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三谷幸喜監督の最新作『記憶にございません』はどこが面白いか?

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金曜日から全国の映画館にて公開されている三谷幸喜監督の『記憶にございません』を見てきました。

主人公の中井貴一さんはもちろんその他にも俳優の名前には疎い私でも知っているような豪華キャスト陣で構成されている映画です。

 

そういうこともあってかこの映画の存在自体はご存知の方も多いでしょう。

 

実際に映画館に行くと、自分の上映会は見事満席でした。

本日は、この映画を見てきた感想を書かせてもらいました。

 

ぜひ映画を観に行こうか検討中の方にご覧いただければと思います。(ネタバレは割愛してます。)

『記憶にございません』のあらすじ

まず、ざっくりとどんな映画かについて少しだけ紹介をします。

 

憲政史上最大のダメ総理大臣と言われる黒田首相が物語の主人公です。

 

どれほどダメかというと、自らのスキャンダルもさることながら、国会軽視を貫き法案に関しては強行採決だらけなのです。

その結果もあり支持率は2%程度しかありません。

 

 

しかし、当人は意に介さずで、国会では質問にまともに答えず「記憶にございません」を連呼して国会追求を乗り切る毎日です。

 

 

そんな黒田首相はある日の演説で怒り狂う聴衆の一人から石をぶつけられます。

そして、それが原因で記憶をなくしてしまうのです。

 

 

目が覚めたときには家族の顔や名前すら忘れているというほど深刻なものでした。

 

 

そんな状況ですから、彼は政治家としての職務を全うすることはできないと側近に訴え、職を辞する考えを示します。

 

 

しかし、ここで彼の側近たちの色々な思惑もあって説得され、記憶喪失を隠しながら総理大臣を続けることになります。

 

 

 

この記憶喪失のまま総理大臣を続けるということが主人公黒田の人生だけでなく日本の方向自体も180度変えるというのが同映画最大のエッセンスです。

 

 

というのも、彼は自らの知りたいという気持ちに任せて記憶喪失前の自分について聞く中で、自分がとてつもなく横柄で私利私欲にまみれたダメ人間だったと知る一方で、記憶喪失のおかげで一切のしがらみも悪徳も消え失せ0からやり直せるようになったからです。

 

 

0からやり直す決心をした黒田は純粋に国民のための政治をしようとします。

その結果、これまででは考えられない行動をいくつもとり周囲を驚かせるのです。

 

 

最終的には、黒田の行動変化により側近や国民からの信頼を取り戻す第一歩を描いたところで物語は終わります。

 

『記憶にございません』が伝えるメッセージ

要するに、『記憶にございません』という映画は、記憶喪失というトリガーをきっかけに人生がかわり、悪行の限りを尽くしていた総理大臣が国民のために働くようになるという仕立てのストーリーなのです。

 

この映画は非常に多くのメッセージを含んでいました。

これはあくまで私の主観ですが、フィクションでありながら、現実の政治で実際に起きていることを描写しているようにしか見えませんでした。

 

つまり、現実の政治に対して三谷幸喜のメッセージがいくつも含まれていたのです。

 

 

例えば映画の中では主に下記のような政治的メッセージが描かれていました。

  • 法人税を引きさげながら消費税を引き上げるな
  • 大企業を優遇すれば国民が豊かになるという嘘をつくな
  • アメリカ追従の貿易交渉をやめろ
  • お友達の事業者に便宜を図るな
  • 官房機密費を私的利用するな

 

まるでどこかの国で現在進行形で起きていることです。

国民の生活がなぜか最も優先されず、権力を持つものが好き放題やっています。

 

 

しかし、監督は賢明にもこれを直接的にいうと「左翼だあ」と騒ぐ集団がいることを見越していたのかもしれません。

それが表に出過ぎないような仕立てが施されていました。

 

 

ちなみに、こういった政治風刺を喜劇として描くのはチャールズ・チャップリンが有名ですが、今回の三谷幸喜作品はそのチャップリンに負けず劣らずのものだったのではないかと考えています。

 

 

主人公の黒田は記憶を失う前も後も「バカ」キャラなのですが、なぜか記憶喪失の後は周囲から好意的に受け入れられていきます。

これは政治家に最低限必要なことについて監督が伝えようとしたかったことが明確に読み取れます。

 

 

良い政治家であるためには、高度な知識や技量などを持ち合わせている必要はなく、義務教育レベルの知識と後は「良き志」だけあればいいのだということです。

 

 

それを裏付けるように、作中では総理より頭のいい人はたくさん出てきます。

しかし、そのほとんどが自らのためにのみ使っているのです。

その結果、国民のほとんどにとって役に立たないことばかりが進行するのです。

 

 

このメッセージは随分と当たり前のことを訴えかけているようにも感じるかもしれません。

しかし、「国民のために政治をしよう」と考える政治家の誕生が物珍しく感じるほどに我々が政治に絶望していることをこの映画は教えてくれていたように思います。

 

 

映画とは何かー芸術史における特異な位置付けー

余談ですが、最後に「映画」というものの芸術における立ち位置について少しだけ触れたいと思います。

 

 

「映画」というのは「芸術」の一ジャンルですが、実はこの表現形態が歴史的に大きなマイルストーンであることをご存知でしょうか。

 

 

そのことについてヴァルター・ベンヤミンという20世紀の哲学者が『技術的複製可能性の時代の芸術作品』の中で記しています。

 

 

端的に言えば、ベンヤミンは映画を「技術的複製可能性」(コピーしうる)をもつ新時代に現れた特徴的な芸術だと述べたのです。

 

 

これは、映画とそれ以前の芸術を比較することでわかります。

 

 

複製技術誕生以前において芸術の定義は「いま、ここ」という特性にありました。

これはつまり、『一回的なあり方』こそが芸術の最大の特徴だったということです。

 

 

実際、多くの彫刻などが世界内においてそこにしかないということが「権威」を生み出す原動力となり、多くの人々を膝まづかせていました。

 

 

しかしながら、複製技術の誕生はそういった「芸術」の定義をひっくり返してしまいます。

 

ここで、芸術自体がコピーされることを前提としたものへ変容したとベンヤミンはいうのです。

 

 

その新時代の芸術を代表するものとして彼があげたのが「映画」でした。

 

 

「映画」は見るものに「一回生」による権威など期待するどころか、むしろ複製されたフィルムでより広く見られることを望みます。

そして、そうすることで「価値」が認められたと作り手も考えるのです。

 

 

 

ところで、なぜ「複製」がなされることを「映画」は求めるのでしょうか。

 

それは大衆の側に特定の「メッセージ」を受け取るように仕向けるという「政治性」が複製技術誕生の時代における「芸術」のあり方だからだとベンヤミンは考えています。

 

 

実際、複製技術誕生して間もない頃には『公衆の憤激をかきたてる』ことを狙っていくつもの作品は作られていたと彼は著書の中で述べています。(映画に限らず、ダダイズム芸術などがこれに該当する)

 

で、なんでこの話をしたかったのかですが、「大衆に対してある考えや行動を促すものが今の多くの芸術(映画はその筆頭)の性質だ」ということを念頭に映画を見るとより深く楽しめるのではないかという提案をしたかったからですね。

 

もちろん純粋に特段考えることなく見るというのもひとつの楽しみ方として正解だと思います。

しかし、「映画」という芸術の特徴を踏まえて見て見ることも悪くありません。

 

そう考えるのは「うがった」見方ではないのです。

 

 

p.s

ちなみに私個人は今回の映画の総理大臣は安倍総理よりも菅元首相に似てるなあという印象でした。

 

 

こくち

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