ご無沙汰してます。
最近いろいろな思想書を読むことにふけるのにはまっているですが、どうもこういうことをしていると世間的には「逃避的」と思われてしまうようです。そう思われてしまうのは少し残念です。
ただ、私としては思想を学ぶとは隠居や現実逃避ではありません。
むしろ思想を学ぶことは「思想が我々の考え方、習慣、行動に至るまで全てを支配している」というケインズの考えに習うまでもなく現実によく向き合う方法だと考えています。
それゆえに自分が支配されている思想に無自覚であることの方がはるかに危険だと私は考えています。
なぜなら、それを絶対視してしまうからですね。
思想を相対化してみることこそが現時点では我々ができる最善のことではないでしょうか。
今日は、いろいろな思想を紹介する一環として、昨今政治家やビジネスエリートを蝕む
「全て自己責任論」
「自由貿易は国を豊かにする基本原則」
「規制緩和や民営化を無批判に賛美する市場原理主義論」
の起源について少しお話できればと思います。
少しだけ前置きを。
一般的にはこの手のネオコン、ネオリベと呼ばれる反共思想の起源をたどるにあたってはフリードリヒ・ハイエクだったりミルトン・フリードマンの思想が挙げられます。
ただ、このグローバリストの誕生をもうハイエクなどより数百年前に予想していたのではないかと最近思わせてくれた本があるので今日はそちらを取り上げます。
取り上げるのはトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』です。
読みながら出した私の見解は、『リヴァイアサン』こそが昨今の知識層・エリートの思想的基盤であり、個々の具体的な政策論の支柱になっているのではないかということです。
試論なので論として甘々かもしれませんが、今後さらなる飛躍を遂げる第一歩としたいと考えています。
■ホッブズが『リヴァイアサン』で書こうとしたこと
『リヴァイアサン』というと義務教育課程でも教科書においてその名前が出てくるので、お読みになったことがない人でもご存知の方が多いでしょう。ですので少し概要を見ましょう。
教科書で『リヴァイアサン』と合わせてあげられる有名な言葉があるのはご存知でしょうか。
「万人の万人に対する闘争(状態)」というものです。ホッブズは人間は自然状態では絶え間ざる争いの状態に置かれると考えたのです。
この本は社会契約論の走りとも言われのちにルソーやヒュームなどによっても参照されました。
この「万人の万人に対する闘争」がネオリベと関連があるので、本題に入る前にここだけ少し補足します。
平たく言いますと、人間は自然状態においては常に他者との緊張関係に置かれざるをえなく、これを収束させる(平和が訪れる)のは人間達がその自ら持っている自然権(生まれながらにして持っているもの)の幾つかを進んで放棄する時だけであるというものです。
それはともかくとして、万人の畏怖するような共通の力を欠いた場合、生活はどのような者になるのだろうか。その見当をつけるには、平和な統治の下で暮らしていた人々が内戦が起こるたびにどれほど劣悪な生活環境の中に転落していくかを観察すれば良い。
『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(2014)光文社
この考え方はのちにルソーによって多分に批判を受けますが、それでも功績は色褪せません。
『リヴァイアサン』のこの思想は後の思想家に大きな影響を与えます。(ヒューム、アーレント、ロックなど)
もう少しこのことを掘り下げましょう。
そもそも人間は自然状態で「万人の万人に対する闘争状態」になるというのがわかったとして人間をそのような状態に導くのは何故なのでしょうか。
ホッブズによれば「恐怖」がキーワードとなります。
つまり、人間の「恐れる気持ち」が絶え間ざる争いの状態を生み、そして最終的には国家(権力)を生み出すということです。
従って、政治的共同体が成立する以前、あるいは内戦によって政治的共同体が途絶えている間、頼りになるのはただ一つ。人々が目に見えない力に対して抱く恐れの気持ちだけである。
『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(2014)光文社
というのも人間は「自己保存」という強烈な本能を持っています。(人間の自然状態に対して正反対の結論を出したルソーもここは同じ)これを脅かし得ると感じた時に起こる「恐怖」にホッブズは着目しています。
「恐怖」が蔓延する「自然状態」ではとてもではないが平穏な暮らしはできないとホッブズは述べます。
特に人間が社会を運営する上で最も重要といわれる「約束する力」も自然状態では揺らいでしまうというのが彼の見解です。
敷衍して説明しよう。先に履行する者には、相手側が後に続くという保証はない。なぜなら、言葉の構想力はあまりにも弱いので、何らかの強制的な権力に対する恐怖心を利用しない限り、人間の野心、物欲、腹たち、その他の情動を押さえつけることはできないからだ。純然たる自然状態にあっては、万人が平等の立場にあり、しかも万人が自分自身の不安の正当性を判断するのだから、そのような強制力はとても想定できない。従って、先に履行する者は自分自身を敵に売渡すも同然である。それは、自分の生命と生活手段を守るという・・・権利に反している。
