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経済

新自由主義とは何か。

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昨今、よく取り上げられる言葉があります。それは今回タイトルに上げた「新自由主義」と呼ばれるものです。

 

「新自由主義」というと何やら聞こえは難しいですが、こういう考えをする人は結構な割合で社会にはいます。

 

 

例えば、仕事がうまくいかず困窮する人に「君の能力がないからだ」と理由づけをするような人をさして「新自由主義者」だと日本では言われます。他には、自分たちが経済的に成功している場合に、「それは俺が努力したから成功した」というような発言も該当するかもしれません。

 

本日はこういった冷酷とも言える新自由主義イデオロギーがどういったものなのかをミシェル・フーコーの『生政治の誕生』に依拠しつつ書いていきます。

こちらは、フーコーが大学で行なった講義をまとめたものですが、新自由主義について理解する上で非常に有益な一冊です。

新自由主義の土台が作られる場

改めてですが、昨今は生活に困窮する人などがその声を上げたときに救いの手を差し伸べるべきだというような意見より、その人たちに「甘えるな」「自己責任だろ」と畳み掛ける風潮があります。

 

随分と冷酷な社会になったものです。

 

しかもその言葉を吐くのが昔であれば手を差し伸べたであろう「社会的強者」から出てくるのです。

 

 

 

このような冷酷な立場を取ることがなぜできるのでしょうか。

 

あらかじめ私のこれに対する見解を端的に述べますと「新自由主義的」な統治実践が社会の至る所で主導権を握ったことにあるというものです。

 

 

この「新自由主義的な統治」というのがどういうものなのかを早速ですが見ていきましょう。

 

 

一言で言えば最大の価値を「市場」に置くイデオロギーです。

 

もちろん、市場自体は何も最近できたわけではありません。『遥か以前から統治実践の特権的対象であった』ものです。

しかし、20世紀の後半にかけて生まれてきた新自由主義は「市場」の取り扱いがこれまでと異なるのです。

 

 

その相違点は繰り返しになりますが「最高の」地位を「市場」に与えたというところにあります。

では、「市場」を頂点に据えると何が変わるのでしょうか。

 

 

フーコーによれば、それは「集団」や「社会」という観点から自由や平等の理念を最大化するのではなく、徹底的に「個人」という観点から「自由」や「平等」の最大化を目指し社会運営するようになるところにあるのです。

要するに問題は、社会保障によって個々人をリスクから守ることではなく、個々人に一種の経済空間を割り当てて、その内部において個々z人がリスクを引き受けそれに立ち向かうことができるようにすることなのです。

『ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)』ミシェル・フーコー(2008)筑摩書房 p178

 

これだけ聞くと冒頭の自己責任論のような話につながってこないように感じるかもしれません。

 

 

むしろ、徹底的に個人の権利を尊重するこのイデオロギーに魅力すら感じるかもしれません。

実際、この新自由主義という言葉は1970年代に反共や反社会主義のアンチテーゼとして生まれて来たと言われてたり、債務の膨張などが目立ち政治権力の非効率さを批判するために使われたと言われています。

 

しかし、コインには裏表があるのと同じように、社会を徹底的にバラバラの個人主体として考える新自由主義は「完璧」なものではありませんでした。

 

この新自由主義は我々に1つ過酷な要求をしたのです。

それはこの結果生じるリスクには社会は関知しないというものです。

 

 

 

自由主義者と新自由主義者の違い

 ここで、自己責任論の土台ともいわれる新自由主義についてもう少し深く理解するために、これまでに存在していた「自由主義」(オルドリベラリズム)との相違点をもう少し見てみましょう。

 

両者の違いは「市場」を社会のどこに位置付けるのかという点から区別できます。ここが新自由主義の理解においては非常に重要です。

 

まず、十八世紀のアダム・スミスなどの影響を受けた自由主義者はあくまで『市場という一つの自由な空間を一つの政治社会の内部においてどのようにして切り取り設置することができるのか』と考えていました。

 

