・参議院はいらない。解体しろ!
・国会議員が多すぎる。早く議員定数を削減しろ。
・国会は無駄なことしか議論していない。いらないでしょう。
・野党は無能すぎる。すべてなくなった方がいい。
昨今このような話をよく耳にします。
趣旨としては、「議会というものはとにかく無駄が多くて生産性が低いのでもっと効率化してくれ」というものでしょう。
確かに日本の国会は無駄が多々あるかもしれません。改善できるところは多いでしょう。
ただ、議会自体の存在を否定したり、一院制を唱えたりというのは少し違うかなと私は考えています。
おそらくこのような安易な「効率化論」や「コスト削減論」というのは間接民主制というものをなぜ日本がとっているかご存知ないからなのかもしれません。
そこで本日は、猿でもわかるシリーズとして議員を選びその代表者が議会で議論し進めていく間接民主制の誕生経緯からその意義について書きます。
間接民主制とは何かについて散見される誤った回答
そもそも先ほどあげたような議会不要論が誕生してくる背景には間接民主制がなぜ存在しているのかに対して誤った認識があるからだということを述べました。
その「誤った認識」とは何かをここではおさらいします。
ネットで間接民主制とは何かを調べてみると上の方に『5分でわかる!間接民主制と直接民主制』という記事がありました。こちらは中学の公民について書いているサイトです。
https://www.try-it.jp/chapters-3241/lessons-3253/point-3/
案の定このサイトは一般的に誤解されている間接民主制の存在理由を書いていました。
このサイトでは、間接民主制を直接民主制と対比しどうしてそれが採用されるのかについて以下のように書かれています。
この公民について教えているサイトでは、一言で言えば「便宜性」を主張し、多くの人が同じ場所に集まり議論するということは現実的に難しいし効率的でないから間接民主制は存在していると述べています。
これが間違いなのです。
確かに一見もっともらしいため、私自身長らくそういうものだと思い込んできました。
しかしながら、冷静に考えると「便宜性」という考えを前提に議会が存在しているというのはちょっとおかしいんです。
その反証はシュミットのこの一言で十分事足りるでしょう。
実際的技術的な理由から国民に代わって国民の信任を得た人々が決定するのならば、その国民の名において唯一人の信任を得た人が決定することもできる。
『現代議会主義の精神史的状況』カール・シュミット(2015)岩波文庫 p34
それならば君主制の方がいいってことになるとシュミットは述べるわけです。まさにその通りで「便宜性」を語るならば代議制なんてまどろっこしいことを言う必要がないのです。
間接民主制が存在する根本的な理由
それでは、間接民主制という形で議会での議論を重んじる形が、現在多くの文明国家で採用される本当の理由はなんなのかという話に移りましょう。
これを紐解くキーワードは「均衡」です。
つまり、自分が感知できないほどにいろいろな方向からやってくる力があることを認めうまく併存(均衡)させ、より多くの人が幸福なることを目指すということですね。
(これをシュミットは普遍的真理と対比して相対的真理と読んでいます。)
これは直接民主制を標榜し打ちたてられたフランス革命の思想的基盤であるルソーが考えた「一般意志」の概念とは正反対のものです。(このことについては前回述べました)
ここで、ルソーの一般意志という考えをおさらいすると、人間は元来「自然法」というものを持っておりすべての人が全員共通の正しい方向にたどり着くことができるというものです。
もちろん異なる意見を抱いてしまう人は出てくるわけですが、それについてルソーはうまい論法を持っています。
それは、「あくまで意見が割れるのはある人の目が曇っているからであり、正常性を取り戻すことで多くの人と同じように考えることができますよ」という者です。
この話をするとおそらく随分と暴力的だなと感じるでしょう。
実際、フランスのジャコバン派などはルソーのこの考えを利用し恐怖政治を行いました。
ただ、それは昔話かというとそうではありません。
