人生に目標がないどうしよう。。。
最近どうもそう思う人が少なくないように感じます。
年収でいくら欲しいとかもないし、特に欲しいものもない、結婚も別にしたいわけでもない、仕事で目指したいものもない、別に起業もしたくない、、
こういう状況にある人に今日は少しだけお伝えしたいことを書こうかなと思います。
結論から言うと「人生に目標がある人」が「人生に目標がない人」に比べて良いというわけではないのです。
今日は、資本主義の向かう方向性から見えるものの第二回として「目的」と「手段」という認識のカテゴリーの問題点を取り上げます。
- 「個人の孤立化」の加速
- 「目的」と「手段」という認識のカテゴリーの浸透←
- 「公的世界」の消滅
■「人生に目標が必要」という気持ちの起源
そもそも論を始めなければなりません。
「人生に目標を持つ」とい現象は人間全体に普遍的なものでしょうか。
これは直感的にもわかるかもしれませんが、ノーでしょう。
その正当性を示すのは極めて困難です。
何が言いたいのかというと、「人生に目標が必要」というのは単なる認識のカテゴリーにおける一様態でしかないということです。
そして、少し踏み込んで言えば「人生に目標が必要」というドグマが当たり前のように絶対視されていることの方が人生に目標がないことよりはるかに危険です。
さて、この「人生に目標がないといけない」という感覚はどこから来たのでしょうか。
これに関してハンナ・アーレントという思想家が極めて興味深いことを述べています。
たとえば、ホッブズが伝統哲学と訣別した一つの理由は、これまでの形而上学はすべて、万物の第一原因を究明することが哲学の主な務めであるとする点でアリストテレスに追随してきたのに対し、目的や目標を指示し、合理的な行為の目的論を打ち立てることに哲学の務めはあると主張した点にある。ホッブズにとってはこの点こそ重要であった。そして、原因を発見する能力なら動物でも具えており、それゆえこの能力を持つか否かは、人間の生命と動物の生命を区別する真の指標にはならないとまで主張した。
『過去と未来の間』ハンナ・アーレント (1994) みすず書房 p101
ホッブズやアリストテレスなどとよくわからない人物が目につくかもしれませんが、そこは重要ではありません。
彼女が言っていることで重要なのは人間が他のいかなる動物とも区別する存在であると自覚したのは「目標や目的を立てられること」が人間に固有だと気付いたからだということです。
そして、アーレントは『人間の条件』という別著で書いているのですが、近代における社会の生産性の拡大もまたこの「目標や目的を打ち立てる力」を重視した要因に挙げているのです。
社会化された人類(マルクス)というのはただ一つの利害だけが支配するような社会状態のことであり、この利害の主体は階級か人であって、一人の人間でもなければ多数の人々でもない。肝心な点は、今や人々が行っていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ消滅したということである。残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、全ての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した。この力の唯一の目的は・・動物の種としての人間の生存であった。個体の生命を種の生命に結びつけるのに、それ以上に高い人間能力はもはや何一つ必要ではなかった。個体の生命は生命過程の一部となり、労働すること、つまり自分自身の生命と自分の家族の生命の存続を保証することだけが、必要であった。
『人間の条件』ハンナ・アーレント (1994) ちくま学芸文庫 p498
さて、あなた自身が何か目的や目標を持たないといけないという強迫観念に襲われている理由は見えてきたのではないでしょうか。
一言で言えばそれは、近代という時代が生産性を高める過程で生み出してきた思考習慣に覆われているからなのです。
■人生に目標を持つことのリスク
人生に目標を持ったり目的を持つ大切さを語る本というのは今は巷でビジネス書を何冊かひろいあげればすぐに見つかるでしょう。
『7つの習慣』だったり、本田健だったり、『金持ち父さん』だったりと有名なビジネス書では総じて「人生に目標がないとダメだ」と断言しています。
特に『金持ち父さん』に関して言えば、目標や目的を立てないと話が「貧乏父さん」と認定されます。
さて、人生に目標を持つことはそんなにいいことなのでしょうか。
私にはそうは思えません。
人生に目標はいらないとさえ思います。これを言うとビジネス書を年間数百冊は読む人から罵倒されるでしょう。
ただ、そう思うのには明確な理由があります。
平たく言えば、「目標」や「目的」を持つことはリスクがあるからです。
そのリスクとは、目的はそこまでの過程の「意味」を失うだけでなく、目的や目標に至ったやすぐにそれは「手段」でしかなくなってしまい結局は永遠の無意味性に追い込まれるというものです。
功利主義のアポリアは、手段と目的というカテゴリーの枠組みそのものにある。それは、達成された目的一切をすぐさま新しい目的の手段へと転化してしまい、それによっていわば、意味が生まれそうになるや否やその意味を破壊してしまうのである。「何の役に立つか」という功利主義の問いが一見際限なく続くうちに、言い換えれば、今日の目的がより良き明日の手段に転化してゆくという一見際限のない連鎖において、功利主義の思考によっては決して答えらえない一つの問いが最後に浮かび上がってくる。「役に立つことはいったい何の役に立つのか。」これはかつてレッシングが簡潔に発した発問だった。
『過去と未来の間』ハンナ・アーレント (1994) みすず書房 p107
彼女はこの無意味性の際限なき拡張をもたらす近代特有の認識のカテゴリーを功利主義のアポリアと読んでいます。
(*私が前章で述べた近代の思考習慣と同義)
つまり、功利主義の認識のカテゴリーを持ったが最後、袋小路に追い込まれるということ意味します。
これは、金持ち父さんの例を考えてみればわかります。