一方で、新自由主義はそうではありません。

『政治権力の包括的行使を、どのようにして市場経済の諸原理に基づいて規則づけることができるだろうか』と考えたのです。

 

 

ここで両者の違いは大きく二つあることがわかります。

1つ目は、新自由主義者にとっては市場というものが社会の一部ではなく、社会の全てを従えるものとなっている点です。

 

 

 

そして2つ目が、(少々意外かもしれませんが)旧来型の放任することで現れる「自由」を期待するのではなく、積極的に政治権力の介入を行うことで、「市場」の領域を統治の全てに染み渡らせることを目指す点です。フーコーもここを度々強調しています。

 

 

これらのことから言えるのは、旧来型の自由主義者もあくまで「市場」においては冷酷だったのですが、それ以外の領域にまでそのスタンスを貫くことはありませんでした。

しかし、新自由主義者は「市場」の傘下にすべてのものを従え、社会領域の至る所で功利主義を蔓延させるのはもちろん国家権力が介入することが嫌悪されるどころかそのような状況を作り出すために積極的に関与することが称揚されるのです。

 

新自由主義的考え方に歯止めをかけるには

 まとめると、昨今登場した新自由主義者の正体とは、社会の内部におけるいかなる領域でも「市場」の論理を最優先にして考える人だということになります。

 

そしてそのような社会が実現するために、旧来の「自由放任」ではなく、むしろ積極的な権力の介入を求めるのです。

 

ここまで概念的な話が中心でしたが、このような新自由主義のあり方は現実世界ではどのように現れるかを最後に見ましょう。

それは、身近な例で言えば、「民営化」や「規制緩和」を叫んでいる人です。

 

徹底的に社会領域の至るものを利益追及主体に解放しろというものです。

実は、新自由主義的統治が最初に実践されたと言われるアメリカでは刑務所まで民営化されています。

 

その徹底ぶりはさすが生みの親と言わざるを得ません。

 

 

しかし、この新自由主義的統治は他人事ではありません。

 

日本も刑務所まではいっていませんが市庁舎を民営化しようとしたり、水道事業を民営化しようとしたり、保育所の民営化をしたりと新自由主義的な流れが止まりません。役所の職員が某派遣会社からの非正規雇用者で溢れかえっているというのも以前話題になりましたが、「公務員」まで民営化しているのです。

 

 

このような民営化の流れですが、結果は結構悲惨です。

今あげた保育所がわかりやすい例ですが、採算が取れずある日突然倒産して受け入れを拒否されるというようなことが社会問題化していました。

 

保育が明日からできないといわれ、金を持ち逃げされるというのは親御さんからしたらたまったものじゃありません。

しかし、これが民営化の帰結なのです。

 

 

新自由主義者は別のサービスプロバイダーを探せというだけでしょうけども、本当にそれでいいでしょうか。

このような不確実性が社会生活の至るところで起きるようなところでは安心して暮らせたものではありません。

 

その不安から逃れられるのはごく一部の億万長者だけです。このような社会が許された良いわけがありません。

 

 

 

フーコーはまさにこのような未来を予見していたようなことを著書の末尾で述べています。

それは、市場を中心にあらゆる判断を行うのは、自らが所属する社会を危うくするというものです。

 

皮肉にも規律や規制が存在した時代の方が「自由の時代」だったのではないかというわけです。

 

私が十分に強調しておいたとおり、あの大いなる規律の技術、すなわち、個々人の行動様式をその最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしての規律の技術が、発達し、急成長し、社会を貫いて拡散するのは、自由の時代と正確に同時代のことでした。

『ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)』ミシェル・フーコー(2008)筑摩書房p82

 

このような新自由主義の流れに歯止めをかけなければ、今後社会はますます分断が進むでしょう。

しかし、恐ろしいのがこのような我々の多くが困ることをする政治権力をなぜか支持してしまうというここ20年近くの世論です。

 

新自由主義を「誤り」だと考えなければ、これからさらに社会不安が至る所で発生する社会ができてしまうことでしょう。

 

 

こくち

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