洗脳
と聞くとどういう言葉を思いつきますか?
新興宗教のようなものをイメージするかもしれません。
ある宗教に所属する人を見て「あの人洗脳されているね」という人は多いでしょう。
ただこの「洗脳」というのはあなたにとって「珍しいもの」ではないかもしれません。
むしろあなたもまた洗脳されやすい人であり得るのです。
この記事を書くにあたり洗脳されやすい人の特徴についてどのようなことが書かれているのか見ました。
すると確かになるほどと思わせる記述が多数あるのですが、「テクニカル」な記述が多いのです。
例えば、寝不足にさせられるや一緒にいる時間がやたらと長くなるといったものがNaverでは書かれていました。
https://matome.naver.jp/odai/2134011537377232301
洗脳されやすい人の特徴の最大要因をズバリ答えて無いわけですね。
今日は、テクニカルに洗脳される人の特徴を書くつもりはありません。
自分こそは洗脳されないという人にこそぜひ読んでいただきたい試論を書かせていただいてます。
■目次
▶洗脳される人の特徴
▶洗脳されるとどうなるのか
▶洗脳されないためにはどうすればいいのか。
■洗脳される人の特徴
まずいきなりですが結論から書いていきたいと思います。
洗脳される人の特徴とは孤立した状況に置かれている人です。
つまり、誰もが洗脳されやすい人であり得るのです。
この考えに至った背景にはハンナ・アレントの『全体主義の起源』という本があります。
この本には、なぜ多くの人が大量虐殺を行ったヒットラーを支持できてしまったのかについてのとても偉大な分析が書かれています。
「おい!いきなりなんの話だよ」と言われるかもしれませんね。
お待ちください。大いに関係があるのです。少しだけお付き合いください。
一般的に誤解されていることとしてヒットラーというと権力を則った山賊や暴君のイメージがあります。しかし、アーレントが下記に述べたように、彼は民主的な手続きの中から生まれてきた人物です。ここに問題の根深さがあるわけです。
多くの人が彼の誕生だけでなく戦争終結直前まで存続を承認しました。
さて彼はなぜユダヤ人の大量虐殺を筆頭としたデタラメだらけの政権運営で誕生以来から高い支持を取り付けられ続けたのかを考えてみましょう。
一見今回のトピックと関係がなさそうに見えるかもしれませんが、
この問いを検討していくことで、実は今回の「洗脳されやすい人の特徴とは何か」という問いの回答にも少し近づくことができます。
早速アーレントの『全体主義の起源』をひきながら見ていきたいと思います。
アーレントは、ヒットラーの政治手法がいわゆる山賊が国を乗っ取ったような一般的なイメージとは全くもって異なることを述べます。
とかく陥りやすい指導者原理についての誤解の結果、人はとかく全体主義を誤って専制政治の意味に解するが、同様にまた人々は最高指導者と手を携えて権力の地位について<古い仲間>や<同士>というものを過大評価して、これがギャングもしくは徒党の政権であると得てして思いやすい。これもまた誤解である。私たちがヒットラー及びスターリンの独裁について知っていることはすべて、全体的支配にその大衆的基盤を与えている個人の孤立化とアトム化が指導部の最上層にまで及び、最高指導者はその最も近しいグループの間にすら同輩中の筆頭者として登場するのではないことを示している。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房 p171
ここにかかれていることについて咀嚼します。
アーレントは全体主義と専制政治を同一視することを誤解だと断言しました。
では、彼女の指摘する全体主義の特徴とはなんなのかというと「個人の孤立化とアトム化」を社会の隅々にまで至らせることということをあげています。
ここで冒頭にあげた孤独こそが洗脳へと人間を導く最大の特徴であると書いた結論につながります。
人々をとんでもない行動に取り組ませるには徹底的に孤立した状態(誰からも見捨てられた状態)に落とし込めばいいのです。
精鋭組織とその殺人行為が果たすべき任務というのは、運動全体を外部世界から・・孤立させ、すべてのメンバーに対し正常性への復帰の道を可能な限り閉ざしてしまうことなのである。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房 p115
孤立させれば洗脳しやすい状況を作り出せるの真意がここには書かれています。
また、アーレントはルターの言葉をひきつつ、孤立した状況にあっては個人にとって「論理」がその正否にかかわらず強力な影響力を持つと述べます。
ルターは、論理的推論の強制力はすべてのものに見捨てられた人間にのみ全面的な力を発揮できるのだということを理解した。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房 p298
