高度経済成長期を超えその後20年、30年と低成長時代を迎えている国といえばどこの国かというと日本です。
なぜここまで経済成長が見られないのかと不思議に思われる方も多いのではないでしょうか。
しかしながら、高い成長の時代があったことは事実ですのでどこかで何かを誤ったと考えるしかありません。
そんな日本経済の状況に関連して、何を転換し、何をすべきなのか教えてくれる書籍があります。
それはフリードリヒ・リストの『経済学の国民的体系』という本です。
リストは経済とは誰のためにあるのかという原点に立ち返る重要性を説いた人物で、経済が国民のためにあるものであり、国民と一緒に発展させていくものだという考えを持っていました。
そして多様な人で構成される国民の利益を最大化するために政府の役割を強調したのです。
逆に彼が強く糾弾したものがありました。
それは「自由貿易」という貿易の際限ない自由化が国を豊かにするという思想です。
まさに今日本において浸透している思想です。
なぜこれを批判的に彼が見たかと言えば国を衰退させうる危険な思想だからです。本章ではこれに絡めてその一端をご紹介いたします。
貿易の過度な自由化は国を滅ぼす
「貿易を自由化する」と聞いてどのようなイメージを持たれるでしょうか。次のようなイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。
- 農産品が安く買える
- 輸出が増える
- 外国市場を手に入れることができる
確かに、ここで記載されていることは貿易の自由化により達成される側面があります。
関税率が下がれば自動車の輸出は増えるのでしょうし、安い外国の農産物を手に入れることができるようになります。
しかしながら、それは良い側面を見過ぎではないかというのが本章で取り上げるリストの主張なのです。
一例を挙げますと、彼がいうには自由貿易に対して傾倒する人たちはしばしば『世界連合と永久平和との存在を前提し、そこから自由貿易が大きい利益をもたらすという結論を引き出す』と言います。(p190)
彼はこれを因果関係の取り違えと指摘します。
実際には、自由貿易が社会を豊かにするのではなく、永遠の平和を実現することで自由貿易というものが初めて成り立つのです。
『歴史が示してくれる実例は皆、政治上の結合が先行して貿易上の結合がそれに続くというものばかり』だ、そうリストは述べるのです。(p190)
これが意味するのは、世界中の国に対して永遠平和が達成されない現状で、自由貿易という形で際限なく交易を賛美することは自殺行為だということです。
鎖国をしろというわけではない
しかしながら、リストについてはよく誤解されるのですが、このことが「鎖国をしろ」という論理を展開するものではないことに留意する必要があります。
彼は冒頭にも触れました通り、経済は国民を豊かにするものであるべきだし、国民と一緒に発展させるべきだと考えていただけです。
それを実質化する上で、一時的な保護制度を国において採用することを主張したのです。
なぜなら、保護することは『文明の点で相当発達している諸国家を・・・ただ時間の上で他国民に先行することのできただけの支配的な国民と、同列に置くための唯一の手段』だからです。(p190)
実は保護制度を採用することによる幼稚産業の育成は他国と渡り合える産業を作ることを達成するという意味で、『真の自由貿易を、促進するためのもっとも重要な手段である』というのです。(p190~191)
少し話が難しく見えるかもしれませんが、平たくいえば自分の実力を過信するなということでしかありません。
リストの経済学は『諸国民の現存の利害と独自の状態とを認めつつ、どうすれば各個の国民は、他の同等に発達した諸国民との結合つまり自由貿易が自分にとって可能となり有利となるような経済的発達の段階に向上できるか、ということを教える科学』する学問なのです。(p191)
富をどう手に入れるかではなく富をどう作るか
まとめますと、リストが打ち出した国民経済学とは「富をどう手に入れるか」に主眼をおくものではなく、「富をどう作るか」に主眼を置くものなのです。
だからこそ、貿易は富を作る時には強化するし、それにふさわしくないときは制限するという柔軟な発想をするのです。
一方で、今の時代に主流的な自由貿易を盲信する人は「富をどう手に入れるか」に目がいきがちなのはおわかりいただけることでしょう。
悪く言えば盗賊の発想です。外国からどうやって富をとるかという帝国主義的な発想の人も少なくありません。
彼らは貿易に経済発展の機能を期待するわけですが、「交換」を活性化させるだけでは富自体を増やすことはできないという単純な事実を見落としています。
本来、「富を作る」という視点に立つならば、産業を育成するまで保護することを国家権力に要求するという立場があってもいいはずです。けれども、それを一貫して拒み続けているのです。
その発想がない理由はもしかすると「国家権力が介入する」というところに敏感になっているからなのかもしれません。
社会主義や共産主義の匂いがするのでしょうか。
ただ、リストは保護制度という言葉を通じて統制経済の構築を意図していませんでした。『国家権力は、資本をどこでどう投下するとか、どんな職業を選びたいとかいうことは個人めいめいの判断に任せる』と考えていました。(p230)
これは、全く統制経済ではありません。
彼のいう国家の介入とは『わが国民は・・・工業製品を自国で作ることが有利なのだが、外国の自由競争がある場合には到底この利益を得るようにはなれないから、・・・彼らが資本を失ったり生涯の職業の選択を誤ったりしないように・・・我々は必要と考える範囲で競争を制限』するだけなのです。(p230)
日本においては90年代以降今日に至るまでずっと貿易の自由化が叫ばれ、停滞を目にしてもさらなる自由貿易の推進が謳われてきました。
しかしながら、それが逆効果であるということを認められず、未だに新たな産業の育成を目指して保護主義を取ろうという発想に移行することができていません。
このまま停滞し続けるかどうかは思想の転換にかかっているのでしょうね。