突然ですが質問です。
お金の心配をすることなく一生を過ごせる人は世の中でどのくらいいるでしょうか。
世襲のボンボンや綺麗事を抜きにすれば、ほとんどいないでしょう。
多くの人が日々生きるために働かなくてはいけません。
今の時代であれば生きるためにはお金が必要なのです。
ただし、日本では特に顕著ですが、多くの人が「お金を儲けること」に対してしばしばネガティブな視線を向けます。
例えば、「非営利であること」と「営利であること」という二つの言葉を聞いて前者に良いイメージを持つ人が多いです。
しかし、金儲けをすること自体は悪いことではないのです。
それが悪いものと評される条件があるだけなのです。
本章では、ジェイン・ジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』という著書を通して、「金儲け」に対する我々のものの見方について考えます。
金儲け自体を悪いものだと考える倫理観
まず、金儲け自体を「悪いもの」とする倫理観にはそれなりの歴史があります。
古くは騎士道の時代にまで遡ります。
当時のヨーロッパでは『父系であれ母系であれ、・・・商人または職人、いわゆる職業に就いた者がある場合は、騎士にふさわしくない』とされたのです。何故なら、騎士にとっては、『商工業は恥ずべき、卑賤な、汚染の源』という価値観があったからです。(p120)
この話はヨーロッパだけではありません。『同じ規則、同じ罰が同じ時期の日本でも見られ』たとジェイコブは述べます。
ジェイコブズは日本のケースに就いて詳細には書いていませんが、おそらく士農工商と呼ばれるカースト制度を念頭にしているのでしょう。
歴史ドラマや小説を見る中で武士が農業をしたり、商業に従事したり、工業製品を作っているというのはあまり見かけません。
武士とはそういうものから距離を置いてこそ武士らしくいられるという「倫理」があったのだと考えられます。
しかし、そういった商工業を批判していた人が何をやっていたかというと、『戦争、略奪、搾取、迫害、処刑、監禁、身代金目当ての捕虜拘束、農奴・借金農・奴隷を犠牲にしての土地独占など』だったとジェイコブズは言います。
これが商工業に従事することと比して優れた営みでしょうか。こう考えると商業蔑視には違和感があります。
では、金儲けを忌避する倫理感は何故これほどまで根強いのでしょうか。
彼女はこれに就いて、『統治者の仕事における道徳的意義に合致するところがある』と指摘します。(p126)
つまり、統治者に分類される者たちは、取引を是とする商人とは異なり、取引から距離を置くこと自体が「倫理的」な営みだったのです。
日本人でも金儲けを軽蔑する人はこの「統治者の倫理」に従っている可能性が高いでしょう。
金儲けを良いと考える倫理、悪いと考える倫理
端的に言いますと、人間の善悪を決める「倫理」は一つではないのです。
ジェイコブの場合はそれについて「市場の倫理」と「統治者の倫理」という分類を行いました。
前者は取引を行う事を「善」とし、後者は取引を行う事を「悪」とするものです。
ポイントは、「倫理」が二つあることと、両者がしばしば相矛盾する関係にあるということです。
ところで、「倫理」は何故二つあるのでしょうか。
一つに統一した方が相互に対立をもたらすこともなかったと思われます。
この理由は、人間がそのほかの動物と根本的に異なるからです。
具体的には、『他の動物と同様に、人間は利用可能なものを見つけて採取し、縄張りを作る』だけではなく、『他の動物とは違って、人間は交換をし、交換のための生産活動に従事する』という側面があるからだと氏は指摘します。(p443)
言い換えれば、『根本的に異なった必要充足の方法があるため、人間の道徳や価値にも二つの根本的に異なる体系がある』のです。(p443)
人間が採取し続けるだけで良い動物のままであったならば、統治の倫理だけで十分だったということです。
ジェイコブズのこの主張は、社会的対立の多くはこの二つの倫理観の取り扱い方を誤ったことに起因するのです。
例えば、『哲学者や宗教の教祖たちは、伝統的に個人の徳のある生活と特による支配のための道徳律をしばしば結びつけて』述べます。(p443)
これは、統治者の倫理に関わる者からすればまともなことなのですが、商業に関わる人からすれば綺麗事で役に立たないと感じるられます。逆についても同様です。
そういった相異なる倫理観がある世界でジェイコブズが主張しているのは、自らが職業人であるにせよ、役人であるにせよ、企業家であるにせよ、その時々でどういう倫理が望ましいのかを自覚的に選択できるようになることなのです。
社会の腐敗は倫理の混同から
状況に応じて使い分けるべき倫理を混同する、もしくは意図的に混同させると社会の腐敗が進むのです。
例えば、統治の倫理に立つべき役人が「取引」を「善」としたとしましょう。
これは「賄賂」に繋がります。このような「不正」が横行すれば、まともな取引が成り立たたなくなるでしょう。統治者が市場の倫理を優先すれば『卑劣で、恥ずべきこと、腐ったことで、汚いことだと』を社会に撒き散らすことになります。(p126)
逆の場合も同じです。市場の倫理が求められる領域に統治者の倫理が強くなるとどうなるでしょうか。政府企業などはいい例でしょう。『どんな政府であるかにかかわりなく、政府企業が無駄、非効率、そして失望に終わるのはなぜか』というジェイコブズの疑問は日本でも当てはまります。
このような腐敗は我々が『相違を尊重する責任を引き受ける』決意によって回避されます。
(p366)片方の倫理にもう片方の倫理が介入したり、両者の倫理に上下関係が発生たりすると危険なのです。
本題に戻ると、宗教家や哲学者が暗に主張してきたら金儲け自体が悪というのは誤りです。
実際、そういう人達ですら商業倫理により世の中が未曾有の発展をしてきたことを否定できません。
しかし、それが無際限に拡張されてはいけません。あくまで統治を破壊するようなものでない場合に限るという但し書きがつくのです。