もいるとのことです。
この「アマチュア」としての知識人こそが今の時代には足りておらず必要であるというのが彼の主旨です。
すでに示唆したように、知識人が相対的な独立を維持するには、専門家ではなくアマチュアの姿勢に徹することが、何より有効である。
『知識人とは何か』エドワード・サイード(1998)平凡社 p135
なぜサイードが「アマチュア」にこだわるかというと、「専門家」になるということは我々のイメージとは正反対になんらかの権威の奴隷になるということの宣言だからです。批判すべきものを批判できなくなるということですね。
ところが、政府や大企業に使える場合、モラルの感覚をひとまず脇に置くようにという誘惑の声、またもっぱら専門分野の枠の中だけで考えるようにし、とにかく意見統一を優先させ、懐疑を棚上げにせよという誘惑の声は、あまりに強力で、それにうちかつのはむつかしい。多くの知識人は、こうした誘惑に完璧に屈しているし、程度こそ違え、同じことを私たち全員が行なっている。誰も完全に独立独歩ではやってゆけない。このことは自由な精神の持ち主の中で、どんなに偉大な人間にも当てはまる。
『知識人とは何か』エドワード・サイード(1998)平凡社 p135
サイードが上に書いているのは端的にいうと、多くの専門家が仕える者の奴隷にならざるを得ないし、そもそも強いられるまでもなく専門家たちはある方向に自発的隷従の道を歩むということです。
今や統計改ざんが明らかになり、ここ数年にわたる「好況感」の虚像が明らかになりつつあるわけですが、それと同時に明らかになりつつあるのが、昨今の経済政策を必死になって擁護してきた多くの御用学者の存在です。
彼らはクズなのはいうまでもありませんが、彼らが社会として野放しになっていたのは我々にも責任があります。
大学教授が言っているからということで思考停止していたツケが相当回ってきていると言えます。
今こそ我々自身が「アマチュア」として専門家を「クズだ」と断罪しなければならないのです。
クズクズと連呼していますが、私はクズという言葉をあまり使いたくありません。
ただ、昨今の「知識人」というものを自称する御用学者のクズぶりは眼に余るものがあります。
人から金をもらっておいて国民を騙しにいくというのはよくいって詐欺師です。
色々と書いてきましたが最後にまとめます。
結論としては「専門家」に恐れをなさず、サイードが述べたようにむしろ「アマチュア」である我々の方が真っ当に発言したり考えたりできる可能性が大いにあるということです。
そして、彼らの「専門的立場」に立つことの弊害を批判的に捉えていくことが重要なのです。
なんか偉そうに書いてきましたがそれは私が所詮「アマチュア」だからですね笑