しかし、国家が成立しているところには権力があり、自らの信約を破ろうとする者は拘束される。従って、もはや右の不安は根拠薄弱ということになる。
『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(2014)光文社
「約束が守られないかもしれない」「相手に自分が持っているものを取られるかもしれない」。。。。
人々は四六時中怖れ、実際に闘争することも経て、紆余曲折を経て一つの国家を作るというものです。
さて、今のホッブズが描いた思想世界がグローバリストとどう関わるのかについていろいろ書いていきます。
■『リヴァイアサン』がグローバリストの聖典たる理由
さて、この『リヴァアサン』がネオリベを筆頭としたグローバリスト(日本でも最近流行り)の根本的哲学思想である理由についてここから書いていきます。
いくつかポイントがあります。
一つ目が「自分を守るためには相手に被害を与えることも厭わない」というものです。
これは既存の秩序を解体しながら私的利害を追求し続けるグローバリストの一つの重要な基盤となるものです。
ホッブズの『リヴァイアサン』では、平和が誕生するまでの過程で個々人は闘争状態にあると先ほど述べました。
この『リヴァイアサン』の世界観は市場原理主義的に個々人を競争することをよしとするグローバリストそのものではないでしょうか。
それは極端に言えば生き抜くためには時に相手を撲滅することもやむなしという理論的基盤を与えるものでさえあります。
従ってふたりの者が同一のものを欲しながら、それを共有できない場合、両者は互いに敵となる。そして、主として自己保存・・・を目的とし、そうした目的を達成する過程で相手を撲滅または征圧しようと努める。
『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(2014)光文社
「自分が生きるためにはしょうがなかった」
「何もしなければこっちがやられる」
なにやら戦争を彷彿させる考え方ですが、ネオリベの経済の世界観は総じてこれに覆われています。
ちなみにハンナ・アーレントという思想家がいるのですが、彼女は帝国主義(外国からの搾取)の正当化としてブルジョアの思想的基盤に『リヴァイアサン』を取り上げています。
近代の権力崇拝者たちの考えが彼らとはまったく無縁だったある思想家の哲学といかに一致していたかを見るのは、いささか役に立つことと思われる。その思想家とは、公益を私的利益から導き出そうと試み、私的利益のために権力の蓄積を唯一の基本的目標とする一つの政治体を構想したただ一人の人、ホッブズである。彼は確かにブルジョワジーがよりどころとして頼っていいはずの唯一の哲学者だった。
『全体主義の起源2ー帝国主義ー』ハンナ・アーレント みすず書房(2017)
彼女によればブルジョアたちはホッブズの思想により偽善を取り繕う一切の苦労から解放されたと指摘するのですが、これは極めて頷けるテクストです。
ところで、帝国主義というと古く感じるかもしれませんが、最近のTPPにおけるネオリベ思想に汚染された政治家や知識人の話を聞いていればとても昔話とは言えないでしょう。
・TPPでアジアの成長を取り込む
野田前首相「アジアの成長取り込み必要」 2011年
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1103Z_R11C11A1MM8000/
こちら野田前首相の発言ですが、ネオリベは民主党にとどまらず、自民党ももちろん汚染されています。
自民党と民主党は大差がありません。
・安倍首相「経済成長にTPP必要」
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS17H0U_X11C16A0MM0000/
自分たちがこのままでは衰退する、自分の国だけではもう成長ができない。。。
だからアジアの成長を取り込むと野田前首相も安倍首相も言っているわけですが、まさに帝国主義的発想ですね。
ただ、これが批判されません。(朝日だろうと読売だろうと)
この無茶苦茶な発言が右も左も批判しない理由はなにがあるのでしょう。
「自らを守るためにはやむをえないのだ」という『リヴァイアサン』の世界観を受け入れれば合点が行くのではないでしょうか。
グローバリストは人々を抱き込むにあたり人間の根源的欲望である「自己保存能力」が脅威にあると焚きつけなんでもあり状態持ち込むのです。
二つ目です。
『リヴァイアサン』とネオリベの共通点として、今のものと重なる部分もありますが、「無限の膨張こそが防衛になる」と云うイデオロギーです。
政府から財界から学者から全ての知識人と言われる人が「成長成長成長」と叫んでいる今日この頃ですが、『リヴァイアサン』と関係があると考えています。
ホッブズによれば何故絶え間ざる成長が必要なのかというとロジックとしてはこうです。
自らが闘争状態にあっては恐怖しかないそういった中で自己保存をどうして成し遂げるか?