今の日本でも「すべて自己責任論」などが流行り始めており、ダメなのはすべてお前のせいという同じ論法が潜んでいるのです。
ルソーの考えは随分暴力的だなとそれを読んだ人の多くがわかるにもかかわらず、多くの人が「自分の考えこそが普遍的真理だ」と考えてしまうことから意外と根強く多くの人の心の中に潜んでいるのです。
さて話を戻します。
このルソーの考えと対極に位置する思想が間接民主制の背景には存在します。
世の中には多くの人がいるのだから普遍的に全員が有無を言わさず同意する真理というものを見出すのは無理だということですね。
だから、その中で社会を運営するには多くの利害を議論を通して調整していき、その結果生まれたことに妥協していこうというものです。
この流れで言えば、一人の君主による立法などは非常に危険だという発想になるわけです。
「便宜性」ではないところにこそ間接民主制の価値はあるのです。
間接民主制が日本で機能していない理由
さて、最後に日本の間接民主制について書きましょう。
今、参議院不要論が多いですよね。
確かに、現在参議院はほとんど機能していないと私も感じます。
しかしながら、機能していないからといってそれをゴミ箱に捨てるのは最悪です。状況をより悪化させます。
今参議院が機能していないように見えるのは、立法府の中で本来あるべき「均衡」が著しく弱体化しているからです。
前の流れを受けていうと「均衡」こそが間接民主制の存在意義なのだとすればそれが失われつつある我が国の統治機構は危機に瀕しているというのが今の現状なのです。
立法府はその他のいかなる領域よりも慎重に管理されねばなりません。そもそも何が善で悪かを取り決める場所ですからね。
行政府や司法府などとは比べ物にならないほど重大な機関です。
だからこそ、行き過ぎないように「均衡」をとったり、より多くの人の理解が得られるよう多くの利害を代表する者によって「均衡」が取られないといけないのです。
このことをまさにシュミットが述べているんですね。
モンテスキューの権力分立論を単純化する教科書的伝統によって暗示的に影響されて、人々は、議会が国家作用の一つの部門として他の諸部門に対立させられるとだけ見るのに慣れてきた。しかし議会は、均衡の一部門であるだけではなくて、まさしくそれが立法権であるがために、自分自身の内部でも均衡が取られるべきものなのである。それは、絶対的統一性の代わりに、いたるところで多様性を作り出しあれこれと調整して内的ダイナミックスから生ずる均衡を待とうとする思考様式に依拠している。『現代議会主義の精神史的状況』カール・シュミット(2015)岩波文庫 p45
そういう意味で今参議院を有意義な者にするために必要なのはいくつかありますが、一つは党議拘束をなくすことでしょうね。
今は衆院の過半数政党が考えたことを追認するだけになっており確かにこれなら参議院は存在しないも同然です。
参議院自体がその誕生当初から「チェック機関」という位置付けなのですから政党の意向に拘束されることは望ましくないのです。
各々の党派が自己の良心に従って判断を下すべき場所なのです。
終わりに
今回、間接民主制とは何かについていろいろと書かせていただきました。
一般的に言われている「便宜性」の観点からこれを採用しているというのは全くもって本質的な説明ではないと述べました。
間接民主制をとる意義とは多くの考えを持つ人々が存在することを前提にしその多くの利害を代表する者同士で熟議を重ね「相対的真実」にたどり着くところにあると述べたのです。
そういう意味で、「均衡」というキーワードが非常に重要なのだと繰り返し述べてきました。
最後に参考文献を載せたいと思います。
ただ、日本にはたくさんの人がいますよね。
国民全員が集まって議論をするのは大変ですし、結論が出るまでにどれだけ時間がかかるかわかりません。
だからこそ、日本では間接民主制が採用されているのです。
これは日本に限った話ではなく、世界の多くの国で間接民主制が主流になっています。
https://www.try-it.jp/chapters-3241/lessons-3253/point-3/