金持ち父さんを知らない人のために補足しながら書きますと金持ち父さんの世界では「金持ち父さん」になることが人生における勝者と定義されます。では、この金持ち父さんになるにはどうすればいいのかというとまず夢を決めさせられます。(海外でバカンスをするとか道楽でビジネスをするとか)
そして、そのあと夢を実現する上で必要となる不労所得の目標を立てることが迫られます。
この流れは、まさにアーレントの言うところの功利主義のカテゴリーで人生を捉えていると言って良いでしょう。
なぜなら、夢は人それぞれで一見多様に見えますが、不労所得である金額の設定という目的でガチガチに人生を縛るからです。
それをしなければ金持ち父さんになれないと本著では脅されています。
ただ、この「成功者」像というのがイメージしているようないいものであるかというと2つの側面で疑わしいのです。
理由の一つ目は、金持ち父さんは本ではすんなり引退するのですが、現実ではおそらくある月収目標だかを達成したところでそれを失う恐怖から「即引退」とはほぼほぼならないはずなのです。
現実の世界はフィクションの世界とは比べ物にならないくらい「想定外」が山のようにあります。
不動産価格だって暴落するかもしれないですし、店だって競合が急に来てぶっ潰されるかもしれません。
人を雇おうにも雇えないかもしれません。ゲームではこういうリアリスティックな現象がないんですね。
そういった現実の不確実性を考えた時、あなたが仮に月収100万円を目標にしていたとしてそれを達成したら綺麗さっぱりやめて引退できますか?できないでしょう。
おそらくそれを失う恐怖に襲われるのはもちろんそれを失わないためにさらなる積み上げを行おうと思うはずです。
ホッブズが述べたように「自己保存」の欲求というのはそれ以外の欲求と桁違いに強いですから、本のような安心して引退とは絶対になりません。
こうして、いくら目的の金額に達していたとしても恐れながら人生を終えていくという方が金持ち父さんの現実で実際に起こりそうなことなのです。(もちろん引退して有り余るほど金を得る人もいるんでしょうがそれはもう例外中の例外でしょう。)
もう一つの違和感ですが金持ち父さんは目標を達成した後、南の島でバカンスに行ったり、道楽でビジネスをやったりします。
これで「自由な人間」となるわけですが、見ていて正直「無意味性」を必死にごまかしているという印象さえ抱いたものです。
ありあまった時間を何に使おうか迷った挙句とにかく資産を散財するという目的と手段が転倒しているというのでしょうか。
当初は目的だったものが「時間を潰す」という目的の手段になり、無意味なものと成り下がっている哀愁のようなものを感じるのです。もちろん私の考えすぎかもしれません。
ただ、一つ言いたいのは金持ち父さんのようなフィクションは現実で同じように再現されるかというと極めて怪しいということです。
仮に不労所得を満足いく程度に稼げても全くもって思っていなかった人生を送る可能性があるのです。
■「人生に目標がない」ことを焦っている人が読んでおきたいおすすめの本
話を戻しましょう。
アーレントは目的と手段のカテゴリーに出くわした際にどう葛藤をしのぐかということについて『人間の条件』の中で以下のように述べています。
功利主義の難問は、それが手段と目的の際限のない連鎖にとらわれてしまい、手段と目的の、つまり有用性そのもののカテゴリーを正当化し得るある原理に決して到達しないという点にある。「ある目的のために」ということが「それ自体意味のある理由のために」ということの内容となっているからである。言い換えれば、いったんは意味として確立された有用性が、再び無意味性を生み出しているのである。手段と目的のカテゴリーの内部では、そして使用対象物と有用性の世界全体を支配する手段性の経験の中では、あれこれのものが「目的自体」であると宣言する以外、手段と目的の連鎖に終止符を打ち、すべての目的が結局は再び手段として利用されるのを防ぐ方法はない。
しかし、この「目的自体」というのは、実際には、すべての目的に適用できる同義反復であるか、そうでなければ用語上の矛盾である。なぜなら、本来目的とは、それがいったん実現されると目的であることを止めるものであり、手段の選択を導き正当化する能力を失い、手段を組織し生む能力を失うものであって、「目的自体」というのは存在しないからである。
『人間の条件』ハンナ・アーレント (1994) ちくま学芸文庫 p246
彼女はあれやこれやと「目的達成のための手段」と見るのではなく「目的自体」と宣言する以外連鎖を打ち切る方法はないと指摘します。これは一見納得できるように見えます。ただ、そのあとを見ればどうやらその「目的自体」なるものは存在しないのだとか。
なんじゃそりゃという感じですね。
そこで、最後に彼女が伝えたいことを私なりにまとめてみました。
彼女は我々に近代が生み出した思考習慣である「目的」と「手段」というカテゴリーから一刻も早く抜け出すべきだといっているのです。
彼女は主著のいたるところで、ギリシアのポリスなどを例に言論活動をとても重視していることを考えると見えてきます。
この「言論活動」というものは目的と手段というカテゴリーではその「意味」は生まれません。
むしろ、活動した後にその言論活動の「意味」が湧いてくるのです。
そこには目的も手段もありません。振り返った時に何かがあるだけです。
近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。
『過去と未来の間』ハンナ・アーレント (1994) みすず書房 p104
アーレントという思想家は何やらジジくさいのですが、「人生は振り返った時にあれはよかったと思えたらいいじゃないか!」と言いたいんです。(多分)
だから、「目的目的」と言いながら人生をすり減らして終わらないでねと。
人生の目標というドグマから解放し、偶然出会ったものを大切にし、振り返った時にそれはよかったと言えるのがいいのではないでしょうか。
もしよければ彼女の主著を読んでみてください。
おすすめです。