今、メディアを騒がせている大臣がいます。
それは萩生田文部科学大臣です。
なぜ騒がせているかというとそれは彼のテレビでの「身の丈」発言にあります。
本日はこのトピックを取り扱いたいと思います。
ネット上ではこの発言に対して、「メディアの揚げ足取り」「重箱の隅をつつくな」「切り取り報道」と萩生田氏の発言を問題視しない意見もありますが、大臣として明らかに不適切な発言だということを述べさせていただきます。
萩生田文科大臣が炎上した経緯
まず、簡単にですが、萩生田氏が炎上している経緯について触れたいと思います。
「身の丈に合わせて」のところだけがメディアでは取り上げられていますが、その前後関係もわかるように補足します。
きっかけはフジテレビの番組で、大学入試改革における英語試験について話題が及んだときに飛び出しました。
まず、今回の大学入試改革ではセンター試験というのが廃止され新規にその代わりとなる試験の仕組みについて説明がなされました。
具体的には、その代替として民間試験の活用(GTECや英検)を使うというものです。
ただし、これらの民間試験が入試の合否に考慮するにあたっては一つ条件があると説明がなされます。
そのルールとは民間テストについては「高三時に受けたものでありかつ、その受験回数は2回までを上限とする」というものです。
この新しい受験の仕組みはもちろんポジティブな面はあるものの当該の学生がどこに住んでいるかや経済状況などによって有利不利が生じるのではないかと番組内では指摘されました。
そんな流れの中で萩生田氏の「身の丈」発言は飛び出したのです。
住む場所や家庭の経済状況によって不公平が生じないか――。こんな質問に、萩生田氏は「『あいつ予備校通っててずるい』というのと同じ」などと反論。高3で受けた2回までの成績が大学に提供されることを踏まえ、生徒の境遇により本番までの受験回数に差が出るのを認めた上で、「身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで勝負してがんばってもらえば」と述べた。
『「身の丈」発言に批判「格差容認か」 萩生田氏撤回せず』朝日新聞デジタル 2019年10月29日
ここにある通り、「生徒の境遇により本番までに受験回数に差が出るのを認めた上で」、「身の丈」に合わせて受験をしてくださいという発言が飛び出したのです。
萩生田文科大臣「身の丈」発言の問題点
さて、この萩生田文科大臣の発言はどこが問題なのでしょうか。メディアの揚げ足取りでしょうか。
そんなことはありません。
この件の問題点を端的に言えば、公人の立場で言ってはいけない一言を発してしまった点につきます。
というのも、この「身の丈」という言葉には「機会の平等」を担保するよう努めるのが政治家の役割でありながら、その仕事を放棄していると思われても仕方ない文脈が含蓄されているからです。
もちろん、全ての高校生に完全に平等な受験機会というのを作るのは難しいかもしれません。現実問題不可能に近いでしょう。
しかしながら、萩生田氏は文科大臣ですから、それを限りなく0に近づけるようにしていくことが職務です。
そのような職務にありながら、それが無理だと受け手に思わせる発言をしたのです。
萩生田氏は大臣という職が身の丈にあっているのか
この「身の丈」という言葉を執拗に取り上げすぎではないかとお考えの方もおられるでしょう。
揚げ足取りに見える人がいることも理解します。
しかしながら、この「身の丈」という語彙を自分で自分のことをいうのに使うのではなく、他人に対して無意識に使ってしまうというのは文科大臣の適性はないとしか思えません。
あなたが過去にもし「身の丈」という言葉を他人に使ったとした場合、少なくともその方々を「尊敬」の対象としてみていたことはあるでしょうか?
「身の丈にあった服装」「身の丈にあった生き方」「身の丈にあった仕事」などなどが使い方としてあるかもしれませんが、このような言葉をジョーク抜きに知り合いでもない人に使えるかどうかと考えて見てください。
仮に言われたら、いい気分にはならないでしょうし、「すげえ上から目線だな」と思うのではないでしょうか。
なお、萩生田氏は結局撤回することになりました。
萩生田文部科学大臣は、大学入学共通テストに導入される英語の民間試験をめぐって「身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」などと発言したことについて、発言を撤回したうえで「私の不徳の致すところだと反省をしている」と述べ、改めて陳謝しました。
『“身の丈” 発言撤回し改めて陳謝 萩生田文科相』NHK 2019年10月29日
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191029/k10012154631000.html
しかし、無意識に「身の丈に合った」という言葉をここで選んでしまったということは変わりません。
このニュースを見る我々は、「一般感情としてこの発言を無意識にしてしまう人を受け入れられるかどうか」を冷静に見つめる必要があります。