「日本も格差社会に突入」と言われてもうどれくらいが経つでしょうか。
十年くらいは経った気がします。
ただ、ここ数年で「より」格差社会へ突入していると感じている人は少なくないのではないでしょうか。
「格差社会」という言葉がより広範に使用されてはいるもののそのまずさがあまり実感されていないかもしれません。
今日は、日本の格差社会がどれくらい現実化しているのかについて調べたことを書かせていただきます。
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「アベノミクスの成果」で示されるものの多くが格差拡大の裏返し
ここ五年の間に、より格差が拡大したということについて「アベノミクス」が示す「成果」からわかるためここでは、アベノミクスを題材に格差拡大がどれほど進んでいるかを取り上げていきます。
代表的なものを再掲する形にはなりますが、より詳細に見てみたいと思われた場合下記記事を読んでもらえますと幸いです。
確かに、アベノミクスによる因果関係はともかくとして求人倍率や失業率は民主党政権と比べて数値が改善されました。
それゆえに、アベノミクスをポジティブに見る人が未だに多いですね。
しかしながら、安倍氏が自らの成果として誇示するものの多くが皮肉にも「格差拡大」を自白しているものが極めて多いのです。
(富の偏在と多くの国民の窮乏化)
例えば、下記のようなものがあります。
- 株価は民主党政権の2倍
- 企業の経常利益は過去最高益
- 賃金引き上げ最高水準
「株価は民主党政権の2倍」で本当に喜べる人
まず、「なんとなく景気についてのバロメーター」と思われがちな株価について。
民主党時代より安倍政権以降の方が経済政策がいい気がすると多くの人が感じるものに株価があります。
確かに民主党時代一万円を割り込んでいた株価は今日2万円を優に超えています。しかしながら冷静に考える必要があります。
「株価が上がって嬉しいのは誰か」ということを。
それはもちろん「株を持っている人」です。
間接的には投資信託を持っている人やその株が買われた会社に所属している従業員なども恩恵がゼロとは言いませんが、それが目に見えるほどのものではありません。
やはり株券を持っていないと恩恵には直接あやかれないでしょう。
そういう意味で昨今よく使われる「実感なき景気回復」という言葉は的外れではないのです。
なお株券を買えないような層が日本には少なくとも3割を超えたと最近報じられました。
こちらのいわゆる「貯蓄ゼロ世帯」は経年で増え続けています。
(暗黒と言われた民主党政権時代よりも悪化しています。特にここの記事にあるシニアだけでなく20代の若手もです)
https://dot.asahi.com/dot/2018022300085.html
テレビや新聞のみだとこういう情報があまり残念ながら報じられていません。
官邸やその御用メディアは景気のいい(ように)見える切り取り方をしています。
例えば、それに該当するのが私が先ほど挙げた「企業の経常利益が過去最高」というのと「賃金引き上げがここ10数年で最高水準」というものです。
「企業の経常利益が過去最高」と「賃金引き上げがここ10数年で最高水準」は事実であって事実でない
こちらは官邸のホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/headline/seichosenryaku/sanbonnoya.html)でも取り上げられています。
「いいことじゃないか」と思いたくなりますが、少しこちらも冷静になる必要があります。
官邸のページだけでは経常利益を最高にした理、賃上げを受けたりした「主語」がわかりません。
こちらはおそらく恣意的に統計サンプルの元を隠しているのでしょう。
知っている方には今更感がありますが、官邸が発表しているのは(上場企業の)「経常利益が過去最高」だったり、(上場企業の)「賃金引き上げがここ10数年で最高水準」という事実です。
()内が重要なのですが、あえて省いているのです。
全労働者の過半にも満たない企業の業績よりもっと信ぴょう性のあるデータを見ていくと実態がわかります。
総務省が出している毎月の「勤労統計」というものがあります。
こちら賃金の伸びなどを示すものなのですが、官邸が発表するような一部上場など狭いエリアを抽出するものではないためより実態を示す報告書です。
下記のグラフがいっぱい入っている総務省の調査データからはいろいろなことがわかります。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/29/29r/dl/pdf29cr.pdf
例えば、「1-1図 賃金の動き 労働者全体」で言えるのは平成十二年から15年にわたってまともに賃金がのびた年がないということです。民主党政権が悪くて安倍政権がいいという説明は土台無理と言うことです。(民主党政権がいいというわけでもない)
「1-2図 賃金の動き 一般労働者とパートタイム労働者」でも一般労働者に分類されるいわゆる「サラリーマン」は長らく給与を伸ばしていません。
世帯年収の大部分を占めるサラリーマンの給与が全く伸びていないというのはかなり深刻です。
一方で、安倍政権以降の明確な「失策」が見えるデータがこの調査票の中にはあります。
実質賃金の著しい低下です。
こちらについては御用学者が「新しい雇用が増えたから」などとデマを流していますが、円安誘導による輸入物価の上昇がもたらした国民の実質的な購買力の低下を示す証左です。
これは明確に安倍政権に「因果関係」を認めることができます。
少し長くなったので話をまとめます。
平均的な「労働者」という立場に立った場合、名目賃金が伸びず実質賃金が下がったままというのがここ20年近い日本の現状で、安倍政権以降は現状がさらに悪化しているということです。
