今本屋のビジネス書コーナーに行くとある偉大な思想家の本がなぜか置かれていることがあります。
それは、マキャベリの『君主論』です。
おそらく読んだことがなくても名前くらいは知っているという人も一定数いるくらい著名な書籍で、公民や世界史の教科書でも登場するくらい有名です。
ビジネス書コーナーに置かれるのは統治者たるものどうあるべきかを書いていることもあり、ビジネスマンとして上へ上がるためにはどうするのがいいのかを考えるために参考になるということからなのでしょう。
ただ、マキャベリの『君主論』をもってマキャベリとは何か、リーダーとは何かを考えていくことはあまりお勧めできません。
もちろん『君主論』は偉大ですが、それはある一面を捉えたものでしかありません。本日は、マキャベリの思想を紐解きつつ『君主論』でもってマキャベリとは何かを理解したつもりになることの危険性について書きます。
一般的に理解されているマキャベリのリーダー論
まずは一般的に理解されているマキャベリ像についておさらいもかねて書いていきたいと思います。
いくつかあるのですが、2つだけ紹介します。
一つ目が「権謀術数」というキーワードがあります。
ブリタニカの辞書では「権謀術数」と入れるとマキャベリズムという言葉が出てくるくらいマキャベリの思想を表す思想として大きなキーワードとされているようです。
下記は辞書で権謀術数(マキャベリズム)と調べた時に出てくるものです。
目的のためには手段を選ばず,権謀術数をたくましくする政治上の行動様式や主義。マキアベリが《君主論》(1532年)の中で,〈君主は獅子のごとくたけだけしく,狐のごとく狡猾(こうかつ)〉でなければならぬと説いたことに始まり,C.ボルジアがその典型とされる。
目的のためにはある程度手段を選ばず、時に狡猾と言われるくらいでなければいけないくらいの意味で捉えて良いでしょう。
これをマキャベリを意図したかはともかくとして一般的にこのマキャベリ理解というのはかなり広がっています。
ですから、リーダーたるもの時に周囲に嫌われてでもやらないといけないことがあるだとかそういうことをマキャベリから学ぶ人が多いのです。(それゆえに冷たいと批判的に見られる書物でもあります。)
2つ目です。こちら日本人にはいかにも弱そうな話ですが、「人は建前では動かないので本音(実利)を常にとっていく」という考えですね。
例えば、『君主論』の有名な一説に下記のようなものがあります。
加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の恨みを買わずにすむ。これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない
『君主論』ニッコロ・マキャベリ(2002)中公文庫BIBLIO
建前から言えばこういった「駆け引き」は例えば日本においてはあまり美しくないと思われることでしょうけれども、マキャベリはある種「リアリスト」としてどうすれば一番利益を最大化できるかという視点で泥臭いことを書いているわけです。
マキャベリの真意を探すために押さえたい一冊
ここまで書いてきたマキャベリの思想の一端を読むとドライな世界で生き残らなければならないビジネスマンにとっては非常に親和性が高いことが書かれていると言えるでしょう。
実は恥ずかしながら私も半年くらい前までマキャベリについては『君主論』しか知らなかったこともあり、こういったビジネス書的な読み方しかできていなかった部分があります。
しかしながら、もう一冊の代表作を読んでいくと少し話が変わってくるなというのがこの記事で最も強調したいことだったりします。
マキャベリのもう一つの代表作というのは『ディスコル史〜ローマ史論〜』という著書です。タイトル的には『君主論』と比していかにもインパクト負けな感がありますが、こちらはマキャベリの思想が『君主論』に劣らず書かれています。
まず、前提が崩れるような話をマキャベリはしています。
それは「君主国」がいいとは言っていないというところです。
『ディスコル史〜ローマ史論〜』では下記のように書かれています。
ところが、実際にはファビウスは共和国に生を受けていた。共和国には様々な型の市民、いろいろな性格を持った人間がいて、長期戦を戦い抜くにはちょうど適任のファビウスがおり、一方、勝ちに乗じた時にはもってこいのスキピオが控えている、といった具合なのである。