それは先制攻撃に他ならない。
先制攻撃により相手をねじ伏せるのである。
ただ、その権力は自分の安全を図るのに必要な程度を超えて増進をし続ける必要がある。
何故なら、増進しなければいずれ守りに立つことになるからだ。
こうした猜疑心から身を守るためには、先手を打つことほど理にかなった方法はない。それはすなわち、力や策略を用いてできる限り全員の身体を長期にわたって支配し、最終的には、こちらに危害を及ぼすような大きな力を無害化することにほかならない。それは、自己保存にとって必要な、一般的に許される範囲内にとどまることもある。だが、自己の安全を図るのに必要な程度を超えて、征服行為という形で自己の力を試して悦に入る者もある。平素控えめに身の程をわきまえ、進んでおとなしくしているような人々は、どうなるのか。もし侵略によって自己の力の増進を図らないとすれば、守勢に立たされたまま長い間持ちこたえることはできない。してみれば、ほかに対する支配の増大は自己保存にとって必要であり、許されるのが当然ということになる。
『リヴァイアサン』トマス・ホッブズ(2014)光文社
最後です。最後は少しだけ政治によったものになります。
『リヴァイアサン』とグローバリストの3つ目の共通点は「国家は財産を保護する役割を担いさえすればいい」と云うところです。
『リヴァイアサン』の中で個々人を恐れさせるのは自らのいかなる所有も侵され得るというところからくる恐怖です。
自然権を放棄してまで守りたいものとは自らの所有物の保証です。(ルソーもこれは述べてますが)
近代の始まりとは所有権の保証であるとは複数の方が指摘していますが、資本主義の世界観の前提には所有権が保証されていなければなりません。ですからネオリベは軍事力の強化を「無駄」とは言いません。最低限の防衛がなければ所有権が損なわれることを本能的に察知しているからです。
しかしこれ以外の政治権力の介入は基本的にとても嫌います。
「規制緩和」「構造改革」などの馬鹿騒ぎがここ二十年、我が国では総理大臣が変わろうとも一貫して叫ばれてきました。
これは民主党であろうと自民党であろうと同じことを言っていました。
とにかく市場原理を強化することが世の中を良くすると考えるところからきているのですが、これはまさに『リヴァイアサン』の世界に通ずるところがあるのではないでしょうか。所有権を担保さえしてくれればあとはとにかく放っておくことが正義であると。
そしてここにからめて補足すると、彼らが闘争状態を煽るのはその先に平和があるという確信が彼らの中で何故か自明だということも述べなくてはなりません。
闘争状態が終わらないんじゃないか?とかカルテルやら談合による寡占ができ彼らの言うところの市場が機能不全になるのではないか?とかそういう発想が何故か彼らにはないのです。
普通今述べたような悲観的な思想があればそのような何でもかんでも市場原理を取り入れようとしないからです。
さてまとめます。
ひとことで、ホッブズの『リヴァイアサン』の偉大さをいうならば今日におけるネオリベの誕生を予見していたことです。
とにかく自由化しろと。そしたらいずれ平和が訪れると。
驚くべきはそのネオリベの詳細な行動原理まで予見していたことです。
具体的にはホッブズ同様ネオリベもまた闘争状態がある平和的帰結につながると考えていますし、自分を守るためには何をしてもやむなしと思ってますし、成長こそすべてだとも思っていますしほぼすべて当たっている気がします。
■『リヴァイアサン』と合わせて一緒に読みたい本
最後に『リヴァイアサン』と合わせて昨今の知識層を汚染しているとされる思想の書を掲載いたします。
参考までに読んでいただければと思いますが、ホッブズこそが下記に挙げる本に先立つ名著かもしれません。
フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』
ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』
デービット・リカード『経済学及び課税の原理』