仕事について

働く理由のない人でなぜこの世の中は溢れているのか

更新日:

多くの人々にとって人生の多くを費やす「働く」ということ

 

 

このことは朝起きて命令されることもなく会社に向かう我々自身のことを思い返すだけでいいでしょう。

 

 

それほどまでに習慣的に働いているわけですが、あなたは「なぜ働くのか」と問われてその理由を答えられますか?

 

 

 

「世の中の役に立つから?」「楽しいから?」「生活するため?」

 

おそらくいろいろ理由があるでしょう。

そして、もちろんその理由は一つではないでしょう。

 

 

 

ところで、世の中の人はどう考えているのだろうとこの文章を書くにあたり気になりましたので、あらかじめいろいろ調べました。

すると多かれ少なかれ下記のような調査結果でした。

 

『仕事・職業についてのアンケート・ランキング』nifftyニュース

http://chosa.nifty.com/job/chosa_report_A20141031/3/

そうなんです。

「生活するため」に働いているのです。

 

複数回答可ではあるものの、「生活費・老後の蓄えを得るため」という項目が圧倒的に一位なのです。

全世代の8割程度近くがチェックを入れていることが’興味深いところです。

 

 

 

これを見ていると多くの人々は「生きるために生きている」という状況にあると言ってなんら言い過ぎでは無いとさえ私は思いました。

というのも「生活の糧のために働くこと」は一見「理由」のように見えて、実はすぐに手段に転化することから本当の意味での「働く理由」とは言い難いからです。

 

ですのでこの調査結果は別の角度から解釈すると働く理由がわからない人が世の中には溢れていると言ってもよいでしょう。

 

この時点ですでに一筋縄ではいかない難しい問題であることは明らかですが、今日はなぜ現代人は「働く理由がわからないのか」ということを考えてみました。

 

■目次

■「生きるために働く」人が量産される前の時代
■なぜ「生きるために働く」人が量産されたか
■働く理由がわからない人へ

■「生きるために働く」人が量産される前の時代

まず誤解なきように申し上げますが、すべての人が「働く」という行為を行うときそれは少なからず、「生活の糧を得るため」という側面があることは否定しません。一部にはそれを含むと思います。

 

ただ、現代と少し昔の時代では個々人にとって「生きるために働く」という項目の強度が違うのです。

 

ハンナ・アーレントという思想家がいるのですが、彼女は現代の働く人と少し前の働く人を対比して以下のように述べました。

概して彼らは、仕事の生産性というのは、有益性にあるのではなく、むしろ、耐久性を生む仕事の能力にあることに十分気づいていたからである。

『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)ちくま学芸文庫 P271

*ここでいう「彼ら」は、職人的なものをイメージしていただけると幸いです。

 

彼女は『人間の条件』という著書の中で「労働」と「仕事」という言葉を意図的に使い分けました。

それを通して現代と昔では「働く」の性質が根本的にひっくり返っているということを指摘しようとしたのです。

 

 

彼女によると、「生命過程の維持」が主目的の労働とは異なり、あくまで旧来の働く人々はその多くが「世界」に耐久性を生み出すことに主眼を置いていたとのことです。

 

あくまで何か新しい世界を生み出すために目の前の作業に当たるというのが従来の働く理由だったのです。

(もちろん昔も労働はあったことは否定しません。)

 

しかしながら、「労働」が少数派だった時代が終わりを迎え、圧倒的多数派を占める時代がやってきます。

 

いったい何が起こったのか?

 

 

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■なぜ「生きるために働く」人が量産されたか

その答えの一つとして社会構造の根本的変化というものがあります。

近代以降とそれ以前とでは「分業制」の徹底ぶりが違うのです。

 

 

多くの人が集団で分業をすることで、昔はごく一部の人にしか作れなかったものや一人ではとても作れなかったものを社会は大量に勝つ低価格で生み出せるようになりました。

 

一般論で言えば、「豊か」になったのです。

古典経済学の権威であるアダム・スミスもカール・マルクスもその「労働」が持つ生産性を絶賛しました。

近代において労働が上位に立った理由は、まさに労働の「生産性」にあったからである。・・その上、スミスやマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり、実際上は一種の労働の歪曲に過ぎず、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称には全く価値がないとして、それを軽蔑していた。

『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)ちくま学芸文庫 P140

 

一方で、たくさんの富が生み出されたのと引き換えに多くの人々は大切なものを失うようになりました。

分業制にも弊害があったということです。

 

 

それが今回書いている「働く理由」の喪失です。

働く理由がわからないという状況に置かれるようになったのです。

 

 

大規模な工場、大規模な工事現場、大規模な会社、、、

 

そういったところで生み出される富は昔では想像もつかないレベルで世の中を「発展」させました。

しかしながら、そこで働く個人は「もはや自分が何をしているのかわからない」という状況に置かれるようになったのです。

 

 

こういう話をすると以下のような反論が来ることが多々あります。

 

「自分はなぜ働いているのかわかっている」

「それは昔の話」

「うちの会社はそうじゃない」

 

 

しかしながら、誤解を恐れずに言えば、そのような意見は「少数派」でしょう。

一般論として今世の中でアーレントの下記の言葉に該当しないで働けている人がたくさんいるのか考えてみて欲しいのです。

実際、背後に何も残さないということ、努力の結果が努力を費やしたのとほとんど同じくらい早く消費されるということ、これこそ、あらゆる労働の特徴である。しかもこの努力は、その空虚さにもかかわらず、強い緊迫感から生まれ、何物にもまして強力な衝動の力に動かされている。なぜなら生命そのものがそれにかかっているからである。

『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)ちくま学芸文庫 P140

 

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■働く理由がわからない人へ

最後に働く理由がわからない人へ一言だけ書こうと思います。

タイトルを見て何かここで「〜すべきです」みたいな答えを期待していましたでしょうか。

 

もしそうであるならばその期待には答えられそうにはありません。

なぜなら、社会構造がここまで分業を徹底したものになると救いようが無いのです。

 

それほどまでに絶望的な状況に我々はいるのです。

 

我々は「社会の発展」というもののために犠牲となることを仕組まれたのです。

シモーヌ・ヴェイユという思想家も同様のことを述べています。

肉体労働の非常な苦痛は、ただ生存するというためにだけこんなにも長時間の努力を尽くさねばならない位という点にある。

 何かの幸福のためではなく、必然に迫られて、ーなにかに引かれてというのでなく、むりにも押しやられて、ー今あるがままに自分の生存を保ち続けるために、ー努力すること、それは常に奴隷であるということだ。

 この意味で、肉体労働者が奴隷であるということは、どうしようもない事実である。

 究極の目的なしの努力。

『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ (1995) ちくま学芸文庫 Kindle版のためページ割愛

 

ヴェイユは「肉体労働」に限定していますが、私はこのことは今やすべての労働に当てはまると思っています。

 

こういった悲惨な状況では、マルクスが述べたように共産党宣言でもするか、ヴェイユのように神に救いを求めるか、ブルーム卿が述べたようにブルジョアになるかくらいしか無いでしょう。

 

ですので安直な考えが好きな人は『共産党宣言』とか『金持ち父さん貧乏父さん』とかでも読んでください。

 

ちなみに私はというと、「どれもなんか嫌だなあ」という立場です。対案が無いんです。

我々に本当に救いはあるのか日に日に疑わしくなる今日を私は生きています。

 

 

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