このことからも、共和国は君主国に比べてはるかに繁栄し、かつ長期にわたって幸福を享受できることが理解できよう。なぜなら共和国では国内にいろいろな才能を具えた人間が控えているので、時局がどのように推移しようと、これにより巧みに対応していくことができるが、君主国の場合はそうはいかないからだ。
『ディスコル史〜ローマ史論〜』ニッコロ・マキャベリ(2011)ちくま学芸文庫
もちろん共和国にもリーダーが必要ですが、ここで押さえるべきはマキャベリの思想は一般的に持たれているような「カリスマリーダー」的な人が治める組織を理想とはしていなかったということです。
むしろ「多様性」「寛容性」「リベラル」といったいわゆる「きれいごと」なるものの存在もマキャベリは一定程度持っていたと解釈せざるをえないのです。
また、資本主義の理論的支柱の一人でもあるアダム・スミス的な「個人の利益追求が結果として社会の利益の総和の拡大につながる」という思想にも同意していませんでした。
その理由(ローマ帝国の急発展)はいとも簡単に理解できる。つまり個人の利益を追求するのではなくて、公共の福祉に貢献することこそ国家に発展をもたらすものだからである。しかも、このような公共の福祉が守られるのは、共和国を差し置いては、どこにもありえないことは確かである。
『ディスコル史〜ローマ史論〜』ニッコロ・マキャベリ(2011)ちくま学芸文庫
マキャベリが語る統治の真髄
なんだかまとまりがないなあとお思いになる方も多いことでしょう。
マキャベリの思想は結局何をいいたいのかよくわからんと。
実利を取れといったかといえば、「多様性」や「公共性」といった理想も随分と重視しています。
ということはマキャベリの思想には核となる部分がないのかという理解もしたくなるでしょう。
これについては諸説あるのですが、ひとつの有力な見方としてはこの矛盾したように見えるあり方こそ真の統治者の証なのではないかということです。
具体的にいうと時系列的には『君主論』→『ディスコルシ〜ローマ史論〜』と言われているのですが、マキャベリが『君主論』を書いた当時は優れたリーダーがいたかもしくは共和制に移行できない社会的背景があったものの、その後「共和制」というものに移行できる土壌が整ったという解釈があるのです。
つまるところ、もう一つ統治者として大事なことをマキャベリは伝えているのです。(これは完全に持論ですが)
それは、「内部要因」(いわゆる自分磨きの類)と同等かそれ以上に「外部要因」が人間の行動原理に関与するということです。
言い換えると「自分が変化していく」ということも大事ですが、「今起きている変化に目を向ける」というのが極めて重要なのです。
最後にまとめます。
マキャベリを「自己啓発」「ビジネス書」として読んでいくことは、少々短絡的な読み方になってしまいます。
『君主論』という短い書物を単純に読んではいけません。
マキャベリという天才の思想はその他のあらゆる書物も読んだ上で考えていくことが極めて重要なのです。
そうすれば『君主論』もまた見える景色が変わってきます。
小林秀雄という有名な批評家が『読書について』で下記のように述べているのですが、今回テーマにしていることとも深く関係しているでしょう。
一流の作家なら誰でもいい、好きな作家で良い。あんまり多作の人は厄介だから。手頃なのを一人選べば良い。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々なことを試み、色々なことを考えていたかが解る。彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなにたくさんの思想を犠牲にした結果、生まれたものであるかが納得出来る。
『読書について』小林秀雄(2013)中央公論新社 p12
欲を言えば全集や書簡まで読み尽くすべきだと小林はいうわけです。
私は個人的にこの言葉が好きで、好きになった著作家は全て読む勢いで読むようにしています。
そうするといわゆる「代表作」でどれほど限られたことしか語られていないか、一面的にしか読まれていないかが見えてくるのです。
マキャベリの思想も『君主論』以外からもみてみるといいのではないでしょうか。