かたや外需依存が相対的に高い大企業などは大きく恩恵を受けているということがさも世の中一般で起きているかのように報道する悪質な印象操作が今官邸から発信されているのです。
現在進行形で進む格差社会化はそのうち「耐えられないレベル」になってくることでしょうね。
格差社会で表面化する経済以外の問題
改めてですが上の章で私が述べたかったことは、世界の多くの国々同様に、日本でも一部の金融資産を保有しているものや一部の大資本関係者が役得を得る一方で、それにあやかれない人が相当程度苦しい生活を強いられているということです。
さて、ここまでも大事なのですが、ここからがいよいよ本題です。
「格差が開いた」ということは経済的な問題だけを引き起こすのではなく、その他にもいろいろな問題をもたらします。
公共性の喪失
経済の問題は経済だけしか検討されないことがしばしばなのですが、格差社会はより根本的な危機をもたらします。
早速ですが、「経済的な問題以外」とは何かについて書いていきます。
これはズバリ「公共性の喪失」です。
この表現はリチャード・セネットから拝借したものですが、平たく言い換えると「他者に対する気遣い」の消失です。(社会的分断とも言われますね)
もちろんいつの時代になっても他者に気を使える人は少なからずいます。
しかしながら、マクロ的に見た場合に、格差社会により個々人がますます自分のことだけに熱中し、他人への無関心さが強化される「傾向」は強化されることが避けられないということです。
社会を分断する発言が当たり前のように飛び交う現代社会
「社会の分断」の兆候を示すようなやり取りの例をあげましょう。
例えば、「給与が上がらない」と言ってる人がいるとします。
その言葉に対して「自称成功者」はなんというでしょうか。考えてみてください。
おそらく立場ごとに微妙な差はありますが「君の努力が足りない」「俺はこうしてきたら成功した。」「大企業に行かないと負け組」という趣旨の発言をすることでしょう。
私はこのようなやり取りをなんども聞きましたし、こういったことが書かれているいわゆる「ビジネス書」をなんども目にしたことがあります。そしてこれらが「正論」として認識されつつあるという社会のありさまも実感しています。
この人たちはおそらく「世の中の現象」を個人的要因で全て説明できてしまうと考えているのでしょうね。
こうすると簡単に何に対して答えられた気になれますからね。
ただ、彼らは悪気がないのでしょうが、この発想が気遣いのなさを明確化しています。
「社会」というものは我々がその言葉から常識的に連想する通り、個々人が集まり何かに向けて協働するというものでなくてはなりません。
バラバラな個々人がただ単に経済活動をするだけではありません。
ましてや「切り捨てる」という行為が正当化されることなどあってはいけません。
ただ、この「社会」を成立させている前提を「格差社会」は突きくずしていくのです。
しかもそのことに危機感を感じるどころか積極的にそうしようとする考えの人達が少なからずいるのです。
ルソーが意図せず予言する格差社会の結末
その昔、民主主義の扉を開いたとも言われるジャン・ジャック・ルソーはより多くの市民が幸福となる国家の前提条件として下記のように述べました。
実際上は、法律は、常に持てるものに有利で、持たざる者に有害である。以上から次のことが出てくる。社会状態が人々に有利であるのは、すべての人が幾らかのものを持ち、しかも誰もが持ちすぎない限りにおいてなのだ。
『社会契約論』ジャン・ジャック・ルソー(1954)P41
「持てる者」は自分に有利なように好き放題するので「持たざる者」をなるべくなくし調和を取ることが大切だと彼は述べたわけです。
これは当時の貴族を念頭に浴びせたルソーの言葉なのですが、回り回って今日において生き返ったような言葉です。
「持てる者」がより強化され、「持たざる者」が増えていく。
仮にルソーの言葉が正しいとすると、民主主義国家から中世の反民主主義的な国家への移行が漸進的とはいえ今進んでいるということになります。
ちなみにルソーは「全ての人の富の量を均一にしろ」と共産主義的な発想をしたわけではありません。
ここら辺がフランス革命においても誤解がされていたのですが、『社会契約論』でルソーは下記のように続けています。
富については・・・いかなる市民も、それで他の市民を変えるほど豊かではなく、また、いかなる市民も身売りを余儀なくされるほど貧しくてはいけない。
『社会契約論』ジャン・ジャック・ルソー(1954)P77
偏在が0であれとは思ってないのです。
ただ、いずれにせよ、ルソーは格差の拡大が社会を危うくすると述べました。
繰り返しになりますが、これは近代以降の人が「野蛮」と切り捨てた腐敗した中世末期の絶対王政時代再来が現実的にあり得るということです。
進歩史観にはまる人間にはこのようなことは考えられないことでしょうけども、正しさはまさにこれから示されるのではないでしょうか。
最後にこの兆候が見られる身近なトピックをあげて終わりにします。
我が国の立法及び行政をとり仕切る自民党という政党の企業からの献金が過去最高を直近(平成28年)更新していることをご存知でしょうか。(https://www.nippon-num.com/society/ldp.html)
それに呼応するかのように法人税減税や高プロが国会で可決されたこともご存知でしょうか。
あれほど世論の反発があったのにもかかわらず、自民党が推進した理由はこの献金で説明がつくと思いませんか。
自民党が国民の声を聞くという行為を放棄して支持母体が狙う利益のために働くという流れが今まさに進んでいるのだとしたらルソーの述べた民主主義の土台はもうすでに日本においてもぶっ壊れています。
日本の民主主義の終焉は目の前です。
本記事の参考文献は下記です。