「これからは個人の力が重要になる」
「これからは個の力を尊重できる会社が生き残る」
「我々は個の力を磨かなければならない」
今、「個人」や「個」という言葉が非常に流行しています。
書店においてもそれを裏付けるように、同様のキーワードが打ち出される本で溢れており、大前研一やホリエモンなどが流行させたと思われる「個人」というワードは日増しに影響力を持つようになってきています。
こうした考えが多くの人にとって流行しているのは何故なのでしょうか。
一つの理由として、日本という国においてこれまでの時代よりも個人の権利や自由を尊重する考え方がより一般的になったからかもしれません。
また別の理由としては、国家というものが我々の危機に対して期待以上の働きをしてくれていないという反動から来ているのかもしれません。
いずれにしても、少なくない人が「個の時代が来た」と雄叫びをあげています。
しかしながら、実はこのような「これからは個人の時代だ」という発想は最近生まれたものではありません。
明治初期でも「これからは個人の時代だ」と叫ぶ風潮があったのです。
しかし、「個人主義」という言葉を尊重しつつも、それを誤解してはならないと述べた人物がいたのです。
それは夏目漱石です。
本記事では「個の力」が叫ばれる今だからこそ噛み締めたい漱石の「個人」に対する考え方をご紹介いたします。
時代は当時とは違いますが、古臭くはありません。
「個人主義」を批判的に見る漱石
まず押さえておきたい前提があります。それは漱石が述べる「個人主義」と世の中で言われる「個人主義」は別物だということです。
それもそのはずで、実は世の中に流布する「個人主義」を漱石は批判的に捉えていたのです。
この漱石が批判した「個人主義」は、今まさに「これからは個人の時代だ」で言われるところのものとかぶる部分があるのです。
彼が批判した「個人主義」とはどういうものかというと、「自分勝手に行動できる」という意味で認識されている類のモノです。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。
『私の個人主義』夏目漱石(1973)講談社学術文庫
もしかすると紳士ぶる人であれば自分勝手にすることが「個人主義」とはいえないのは当然だと述べるかもしれません。
しかしながら、この言葉が現代において運用されるシチュエーションを見れば、多くのケースでそのように認識されていると私は考えています。
例えば「これからは個の時代」という人が「やりたいようにやれ」といったりその思想の根底に「相手を蹴落としてでも自分だけが生き残らないといけない」というものが見えるのではないでしょうか。
さて、この文脈でいうところの「個人主義」の問題点に話をうつしましょう。
端的に言いますと『自分の自我をあくまで尊重するような事を言いながら、他人の自我に至っては毫も認めていない』ところにあります。
つまり、自己中心的である事を正当化するものを「個人主義」という言葉で繕っているだけだというのです。
これは強盗の論理と変わりません。
何故なら、仮に何でもやりたい放題できることを「個人主義」とするならば、他人の金庫から金を盗んでも許容されてしかるべきですから。
「国家主義」も批判的に見る漱石
ここで本題の漱石の良いとするところの「個人主義」を理解するために、この言葉と対極に位置すると言われる「国家主義」の立場について見てみましょう。
と言いますのも、漱石は「個人主義」を批判していたということで、「国家主義」的立場をとる人間だったと考える人もいるかもしれませんからね。
しかし、結論から言いますと漱石は「国家主義」にも批判的でした。
ここでいう「国家主義」というのは、『個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が滅びるような事を唱道するもの』です。
そんな人がいるのか?と思われる方もいるかもしれません。
しかし、現に日本の政治家には「そもそも国民に主権があることはおかしい」「国民の生活が大事なんていう政治はおかしい」と述べる人が多数います。
これらの人物はまさに「国家主義」的立場を取る人たちです。
漱石はこのような考え方を痛烈に批判しました。
なぜ彼は「国家主義」を批判したのでしょうか。
理由は三つあります。
一つ目の理由は、『国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただ無暗に個性の発展ばかりめがけている人はない』からです。
要するに、「お国のことを考えなさい」といわれなくても、いざとなれば人々は自然と国について考えるから矯正する必要などないというのです。
二つ目は、国家を意識しなくていいのは社会として健全だからです。『国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗せられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である』と彼がユーモア溢れる例を挙げています。
どんな行動をするにしても「国家」を意識することは、社会として変です。
便所で「拙者はお国のために用を足すのである!」なんて言うと、周囲から心配されるでしょう。
最後の三つ目は、国家という言葉を口にしなくても、個々人が誠実に生きていれば、結果的に国家のためになっているからです。
豆腐屋が豆腐を売って歩くのは、決して国家のために売って歩くのではない。根本的な主意は衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。
『私の個人主義』夏目漱石(1973)講談社学術文庫
理由をいくつかあげましたが、要するに、「国家を愛せ」と無理やり強いるのは二重にも三重にもおかしい漱石は言いたかったのです。
漱石の語る個人主義とは
ここまでをまとめると、彼は好き放題やることを正当化する「個人主義」も愛国カルトへと誘う「国家主義」をも批判したのです。
では両方を批判した漱石は結局どういう立場を支持したか最後に見ていきましょう。
まず大前提としては、『私どもは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもある』と述べている通り、あらゆる思想が自己の中に存在しているのが適切だと考えていました。
その上でですが、平時の文脈では「個人主義」が大いに称揚されるべきだと彼は考えていました。
もちろん、彼のいう「個人主義」が少し特殊です。
本書の末尾で自分の考える個人主義について次のように述べています。
今までの論旨をかいつまんで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つまりこの三箇条に帰着するのであります。
『私の個人主義』夏目漱石(1973)講談社学術文庫
ここでは漱石は三つの事を守りながら自由を追求する事を真に「個人主義」的であると考えました。
一つ目は、自分の欲望を充足する時に他者も尊重する事。
二つ目が、自分の欲望をみたす時に生じる義務を認識する事。
最後に、経済活動をする時に伴う最低限の責任は果たす事です。
当たり前のように見えますが、巷で「自由」と叫んでいる人々のどのくらいの方がこの三つのことを理解して権利主張をしているのでしょうか。
今の時代において「これからは個人の時代だ」と叫ぶ個人主義者は「自分のことしか考えない」という漱石が批判した典型的な考え方をしているのではないでしょうか。