「死にたい」
「生きている意味を感じない」
「毎週同じことの繰り返しで生きていることに疲れてきた」
そう考え本当に行動にうつしてしまう人が、世の中には一定数います。
特に日本の場合、「自殺大国」と言われるほど、毎年多くの人が自らの命を断ってしまいます。
2017年の日経新聞が出した記事では死亡率が諸外国との比較で6番目に入ったと報道がなされました。また、若年層の死亡率でいうと事故死よりも死亡率が上回ったのは日本だけという結果もありました。
「政府は30日の閣議で、2017年版の自殺対策白書を決定した。人口10万人当たりの自殺者数を示す自殺死亡率を諸外国と比較し、日本は6番目に高かった。若年層の自殺と事故の死亡率を先進7カ国で比べると、自殺が事故を上回ったのは日本だけだった。」
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30H2W_Q7A530C1CR0000/
なぜここまで多くの人が生きている意味を感じられないのでしょうか。生活に困る人が多いからなのでしょうか。
もしそうだとすると日本より経済的に貧しい国はたくさんあります。
ですから、アフリカなどで自殺が日本の数倍は起きていないとおかしいでしょう。
しかしながら、、現実問題として日本を始め比較的豊と言われる国でたくさん起きているのです。
本記事では、そういった我々にも馴染みの深い「自殺」について考えられる有益な一冊をご紹介いたします。
エミール・デュルケームの『自殺論』です。
人々がなぜ死にたくなるのかについて一風変わった角度から論評を行なった書籍です。
この本の面白さは内容もさるところながらそのアプローチの方法にもあります。物事の見方を変えてみるということを学習できる教材としてもオススメの一冊です。
生きている意味が感じられず最悪の行動に至る要因について主だった誤解
まずは、一般的な自殺がおこる理由についての誤解から見て行きましょう。
デュルケームがいうには、誤解とは個人が生きている意味を感じられず最悪の行動に至った原因を考えるときに個人的なものによってのみ全てを理解しようとする部分を指します。
「個人的なものに帰する」というのは「仕事が辛かったから」や「生活をしていくのに困ったから」など個人が経験を通して培ったものをベースに内面からでたもので原因を説明しようとすることを指します。
しかし、冒頭にもあげました通り、例えば「生活が苦しいから自殺をした」というのはありえなく、むしろ逆ではないかとさえ言えます。デュルケームも同じ立場に立ちます。
人が最も容易に生を放棄するのは、生活の最も楽な時期、および生活に最も余裕のある階級においてである。仮に本人の個人的境遇が、自殺への決意を促す真の原因である場合が実際にあったにしても、そのような場合は確かにごく稀であるから、それによって社会的自殺率に説明を与えることはできないだろう。
『自殺論』エミール・デュルケーム(1985) 中公文庫
ですが、おそらく原因を個人的なものに帰するのは当然ではないのかと考える人が多いのではないでしょうか。デュルケーム自体もそのような考えが一般的であることを認識しています。
それゆえ、最も大きな影響を個人的条件に帰している論者でさえ、その原因を、それらの外部的な出来事に求めず、むしろ本人の内在的な性質、すなわち本人の生物学的構造およびその基礎をなす物理的な付随現象に求めたのであった。
『自殺論』エミール・デュルケーム(1985) 中公文庫
しかし、それだけでは真の原因は決してわからないと彼は考えています。
では、なぜ個人の気質に生きている意味の喪失要因を希求することをデュルケームは批判したのでしょうか。
それは、いくつか理由がありますがここでは一例だけあげます。
彼は色々な国のデータを見ていくと一定数の自殺者が安定的に現れることを指摘しつつ、個々人がそう思うだけならもっと上下動が激しいはずだというのです。
パリにおいては自殺数が非常に安定的に経年で推移していたことを具体的にはあげていました。
それゆえにデュルケームはある結論を出すわけです。個人的な要因以上に個々人を追い込む社会的な要因があるのではないかというものです。
生きている意味が感じられないように誘導するものの正体
このような社会が個人を突き動かしているという発想はいわゆる「社会学的アプローチ」と言われます。この流派ではマックス・ウェーバーやマルセス・モースが有名ですが、デュルケームも重鎮の一人です。
ただ、この考えは一般の人の中ではマイナーかもしれません。それには理由があります。
彼も述べていることですが、社会学的アプローチが少数派なのは「社会を個人の単なる集まりでしかない」と考える人が多いからです。
まず何よりも、社会が個人だけから成り立っているとするのは誤りである。社会は物的な事実をも含んでいて、しかもその物的な事実が、共同生活の中である本質的な役割を果たしている。
『自殺論』エミール・デュルケーム(1985) 中公文庫
自分がダメなのは自分が悪いからで、自分が成功したのは自分が頑張ったからみたいな「メンタル論」が好きな方は日本でも多いでしょう?
