これを書いている9月2日ですが、ある雑誌の広告が炎上しています。
それは小学館から出ている週刊ポストという雑誌広告の『韓国なんて要らない』というコピーです。
下記が該当の雑誌です。
でかでかと「韓国なんて要らない」とありますよね。
さて、これを見ただけで「あーまたバカやってるのね」と思えるなら問題ありませんし、日本という国は正常です。
しかしながら、昨今はこれを見て「そうだよね」「さっさと韓国を断交
しろ」という肯定的な意見が少なくないのです。
書店で『WILL』や『月刊HANADA』などの嫌韓路線ですが、平積みで置かれているのを見ると日本も危ないと言えます。
あのような嫌韓路線が少なからず支持を集めてしまっているのかということを意味しているわけですから。
本日は、このような嫌韓の何が危ないのかやそれにはまり込む人が現れる理由について書かせていただきました。
嫌韓に明け暮れる人の問題点〜差別と批判の区別がついていない〜
まず、この嫌韓ブームとも言えるものの何が問題かを端的にではありますが指摘します。
結論から言いますと、「差別」と「批判」の区別がついていないことにあります。
このブログでは幾度となく書いていることで恐縮ですが、この両者の区別は非常に重要なので改めて述べたいと思います。
「差別」というのは、「容易に当人の努力によって変更できない点について罵ること」です。
ですので、「韓国人は〇〇だ」や「中国人は〇〇だ」の〇〇の部分に暴力的なワードが入っていればそれは全て「差別」です。
理由は簡単で、よほどのことをしない限り、韓国の方や中国の方は国籍を変えられないためです。
「人種」や「国籍」といったものを変えられるでしょうか?無理でしょう。
それが「悪い」と表現することは繰り返しになりますが差別なのです。
こういった国籍や人種による区分けは「優生思想」とも言われ、ナチスによるユダヤ人虐殺の論理と根本は変わりません。
一方で、「批判」はそうではありません。
「韓国の人というだけで差別発言をする人間はだめだ」と私が述べたとします。
これは「差別」でしょうか。
いえ、断じて差別ではありません。
なぜなら、「韓国の人というだけで差別発言をする人」自体はそれをすぐに取りやめることができるからです。
これは「批判」です。
この両者の違いを述べることで何を私が伝えたいのかというと、この違いを知らない人ほど嫌韓ブームに流されているということです。
「差別」と「批判」の区別がついていればこのような雑誌に感化されたり、韓国を叩いて溜飲を下げる言論に説得されることはありません。
嫌韓をする人が「普通の日本人」や「保守」を自称する理由
さて、この嫌韓に流されていく人の恐ろしさはその発言内容もそうなのですが、自分たちを「普通の日本人」と思っていたり、自らのことを「保守」だと思っていたりしている点にあります。
これは相当タチの悪い話です。
そして、反省がないからこそ同じことを繰り返してしまいます。
ところで、こういった嫌韓を繰り返す人を擁護するわけではありませんが、日本という国はしばしばこのような差別発言を「普通」「伝統的」とみなしてしまう理由があります。
それは我が国の「偉人」と呼ばれる人の数多くがこのような嫌韓に勤しんできたことをあげなくてはなりません。
例えば、初代総理大臣でもある伊藤博文がそれに該当するでしょう。
私もしばしば多くの嫌韓に勤しむ人から耳にしますがその言動を正当化するにあたり「伊藤博文も述べていたから」というのを目にします。
実際、当事者たちは好き好んで伊藤博文が言ったとされる下記の「朝鮮人観」なるものを何度も引用しています。
- 朝鮮人は対等の関係を結ぶという概念がないので、常に我々が優越する立場であることを認識させるよう心がけること。
- 朝鮮人には絶対に謝罪してはいけない。勝利と誤認し居丈高になる気質があり、後日に至るまで金品を強請さるの他、惨禍を招く原因となる。
- 朝鮮人は恩義に感じるということがないため、恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。
- 朝鮮人は裕福温厚なる態度を示してはならない。与し易しと思い強盗詐欺を企てる習癖がある。
- 朝鮮人は所有の概念について著しく無知であり理解せず、金品等他者の私物を無断借用し返却せざること多し。殊に日本人を相手とせる窃盗を英雄的行為と考える向きあり、重々注意せよ。
- 朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること。
- 朝鮮人と商取引を行う際には正当なる取引はまず成立せぬことを覚悟すべし。
- 朝鮮人は盗癖があるので金品貴重品は決して管理させてはいけない。
- 朝鮮人には日常的に叱責し決して賞賛せぬこと。
- 朝鮮人を叱責する際は証拠を提示し、怒声大音声をもって喝破せよ。
- 朝鮮人は正当なる措置であっても利害を損ねた場合、恨みに思い後日徒党を組み復讐争議する習癖があるので、最寄の官公署特に警察司法との密接なる関係を示し威嚇すること。
