本日はネオリベという昨今日本社会に蔓延する思想について書かせていただこうと思います。
この記事を書こうと思った背景はネットでも話題になった下記のような記事がきっかけです。
先日の台風19号が関東一帯を襲った時、ホームレスが役所に避難してきたら受け入れを拒否されたと云う件です。
この一件がなぜ話題になったのかというと「ホームレスを受け入れるべきか受け入れないで良いか」というところで意見が別れたからです。
興味深いのは、ホームレスを受け入れるべきだという考えよりも、下記のような意見が支持されていたのです。
「ホームレスは匂いがきついから受け入れないのは仕方ない」
「ホームレスを受け入れろというやつはいざ自分がその状況に居合わせたら同じことは言わないだろう」
「左翼は綺麗事ばかり。私が避難所にいたらホームレスは来て欲しくないな」
なるほど、「ホームレスを受け入れるべき」というのは綺麗事であり、実際その場に居合わせればそんなことは言ってられないはずだということですね。
そのせいもあってか「理想と現実は違うんだ。現実を見ろ」と言いたげな大人たちで溢れていました。
さて、本記事はこのような自称リアリストに対して、物申すことを念頭に置いております。
このような昨今社会に蔓延している自称リアリストはネオリベ思想の一番汚い部分を携えていると私は考えています。
「ネオリベ」という言葉の意味
まず、「ネオリベ」という言葉にあまり馴染みの無い方向けに簡単にですが、この言葉が意味するところを書かせていただきます。
「ネオリベ」というのは、日本語で「新自由主義」と呼ばれるものです。
新自由主義という思想は1970年以降のアメリカとイギリスで生まれて来たものと言われています。(レーガノミクス等)
一般的には「政府の介入を極限まで0に近づけ、市場のなすがままにしておくのが一番良いのである」とする考え方です。
この思想が誕生した背景には、第二次大戦期にナチスやスターリンを筆頭に国家が社会の全てを管理しようとした結果多くの悲劇が生み出されたことから生まれました。
特にその論陣を先導したのがフリードリヒ・ハイエクです。
ハイエクは国家による社会への干渉を「停滞」と位置付け、その度合いが薄かった時代を「進歩」の時代であったと幾度となく述べていることは有名です。例えば下記のようなところにも垣間見えます。
近代社会の構造が、計画的な組織が達成しえたものをはるかに超えるあの複雑さの程度を達成しえたのは、それが組織に依存していたからでなく、自生的秩序として成長してきたからである。近代社会の構造が、計画的な組織が達成しえたものをはるかに超えるあの複雑さの程度を達成しえたのは、それが組織に依存していたからでなく、自生的秩序として成長してきたからである。
『法と立法と自由』フリードリヒ・ハイエク(2007)春秋社 p51
ハイエクは「自生的秩序」という有名な言葉を残しています。
この言葉にネオリベ思想の本質が現れています。
無意識に人類が生み出して来た秩序が、人間が人為的にコントロールしようとして生み出した秩序をはるかに凌ぐクオリティをもつのだと考えますからね。
では、果たしてそうなのかということが考えるべきポイントです。
「ネオリベ」が批判されるべき理由
では、このファシズムや全体主義の反動として生まれて来たネオリベ思想はどのような問題があるのかについて書かせていただきます。
これは、ミシェルフーコーの考えを参照するのが良いと考えているのですが、一言で言えば、全ての社会領域を「市場(マーケット)」に隷属させる点にあるのです。
私が示そうとしたのは、新自由主義にとっての問題が、市場という一つの自由な空間を一つの政治社会の内部においてどのようにして切り取り設置することができるのかというような、アダム・スミス型の自由主義、十八世紀の自由主義の問題と、完全に異なるということでした。新自由主義の問題、それは逆に、政治権力の包括的行使を、どのようにして市場経済の諸原理に基づいて規則づけることができるだろうか、というものでした。
『生政治の誕生』ミシェル・フーコー(2008)p163
これにより何が起きるかというとゲスな言い方ですがあらゆるものを「貨幣に換算することができるかどうか」という観点からのみ評価するようになるのです。
そのスコープは「人間」に対しても向けられます。
「あなたという個人はどういうマーケットバリューを出せるのですか?」と常に問いかけられ続けるのがネオリベの本質なのです。
社会政策の個人化。社会政策によるそして社会政策における集団化および社会化に代わるものとしての、社会政策による個人化。要するに問題は、社会保障によって個々人をリスクから守ることではなく、個々人に一種の経済空間を割り当てて、その内部において個々人がリスクを引き受けそれに立ち向かうことができるようにすることなのです。
『生政治の誕生』ミシェル・フーコー(2008)p178
この評価法は究極的には「社会」という概念を喪失させるとフーコーはここで述べています。
個々人にあくまで最低限経済活動をする空間のみ与え、あとは丸投げという話ですね。
ここで冒頭のホームレスの話に戻ることができます。
ホームレスを受け入れることに対して役所が拒否したという件について「それは致し方ない」と考えた人は漏れなくといっていいほどネオリベ思想に支配されているということがお分かりいただけるでしょう。
「受け入れられないあなた(ホームレス)が悪い」と本音が見えてしまっています。
どの人にも分け隔てなく接し、リスクを社会で分担しましょうという福祉国家的な考えであれば、「受け入れるか受け入れないか」という議論はしません。
「受け入れる」という前提のもと、他の人との兼ね合いも考えて「どのような形で受け入れるか」を議論するはずなのです。
「ネオリベ」が生み出す自己責任論的考えはクズ
社会が不安定になったり、分断されたりすると、ついつい自分のことしか見えなくなるものです。
そして、周囲の人々が「競争相手」「敵」と考えてしまいがちです。
しかしながら、そのような発想こそがすでにネオリベ的なマーケット原理主義者に足を突っ込んでいると言って差し支えないでしょう。
これは、制度経済学というジャンルで盛んに言われていることですが、我々のほとんどはマーケット原理主義者がイメージするような「自己責任」でなど生きていけません。
個々人は行動するにあたり常にと言っていいほど「集団」で行動します。
会社・家族・労働組合・地域共同体・親子など挙げれば枚挙にいとまがありません。
ネオリベ思想というのは現実を見ることができなくなり、いつか理想の世界が出来上がると空想の中に浸っているという点においてマルクス主義者(共産主義)と同じです。
その自己認識が多くの人から欠落しているからこそ、マルクス主義が結果的に巨大な格差と多くの市民の犠牲を生み出したのと同様にネオリベも同じ帰結を招くことは避けられないのです。