ああいうネオリベ的な発想からは決して許容されない思想です。メンタルでなんでもなると思っている自己啓発信者みたいなのがいますからね。
しかしながら、毎年多少の上下がありながらも一定数の自殺者が出てくるということを個人の「生きている意味を感じられなくなったから」という理由だけで説明するのは不十分です。
そういう意味で、デュルケームのように社会起点でその着火点を求めるのはある意味理にかなっているのです。
すなわち、毎年毎年の一握りの自殺者は、別に自然の集団を形成しているわけでもなく、また互いに意思の疎通があるわけでもないから、自殺数のあの恒常性は、個人を支配し、個人よりも永続する同じ原因作用に基づいているという他ない。地上バラバラに散在する多様な個々の自殺によって形成されているその束に統一性を与えている力は、必然的に個々のケースの外部に働いている力でなければならない。
『自殺論』エミール・デュルケーム(1985) 中公文庫
では、デュルケームは多くの個人が生きている意味が感じられない理由を何に求めているのでしょうか。
端的にまとめますと、個々人に生きる意味を与える社会的な連帯が弱体化しているところにあると求めます。
したがって、その病弊を防ぐには、社会集団を十分強固にして、個人をもっとしっかりと掌握できるようにするとともに、個人自身も集団に結びつくようにさせる事以外に方法はない。時間的に個人に先んじて存在し、個人よりも永続し、あらゆる面で個人を超えているような集合的存在に、個人は一層連帯を感じなければならない。
『自殺論』エミール・デュルケーム(1985) 中公文庫
実際、デュルケームは別箇所で都市部のように共同体が弱いところほど率が安定しているという主張を展開します。
生きている意味が感じられないのは都市部の共同体や中間組織と呼ばれる人と人を繋ぐ具体的なものが衰弱しているところだというのです。
どちらかというと比較的農村地帯などの共同体が生き延びているところでは低下する傾向にあるというのです。
こうしてデュルケームは、社会という公的な空間が「個人よりも永続性があるもの」としての側面を使い個人に存在意義を与える役割を担えなくなりつつあることを批判しています。
だからこそ「意味」を失った個人にとって生きている意味を感じられず、最悪の選択を取る可能性が高まるのだと。
個人を良い意味で掌握することで最悪の行動に走らせないことができるというのはデュルケームの主張の核心部分です。
生きている意味を生み出す方法
最後に、個人が生きている意味を感じられない人をマクロ的に低減していくにはどうすべきだと考えていたかご紹介いたします。
デュルケームは「職業組合」にその活路を見出しました。
さて、宗教社会、家族社会、政治社会などの他にも、これまで問題にされなかったもう一つの境がある。それは、同種類の全ての労働者、あるいは同じ職能の全ての仲間が結びついて形成する商業集団ないしは同業組合である。
『自殺論』エミール・デュルケーム(1985) 中公文庫
なぜ宗教でも、家族でも、政治結社でもなく、職業組合に生きている意味を与える活路を見出したのでしょうか。
この理由を3つ彼はあげています。
一つが常に存在していること、もう一つがどこにでも存在していること、最後が生活への影響に直結していることだと言います。
もちろん「連帯」が「抑圧」になってしまいがちな日本社会ではこの意図の理解は慎重であるべきでしょう。
しかし、生活のための「必然性」のある箇所で存在意義も見出してくれるならばそれほどありがたいこともありません。
昨今はどちらかというと時代が「個人で生きられるようになりたい」という風潮に傾いています。
そして、多くの人がそのようなライフスタイルに羨望の眼差しを向けさえしています。
しかし、それが実現することは本当に求めるような結果が得られるのでしょうか。
デュルケームの著書を読んでいるとどちらかというとあるべき社会の方向と正反対になるとしか思えません。
「幸福になりたい」と多くの人が願うのであれば、社会をバラバラの個人の集まりにするという方向性には多少なりとも懐疑的な目を向けるべきです。