意識高い系
という言葉を聞いてどのようなイメージを持つでしょうか。
口癖としては下記のような感じでしょうか。
- 俺、将来起業っすから!
- ごめん今週予定いっぱいだわ。交流会あってさ。
- これからの時代大企業じゃなくてベンチャーっしょ
おそらく今述べたような言葉は私の妄想ではなくあなたにとっても既視感のある言葉があるかもしれません。
そして少なくない人が「うざい」と感じたり、「気持ち悪い」と感じているかもしれません。
私は意識の高い人を鑑賞の対象として見ることが楽しいため、それ程毛嫌いしているわけではありませんが、世の中的には冷たい目で見られることが少なくありません。
ただ、「キモい」で切り捨てるべきではありません。
観察していくと一つ言えることがあるのです。
それは、彼ら・彼女らが近代イデオロギーの負の側面を象徴化した人物だということです。
それゆえに、意識高い系の社会人をよく見ることは「近代とはどういう時代だったのか」(そんなに素晴らしい時代だったのか)を見る良き教材なのです。
壮大なテーマのように見えるかもしれませんが、意識高い系の社会人に限らずこの近代イデオロギーの負の側面の影響を我々も受けています。
彼ら・彼女らを通して自らのふんどしを締めなおす必要があるのです。
ですので、ここから書く文章については単なる意識高い系に対する批判ではなく我々の生きる近代以降の社会を批判するものであるという読み方をしていただけますと幸いです。
■目次
▶意識高い系社会人の特徴
▶意識高い系がうざい根源的な理由
▶意識高い系に渡してほしい本
■意識高い系社会人の特徴
まず意識高い系社会人の特徴を書いていくことで状況を整理したいと思います。
端的に意識高い系社会人を表現してみるとズバリ「成長」という言葉が最大のキーワードとなります。
例えば、「起業したい」「MBAをとりたい」「ビジネス書を100冊読んだ!」などなどこれらが畢竟するに何を表すかを考えた時に「俺は成長したいんだ(してるんだ)」という考え方が共有されているのではないでしょうか。
私のことを疑うのであればあなたの周辺にいる意識高い系の社会人をとっ捕まえてみてください。そしてこう聞くのです。
「成長したいかどうか」「最近成長実感があるか」
おそらく「イエス」という言葉が返ってくるはずです。
意識高い系社会人の特徴を一言で言えば「成長(意欲)」と言って過言ではないのです。
この彼らが絶対視する「成長」というイデオロギーについて思考を深めていきましょう。
そうすることで、彼らの胡散臭い風態やいかがわしさと、我々の社会全体の土台が腐っていることに類似点を見出せるはずです。
さて、ここで今述べた、近代という時代と意識高い系社会人がどう絡み合うのかに早速話を移します。
これは一言で言えば、近代という時代の特徴もまた「成長」という言葉が極めて大きな役割を担っているということを上げることができます。
なぜなら、近代という時代が産業革命以降の壮大なイノベーションを可能にしたのは何らかの「結果」ではなく「前進している」(成長している)という感覚そのものだったように私には思われるからです。
*そう思った背景についてはいずれ書こうと思いますが文字量の関係でトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』に影響を受けているとだけ今回は記載いたします。
ちなみにこの近代の世界観を正当化するのに多いに役立ったのがヘーゲルという哲学者と進化論でおなじみのダーヴィンです。
彼らは相違する部分も多々ありますが、その大きな世界観の点で一致していました。
歴史を横軸に並べ過去から現在までを「成長の過程」と捉えたのです。
一見全く異なるように見えるダーウィンやヘーゲル的な歴史観はまさに意識高い系社会人と認識の点で極めて近似しているということですね。
さて、この近代イデオロギー(絶え間ざる成長)を批判的に見てきましょう。
実はこのイデオロギーには色々と突っ込みどころがあります。
その最大と言っていいものが「そもそも何をもって成長というのか」という疑問を上げることができます。
意識高い系社会人も朝から晩まで「成長成長」と騒いでいますが、何をもって成長としているのかを検討していない人が少なくありません。とりあえず「成長」と叫んで行動しとけばまあいいだろ的な安易さが垣間見られるのです。
近代の場合はどうだったかを考えてみましょう。
近代の世界観の場合はおそらくは「物質的(経済的豊かさ)」を永続的な目標としていたのだと思われます。
つまりこれが実現されるほど「成長」実感があったと判断するということです。
確かに持続的に国が豊かになり、国民一人一人が豊かになるという意味での「成長」が実現されているのであればそれはいいことです。
しかしながら、昨今、資本主義が前提としてきた「成長」というイデオロギーに限界が見え始めているのです。
その一つの兆候としてあげられるのが長期金利です。それが世界的に低くなっているのです。
特に日本は世界で一番低いとも言われています。
金利というのは投資に対する期待値で決まるとされていますからそれが低いということは投資をしても儲からない、会社が大きくならないということを考える事業主がとてつもなく増えているということを意味します。
一説では今の日本の金利の低さは中世にまでさかのぼっても例がないと言われており資本主義の「成長」というパラダイムが限界に達しているとまで言われています。
しかし、もう「成長はできない」と認めることはいうまでもなく容易ではありません。
