人生を生きていると誰しもがふと向き合うことがある問いがあります。
それは、「自分が生きている人生に意味があるのか」という問いですね。
私も下記のように思ったことがあります。
- 毎日朝から晩まで必死こいて働いて何が一体この先あるのだろう?
- 年をとるまでずっと同じことを繰り返し続ける毎日に意味があるんだろうか?
- 人生は何を選択しても結局しんどいだけではないか?
これが私だけであれば問題ないのですが、人生の意味について思いを煩わせる人というのは少なくありません。
そこで、今日は私なりに「人生の意味」というのをテーマに一本記事を書かせてもらいました。人生の意味についてなぜ我々は考えなければならなくなったのかについて書かせていただきます。
■我々が「人生の意味」を考えなくてはならなくなった歴史的背景
さて、そもそもの話から見ていきたいと思いますが、我々が時折頭を悩ませる「人生の意味」というものは昔から考えなくてはならなかったものなのでしょうか。
これに関しての私の見解は「否」です。
そもそも我々が「人生の意味」を考えなくてはならなくなった理由は長く見てもここ100年以内に現れたものでしかないと考えています。
では「人生の意味」を考えなくてはいけなくなったきっかけとはなんなのかについて話を進めます。
我々がそう考えなくなったきっかけを理解する上でのキーワードは「コミュニティ」と「アイデンティティ」です。
あらかじめ結論から述べますと、力関係が「コミュニティ>アイデンティティ」の場合、コミュニティが人生の意味を自制的に与えてくれる一方で、「アイデンティティ>コミュニティ」になると「人生の意味」を自ら考えなくてはならなくなるのです。
私が今述べたことを多くの識者がすでに広く指摘していますので少しご紹介いたします。
イギリスの犯罪学者で著名なジョック・ヤングは『排除型社会』の中で下記のように述べています。
コミュニティがまさに壊れる時に、アイデンティティが生まれる。
『排除型社会』ジョック・ヤング(2007)洛北出版 p164
彼の言葉を咀嚼してみるにコミュニティの崩壊まではそもそも「アイデンティティ」という概念すらなかったようです。考える必要さえなかったということですね。
しかし、コミュニティが崩壊したことで、その「代用品」として「アイデンティティ」が開発されたとヤングは指摘するのです。
同様のことをジクムント・バウマンも『コミュニティ』においてわかりやすくまとめてくれています。
「アイデンティティ」は今日人々の間で話題に上るし、それを巡るゲームが人々の間でごく日常的に行われてもいるが、それが人々の注意を引いたり情熱を産んだりするのは、コミュニティの代用品であるからである。すなわちそれは、「生まれながらの故郷」と伝えられるものの代用品であり、外の風はいかに冷たかろうとも暖かさを保つサークルの代用品なのである。
『コミュニティ』ジクムント・バウマン(2017)ちくま学芸文庫 p27
さて、ここで湧く疑問があるかと思います。
アイデンティティとはなんなのかという話です。
これは広く辞書を読んでいくと「自己を構成する要素」という理解が妥当です。
つまりアイデンティティが喪失した状態は人間として非常に危機的状況だと言えるのです。
このアイデンティティの意義を理解すると今回の記事テーマとつながってくることがお分かりいただけるでしょう。
コミュニティが喪失しつつある時代の中ではアイデンティティという形で自らの存在の意味を見つけなければならなくなっているのです。
■「人生の意味」を考えてもわからない理由
ただ、私はこの「アイデンティティ」という一見高尚なもののデタラメさを感じずにはいられません。
おそらく自己を自明的なものとして考える人にとっては「アイデンティティ」という概念ほど受け入れやすいものはないことでしょうけども私は少し異なる立場をとります。
結論から述べますと、いくら自己の内で考えを巡らせても自らを構成する要素(アイデンティティ)は見つからないというものです。
私と同じ考えをした思想家にカール・ヤスパースという偉大な人物がいます。
少しご紹介いたしましょう。
彼の「哲学」はそれまで当たり前とされてきた自らの内省でもって自らの存在のあり方見つけるという哲学の形を徹底批判し「交わり」において自らを発見すべしという見解を示すものでした。
交わりへの哲学的態度とその反対者、この両者は、真理とは共同体を立てるものであるという命題を確信している。
『哲学』カール・ヤスパース(2011)中公クラシックス Kindle1740
彼の考えから言えることとしては「アイデンティティとコミュニティ」という一見別個のものが実は不可分なものであるということです。
つまり「コミュニティ」なくして「アイデンティティ」は成り立ちえないということです。
この立場を私もとっています。
私は、自分を絶対的な開始として考えることはできない。私は自分で自分を作り出したわけではないからである。確かに、私が私自身であるとき、私は自分を根源として捉えはするが、しかし私は、私の由来において規定されているのである。
