お盆休暇が終わりました。多くの人が今週から仕事続きの毎日ではないでしょうか。
さて、そのような毎日の始まりに際して、「よっしゃー」と思う人はどの程度いるでしょうか。
あなたがもしそういった考えをお持ちであれば、それは大変喜ばしいことだと言えます。
なぜなら、いうまでもなく人生の大半を我々は仕事に使いますから。
一方で、そのような働きたい人や働くことに幸福を感じる人ばかりで世の中は溢れていません。
「働きたくねえ」が口癖の人、「Youtuberになりてえ」が口癖の人、「明日定年退職したい」が口癖の人などなどあなたの周囲にもいるのではないでしょうか。
本記事では、シモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』を参照しながら我々にとって切実ともいえる疑問「何故我々の多くは働きたくないと考えてしまうのか」というトピックを取り上げることとします。
ただしあらかじめ一点だけお伝えしたいことがあります。
この疑問に対する回答として一般的によく見られるような次のような理由を上げることは期待しないで欲しいということです。
- 上司に怒られるのが怖いから
- 営業として数字が残せないから
- 単純に仕事がつまらないから
- 給与が安いから
- 休みが少ないから
- モチベーションに格差があるから
少し大きな視点から「働きたくない」根本的な理由を記しています。
*本記事は『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』 (フォレスト2545新書)の内容を一部抜粋したものです。
「働きたくない」と考えてしまう理由ー社会による個人の抑圧ー
さて早速ですが、我々の働きたくない理由についてヴェイユがどのように考えたかをご紹介します。
単刀直入に言いますと、彼女は「個人を抑圧するような構造へと我々の社会自体が変化してしまっているから」だと考えました。
これはどういうことなのでしょうか。
一般的に我々が仕事に対して何らかのフラストレーションを貯める時、「給与」、「休日」、「福利厚生」、「人間関係」などを原因とみなすことが多いでしょう。実際、その一面があることを彼女も否定していません。
しかしながら、根本的な「つらさ」の源泉はどこにあるのかと考えた時に、「社会による個人の抑圧」を避けては通れないと繰り返し主張するのです。
では、この「抑圧」の高低は何で測定されるのでしょうか。
ヴェイユはそれに対して「思考」というキーワードを挙げます。
著書の中では次のようなテキストがあります。
要約するならば、もっとも弊害の少ない社会とは、一般の人々が行動する際にあたってもっとも頻繁に思考する義務を負い、集団的生の総体に対して最大限の制御の可能性を有し、最大限の独立を保持するような社会である。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ(2005)岩波文庫
ここには、弊害の少ない社会の定義として、個々人が行動するにあたり頻繁な「思考」が存在するか否か重要になってくるとあります。
言い換えれば、「思考」が個人から剥奪される度合いが大きければ大きいほど我々にとってその行為は辛くて不快なものとなるということです。
ここからわかるある重要なことがあります。
それは、特定の「仕事」そのものがそれ自体でつらいかどうか決まっているものではないというところです。
ある同じものを作るにせよそれが作成者に抑圧された(思考が存在しない)状況下で取り組むことを要求するか否かによって変わるのです。
彼女はそれを象徴的な例を持って紹介してくれています。
集団行動でもこれに類する差異が認められる。職工長の監視下で流れ作業に携わる労働者の一団は、哀れを誘う光景である。一方、一握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めをくらい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動の有り様を呈示し、他の仲間に対する公的な権威の有無にかかわらず、誰かが構想した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ(2005)岩波文庫
個人の抑圧を正当化する論理
ここで一つの疑問が湧くでしょう。
「現実において多くの人が働くことに対して前向きになれないにも関わらずなぜ状況は変わらないのか?」というものです。
この疑問に対してヴェイユは社会的抑圧を正当化する思想があるからだと述べました。
それは端的にいえば「生産性」に至上の価値をおく思想です。
要するに、とにかく早く安くたくさん作らなければならないという思想にプライオリティが置かれたために、我々の思考を抑圧することなど気にも留めない状況が常態化したということです。
「生産性」は何によって引き上げられるかといえばもちろん「分業」です。(おそらくアダム・スミスがこれについては『国富論』で言い始めたとされる)
具体的には、職人技を使わなければ作成不可能だったものも業務プロセスを細分化し個々人が担う作業を少量にすることで、比較的誰もができる作業の連なりにすることができるということです。
容易になるということはより効率的な作業を可能にしますからより多く、より安く物を作れることになるのはいうまでもありません。