今まで何百年も常識とされてきた「成長」が終わるなんてことはダーウィンなどの考えに基づけばありえない話です。
ですから、多くの人が成長幻想から抜けられないままでいるのです。
そこで、何をするのかというと「成長」という現実を維持するためになりふり構わないことをし始めるのです。
ヤーコプ・ブルクハルトという思想家がいるのですが、彼はそれを予想するかのように近代的な歴史観を批判するにあたって『世界史的考察』の中で下記のように述べています。
いかなる犠牲を払っても成功を自分の手に収めねばならないということが、やがてこのような時代に、手段に全く無頓着な態度を招き、また、最初呼び求められた諸原則がすっかり忘れ去られるという事態を招いた。こうして人は、真の、実りある建設的な出来事をすべて不可能にし、かつ、危機全体を汚してしまうテロ行為に行き着く。
『世界史的考察』ヤーコプ・ブルクハルト(2009) 筑摩書房
ブルクハルトの考えを引き継げば「成長」という目的を維持するためにはなりふり構わないことをし始めるということになるわけです。
そのような歪んだ幻想が維持されるために世界的に中間層の暴落による格差社会の到来であったり、公的部門を切り離して民営化したり、TPPのような巨大貿易協定を叫ぶことでアジアの市場を横取りしようという帝国主義的な発想が公然と幅を利かせてたりしているのです。
他のやり口としては、GDPや株価など特定の数値を目的化することで実態とは乖離していようが御構い無しで「成長している」と宣言するのです。
今述べたようなことは日本社会を汚染している思想ですが、これを大学教授や著名な人物がなんの悪びれもなく言っているのですから「成長」という幻想は相当根強いパラダイムのように思われます。なおブルクハルトはそのパラダイムシフトは容易ではないと半ば諦めているかのような言葉を残しています。
最高の決定はすべて、人間性の内奥からしか生じえない。営利心や権力欲としてはっきりとその特徴が際立っている楽観主義は、これからも持続するであろうか、また、どのくらい長く持続するであろうか?ーそれとも、ー現代の悲観主義哲学がこれを示唆しているように思われるのだがー例えば三世紀及び四世紀に見られたような、考え方の全体にわたる変化が現れるのであろうか?
『世界史的考察』ヤーコプ・ブルクハルト(2009) 筑摩書房
■意識高い系がうざい根源的な理由
少し話がそれたように思うかもしれませんので、意識高い系の社会人に話を戻しましょう。
近代が生み出した「成長」というパラダイムから現代人は抜け出せず、それを維持するために現実の方を無茶苦茶にし始めていると書きました。
これと同じことが意識高い系の社会人にも言えるのです。「成長」「成長」と言っている社会人はこのままそのパラダイムにのっかり続ければ取り返しがつかない人間になるかもしれません。
ちなみに改めて意識高い系社会人というのはどういう人かをここまでを踏まえて改めて再度まとめてみると以下のようなイメージです。
- 「成長」を掲げるにあたって「なんの成長か」について思考停止している人。
- もう一つが場当たり的にいろいろ手を出して「成長」と叫ぶパターンの思考停止をしている人。
彼ら・彼女らはなんでここまで同じことを言うのかと驚くくらい会社を経営したがったり、ビジネススクールに通ったり、ビジネス書を死ぬほど早く読もうとします。
おそらく多少の違いはあるものの「成長」という世界観を共有しているとそうなるのでしょうか。
ただ、私からすると彼ら・彼女らの常に前進していると考え方はあまりに楽観的ではないかと思うのです。
逆にその「成長」「成長」という意識高い系社会人の世界観が己を停滞させていないかとさえ思うのです。
下記の文章の「希望」を「成長」に読みかえればそのまま当てはまります。
こうして今や希望という華々しい茶番劇が、今度は国民の大きな各層全体に向けて、巨大な規模で始まる。大衆の中においても、過去に向けられた抗議が未来の輝かしい幻影と混ざり合うが、この幻影によって冷静に熟慮することが全くできなくなってしまうのである。時としてこうした現象のうちに、その当の国民の最も内奥にひそむ特徴が現れることがあるかもしれない。
『世界史的考察』ヤーコプ・ブルクハルト(2009) 筑摩書房
いろいろ書いてきましたが、意識高い系の社会人に批判的なことを一つ言うとするとなんというか人間を善だと考える節があるように思います。これはプラトンから長きにわたって思想の世界でも同じだったのですが、「誰も意志して悪を為す人などいない」というものに近いものがあります。
■意識高い系に渡してほしい本
最後にもしあなたの周囲に意識高い系社会人がいたら渡してほしい本を3冊あげさせていただきます。
ここに上げる本は近代的世界観の前提である「成長」を批判したものであり、自己啓発本が大好きな意識高い系を真に啓発すると私は思います。
フリードリヒ・ニーチェ『愉しい学問』
歴史を進歩の過程と捉えることを嫌悪し循環の中にあると考えることでより高次の次元に達することができるという「超人」概念を打ち出したニーチェの著書です。
ハンナ・アーレント『人間の条件』
デカルトやヘーゲルをはじめとした近代の世界観を批判的に分析するとともにどういったあり方が求められるかを描いた著書です。
ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的考察』
ここで紹介したようにヘーゲル的な進歩史観を批判した名著です。
ぜひ誕生日プレゼントで渡してみてください。