私の由来を、私の開始として、客観化してみるとき、私は、自分の現存在が、私の両親の出会いということに結びつけられており、遺伝や教育によって、また社会学的かつ経済的情勢によって規定されたものであることを知る。私の開始は、絶対的な開始ではないのである。私の眼差しは私の開始を超えて背後へと遡り、そして私の開始が生成の結果であることを私は知る。私の誕生を超えて、視線は、この生成の涯てしない過程の中へと入り込むが、その過程の中では、いちばん最初の開始でありうるようないかなる根拠にも到達することがない。
『哲学』カール・ヤスパース(2011)中公クラシックス Kindle5422
一言で言えば、自分自体が自分の由来ではないということを言っているのです。
ここまでの流れで改めてお伝えしたいのは次のことです。
アイデンティティとコミュニティは分けて述べられる傾向にあるが違うと言うことです。
アイデンティティの基礎を作るのがコミュニティなのです。
これが何を意味するかというと、コミュニティが崩壊すると人間のアイデンティが台頭するという一般的な通念は誤りでコミュニティが崩壊すると人間のアイデンティティの崩壊が始まるということなのです。
人生の意味は「コミュニティ」が与えるのであり、それが崩壊した時に我々は地盤が崩れたかのごとくあまりに不安定におぼつかない足取りを取り続けることとなるのです。
今世の中では自分探しや自分の人生の目的を探すという書籍が流行っていますが、その本を読んでもどこからともなく錬金術的に個人の人格の一部であるアイデンティティが作られることはないのです。
■まやかしのアイデンティティを持つことを辞めるべき理由
ただ、今書いた安易な自己啓発に見られるように昨今コミュニティの崩壊意を直視せず「まやかしのアイデンティティ」により自己欺瞞的状況に入る人がいます。
そのパターンは大きく分けて二パターンがあります。
- 自らがより多くを所有しているということを見せびらかすこと
- 自らの所有を放塵することで相手に自らの権威を見せびらかすこと
二つには分けたものの本質的には同じです。
要するに、自らが「市場価値」(マルクスの言葉で言うならば『交換価値』)が高いことを示すためにより多くの財を持っていることです。そして相手の嫉妬を掻き立てることを喜びとするわけです。この行動を「自らのアイデンティティ形成」への取り組みとある種自己欺瞞的に行うわけですね。
ただ、この「まやかしのアイデンティティ」を追い求めることは野蛮です。
ウェブレンが述べる「所有権」の由来を考えるとそう考えざるをえません。
所有権は、成功した襲撃の戦利品として保有される略奪品であることを持ってそもそも始まった。集団が原始未開の社会組織からごくわずかしか離脱しておらず、他の敵対的な集団となお密接な接触を保っている限り、所有されている物や人間が持つ効用は、その所有者と略奪対象であった的との妬みを起こさせるような比較に大部分由来している。
『有閑階級の理論』ソースタイン・ウェヴレン(2015)講談社学術文庫 Kindle413
持っている量を競うというのは極めて動物的なのです。
補足して付け加えると、ここにある「持っている」というだけでは「自分が多く持っていること」を多くの人に知らせることができないため、ある時代のタイミングから富める人間は富を意図的に無駄遣いすることで自らの優位性を示すようになりました。
それゆえに、「まやかしのアイデンティティ」の2パターンは同じものだという話も理解いただけるでしょう。
しかしながら、この果てしなき競争が「人生の意味」をもたらすことはほとんどありません。
この競争は個々人の「唯一性」(uniqueness)をもたらすものとは言いがたいものがあります。ユニークになれるのは最も多くを持つビルゲイツくらいのものです。(そのビルゲイツが世界一の金持ちになった時に金持ちになることが人生の意味を満たさないということを言ってたのは興味深い話です)
ここで「コミュニティ」の話に戻ります。
コミュニティ哲学の開祖とも言えるハンナ・アーレントも先に引用した人物などと同様に「他者との交わり」が人生に意味を与えてくれると述べます。
言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。そしてこの挿入は、第二の誕生に似ており、そこで私たちは自分のオリジナルな肉体的外形の赤裸々な事実を確証し、それを自分に引き受ける。この挿入は、労働のように必要によって強制されたものでもなく、仕事のように有用性によって促されたものでもない。それは、私たちが仲間に加わろうと思う他人の存在によって刺激されたものである。とはいうものの、決して他人によって条件づけられているものではない。
『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)ちくま学芸文庫 p288
この「コミュニティ」の再生に向け、複数人の協働していくという動きが起こらなければ、これからの時代、非常に多くのバラバラに引き裂かれた個人が辛い厳しい時間を過ごすことになると私は予測しています。(既に始まってますが)
各々が1人で何かを考えているだけで「人生の意味」は生み出されえないということ、、、それが本記事でのメッセージとなります。
もちろん私は富の獲得という行為自体を否定するつもりはありませんし、労働自体も否定しません。
しかし、今そこにのみ目が行きがちな結果失われている「コミュニティ」の価値を再評価しなければならないと述べたいのです。
目に見えないからといって、快楽をもたらさないからといって「価値がない」わけではないのです。