- 朝鮮人とは会見する場合相手方より大人数で臨む事。
- 朝鮮人との争議に際しては弁護士等権威ある称号を詐称せる者を同道せる場合がある。 権威称号を称する同道者については関係各所への身元照会を徹底すべし。
- 朝鮮人は不当争議に屈せぬ場合、しばしば類縁にまで暴行を働くので関係する折には親類知人に至るまで注意を徹底させること。特に婦女子の身辺貞操には注意せよ。
- 朝鮮人の差別、歴史認識等の暴言に決して怯まぬこと。証拠を挙げ大音声で論破し、沈黙せしめよ。
- 朝鮮人との係争中は戸締りを厳重にすべし。仲間を語らい暴行殺害を企てている場合が大半であるので、呼出には決して応じてはならない。
*出所は不明。ただし、非常に頻繁に「伊藤博文」が言ったものとして引用されているため、嫌韓の方々の「伊藤博文」像としてそのまま引用させていただいた。
伊藤博文が言ったとされる上記の題目は「朝鮮人」という人種がいかに劣っているかということをつらつらと述べています。
普通に考えて単なる差別発言のオンパレードなのですが、「伊藤博文」という伯のついた人がいうと「正しいのかな?」と思わせる魔力が生まれてしまいます。
なお、この嫌韓は伊藤博文が言ったとされるだけではありません。
拙著でも取り上げましたが、長きにわたって日本の最高級紙幣として座ってきた福沢諭吉も嫌韓の差別主義者でした。
下記は杉田聡氏の編集した福沢諭吉が書いた新聞コラムの一節です。
今度の機会を利し、朝鮮人を誘導・提撕〔手を添えて教え導く〕して、その国における文明事業の推進をはかるの方針に決し、電信の架設、鉄道の敷設をはじめとして、郵便なり、警察なり、財政なり、兵制なり一般の組織を改良し、与に文明開化のことを共にして、世界の表面に独立国の対面を全うせしめんとするには、非常の大事業にして、日本の費用と労力とを要すること莫大なるは申すまでもなく、苟も朝鮮のごとき守旧一編の国において、文明事業の発起、百般制度の改良とあれば、これに対して種々の妨害の起こるは自然の勢いにして、その趣は我が国・維新革命の後、廃藩置県、地租改正、徴兵令発布等の大改革に、人民の反対を免れずして、時としては兵力を要するにもいたりし場合に異ならず。
『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集―「国権拡張」「脱亜」の果て』杉田聡編(2010) 明石書店
ここに記載のことをざっくりというと朝鮮人を文明化しまともな独立国にするにあたっては、日本のように温和に進めることはできないので、武力を用いて誘導することも致し方ないという意見です。
これは二重にも三重にもおかしい発言です。
まず、福沢が侵略や植民地化を「文明事業の推進」と言い換える薄汚い帝国主義者であることは明快です。
その上で押さえたいのは、「開明的」と一般的に言われる福沢の正義感は実際のところでいうと根底に朝鮮半島の人々に対する凄まじい差別意識だったということなのです。
さて、ここで本題と逸れましたので話題を戻しましょう。
何が言いたかったのかというと、なぜ嫌韓という愚か極まりない言動が「異常」とみなされるどころか、本件も含め自称「普通の日本人」を量産する結果となっているのかについてです。
その結論は、過去の我が国の「偉人」とされる人がそのような差別にお墨付きを与えてしまっていたことが少なからず関係しているということです。
「偉人が間違っている」と考えるよりは、「偉人も言っている」から、「差別発言をしても問題ない」という思考回路に至るのです。
だからこそ、繰り返しになりますが嫌韓であることが「保守」だと勘違いしているのです。
このことがピンとこない人は、嫌韓に勤しむ人が好き好んで引用するものや尊敬する偉人に誰がいるかをみてください。
おそらく、ここにも記載の伊藤博文や福沢諭吉を筆頭としてあとは吉田松陰などがきていることでしょう。
嫌韓をする人は愛国者ではない
このようなことを今更言わなければならないことも残念なのですが、最後に当たり前のことを述べたいと思います。
端的に言えば、嫌韓言論は害しかないのでやめるべきだということです。
こういうと「君は現実を見ていない」「左翼だ」などというトンチンカンな批判を浴びせられることが少なくありません。
しかし、「差別はいけない」ということは初等教育の段階で教わるはずです。
百歩譲って、何人かの韓国の方に何かしらの傾向が見えたとしましょう。
それでも「韓国人だから・・・」というのは差別発言なので「悪」なのです。
この私の考えを「綺麗事」「左翼」と思うなら相当目が曇っているでしょう。
昨今は、何もかもを「綺麗事」とし、差別のような醜悪なものを「リアリスト」と言い始める考えが少なからず支持を集めています。
しかし、「常識」を「綺麗事」だと言い始める「ニヒリズム」が横行し始めたら社会の腐敗は止まりません。
まずはこれが「悪いことだ」という認識を受け入れるには、些細ではありますがまずは我が国近代史の再評価に取り掛かることが必要かもしれません。