人々を見捨てられた状態にすることそれが洗脳における最大の要件であり、これさえあればいかなる人もが洗脳されうるのだと彼女は述べているわけですね。
*ちなみに今ここにあげたルターというのはもちろん宗教改革でおなじみの人物ですが、彼がキリスト教の重要性にこだわったのは実は一般的に考えられているよりも深い意味があります。
彼やアウグスティヌスにとっては宗教の教義以上に、宗教の持つ「教会に人が集まる」といった特性自体が人々を孤立した状況から解放し、誤った行動をしづらくさせると考えていたのです。
■洗脳されるとどうなるのか
ここまで洗脳されやすい人の特徴を書きました。
私が意図したのは状況によっては誰もが洗脳されうるということをここまでで書きたかったのでありまして、孤立さえすれば誰もが誤った論理に身を委ねてしまうということです。だからこそ自分が大丈夫だとなんの臆面もなくいう人の方が余計に危ないと感じるわけです。
さて続いては、洗脳されるとどうなるのかという話に進みましょう。
これは一言で言えば自らの責任能力が失われるということをここではあげさせていただきます。
ここではアーレントのもう一つの代表作『イェルサレムのアインヒマンー悪の陳腐さについての報告』をひいていきます。
この作品はナチスの党員だったアインヒマンの裁判記録です。
アインヒマンはナチス党の党員としてユダヤ人の虐殺を指揮していた人の一人でした。
それについての彼女の分析が秀逸なのです。
なおこの作品について多くを書く紙幅はありませんので、アーレントがアインヒマンをどういう人物と捉えたかだけ書きたいと思います。
結論から言いますとアーレントはアインヒマンも含めナチス党の成員の多くが単なる凡人だったと述べました。
具体的には以下のように記録しています。
将軍たちのうちの一人はニュールンベルクで「あなた方は尊敬すべき将軍たちなのに、どうして皆あのように盲目的な忠実さを持って人殺しに支え続けることができたのですか?」と訊かれて、「最高司令官を批判するのは兵士のすべきことではありません。それは歴史か天なる神のすることでしょう」と答えた。・・・これよりはるかに知性もなく見るべき教養もないアイヒマンも、少なくとも自分たちすべてを犯罪者にしてしまったのは命令ではなく法律であるということはおぼろげに悟った。
『イェルサレムのアインヒマンー悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント(2017)p118
当初のイメージとは異なり、ナチス党員の積極的支持者と目された上層部ですら「極悪非道な人物」がいるというイメージを適応するのは非常に難しいと彼女は述べています。
彼女が彼らの発言から分かったのは「自らの行動に責任を持てなくなっている」ということだけでした。
自らに対する無関心さが途方も無い行動に導く、、、
そのようなまさに洗脳状態と言える状況がナチスの世界では完成していたことを指し示すものと言えますね。
まとめると、アーレントが著書を通して繰り返し述べたのはアインヒマンを極悪非道な人物と考えるのは間違いであり、そのように考えることは本質を見誤らせるということでした。
そして、誰もがアインヒマンになりうるのでありそれから目を背けてはならないと付け加えたのです。
これはもちろん今に生きる我々もまたいつなんとき洗脳されて途方も無いことをしでかすかわからないことを暗示しています。
■洗脳されないためにはどうすればいいのか
さて、ここまで洗脳されやすい人の特徴を少し一般的な論考とは異なる形で書いてきました。長くなりましたので少しまとめます。
一般的な論考では、テクニカルにある特定の人が洗脳されやすいかのようなテクストで論が進められます。世の中には「洗脳されやすい人」と「洗脳されにくい人」がいるかのようなカテゴリーわけをしているわけですね。
しかしながら、アーレントの考えを踏まえれば誰もが洗脳されやすい人物であるというのが私の見解です。
条件さえ整えば誰もが洗脳されやすい状況になるんです。具体的には人は孤立した状況にさえ置かれれば自らの責任能力を失いとんでもない論理に飛びついてしまうんです。
それを示したのが、ナチスの全体主義でありアインヒマンの裁判記録だということです。
そういうわけで洗脳されやすい人を減らすにはカウンセリングのような対処療法的ものではなく、社会において「孤立した人を作らないしくみづくり」こそが重要ではないかと考えています。
我々に残された時間はそれほど多くはありません。
多くの地方で人口が減少し、共同体の希薄な都市に孤立した個人が溢れかえっています。
かつては日本の成長力の源泉とされた共同体意識を育む日本がた雇用慣行も今は経済停滞の最大要因として解体を迫られています。
日本人が孤立化していく力学がいたるところで加速しているのです。
なんとかこの流れを止められるように一人でも多くの人が社会に関心を持つことが大切では無いでしょうか。
私もこのことを人生のテーマに起き続けたいと考えています。