実際、こうなることでこれまでの時代とは比較にならないほど短い時間軸で物質的に豊かになりました。
「働きたくない」と感じる人が減るように
しかし一方では、すでに指摘の通り我々から「思考」する余地をみるみる奪い去ってしまい我々自体を別の側面からは貧しくなった部分もありました。
さて、このような産業の劇的な発展と引き換えに失った我々の活力はいかにして取り戻せると彼女は考えたかを最後に見ましょう。
彼女は『唯一の救いの可能性は、社会的生の漸次的な脱集中化をめざして、強気も弱気も力を合わせて方法的に協働すること』しかないだろうという見解を示しました。
要するに、多少の生産性を犠牲にしてでも行き過ぎた分業を止める必要があるという話です。
さて、これは現実味があるのでしょうか。
非常に怪しいと言わざるを得ません。
おそらくほとんど全ての人が無理だと言うでしょう。
実は、彼女自体もそのような自己認識がありました。
・・・それがいかに不条理な考えであるかは一目瞭然である。個人間の競争と階級間の闘争と国家間の戦争に基盤をおく文明にあって、かかる協働は夢にも考えられない。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ(2005)岩波文庫
個人が思考を頻繁に働かせることのできる『社会的生の脱集中化』には、資本家階級のあてにもならない「高い倫理観」を求める必要があるとこの後で述べられています。
そういう不条理な現実を踏まえヴェイユ自体は、結局のところ社会自体に絶望し、宗教に救いを求めるという形に落ち着いてしまうのです。
だから我々も「宗教に救いを求めよう」・・・・・・・・
という言葉を私はこの記事の最後のメッセージにする気はありません。
実は、ヴェイユが予期しなかった世界が一部とはいえ現在の世界ではできつつあるのです。
ヴェイユの論理に立てば個々人の「思考」領域を担保することと産業の「生産性」を担保することの両立は困難なものとされていました。
しかしながら、現代の世界においてはこの両者を並存させようという流れも生まれつつあるのです。
つまり、「思考」を個人に頻繁にさせることで、むしろ「生産性」を高めていこうという思想が生まれつつあるということです。
これはあくまで私の主観ですが、「アメーバ経営」と呼ばれるものはその一つに該当すると考えています。
アメーバ経営とはいわゆる事業部ごとに「一つの会社」であるかのように売り上げやコストの管理を全て任せ、その成果を報酬に反映させるというものです。
この経営方式により多くの人が歯車としてではなく、組織に対してどうすればうまくいくかを頻度高く思考しやすくなるような状況が生まれているのです。
カール・マルクスはあらゆる闘争を労働者と資本家の闘争に置き換えそれが避けられないものであるとしました。
ヴェイユも敬愛するマルクスの思想の延長でそう考えていた可能性が高いでしょう。
しかしながら、21世紀の今日においては少しとはいえ共存の道が見えているのです。
こういった社会の変化を受けて本記事を読んでいたかたにして頂きたいことは一つです。
それは自らを抑圧するものは何かを「思考」してみることなのです。
そして、日々の仕事において自らを抑圧しているものはなんなのかを考えてみてほしいのです。(「思考」という活動を妨害しているのはなんなのか)
一方でここから言えることとして絶対に避けるべきことがあります。
それは「自己欺瞞」です。自らを現状に甘んじさせ「諦め」を正当化する行為です。
例えば最近は怪しげな心理学などが流行しており、「人生ってメンタルゲーでしょ?」と考え乗り切るトレンドがありますが、あれは典型的な「自己欺瞞」の類です。「辛いのは自分のせいだ」と考える習慣がついている人にはぜひこのことは心に留めてほしいのです。
チープな心理学に身を委ね、自らを欺くことは事故を救いからむしろ遠ざけます。
食べるために働き、働くために食べ・・・この二つのうちの一つを目的と見なしたり、あるいは、二つともを別々に切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。サイクルにこそ、真実が含まれている。
かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。
人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。
『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ(1995)ちくま学芸文庫
自らを偽らず現実を直視できれば、その瞬間から一歩救いにつながっていると彼女も述べるように現実の苦難を直視することから大きな一歩が踏み出せるのです。
あなたの今いる組織が何らかの構造を持っていることが原因であなたから活力を奪っている可能性がある、、、そう考えてみてみると毎日が少し楽しくなるでしょう。
それに気づけるだけでも一歩救いに近づいていますし、その構造自体になんらかの変化をもたらすことができればなお良いでしょう。
8月8日より発売の拙著はここに挙げたヴェイユも含めた50人の思想家に関して素朴な疑問を出発点として手に取っていただけるような内容になっております。
ここでは本著のエッセンスのごく一部のみを紹介いたしました。
少しでも興味を持っていただけましたら書店にてぜひご一読いただけますと幸いです。