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ハンナ・アーレント『全体主義の起源』を解説してみた

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今日も一冊本を紹介する記事を書かせてもらいたいと思います。

 

本日取り上げますのはブログの方でも度々引用しておりますハンナ・アーレントの『全体主義の起源』となります。

 

こちらはナチスやスターリンの大量虐殺をもたらした全体主義を紐解いたという意味で20世紀の記念碑的著作とも言われています。

 

 

しかしながら、『全体主義の起源』をナチスやスターリンのような過去の君主を見返す歴史書で読んでほしくありません。

 

これらは単なる一例であり、そういったものを増長させる我々の社会について考察しているものなのです。

つまるところ、そういった危険な政治を増長させるものを考察しなければまた同じようなものが生まれてくることは避けられないのです。

 

ということで今日は、『全体主義の起源』のエッセンスを一部ではありますが、ご紹介しつつ本を手に取る足がかりとなれば幸いです。

 

*少し前置きをしますとこちら3分冊で合計1500ページくらいある大著です。そのため要約しようにも字数の関係で限界がありますので、今回はエッセンスを最も明確に記している『全体主義の起源3ー全体主義ー』を取り扱います。『全体主義の起源1ー反ユダヤ主義ー』『全体主義の起源2ー帝国主義ー』についてはまた機会を見てご紹介いたします。

 

■全体主義の起源〜階級社会の崩壊〜

まず、アーレントは「全体主義」というホロコーストも含めた悲惨な結末を生み出した最初の第一歩に「階級社会の崩壊」を上げています。ここは非常に重要なところです。

 

しかしながら、このことは意外に思われるかもしれません。

といいますのも今日においては実質的にはどうかはともかくとして階級というものを意識して生活を営んでいる人は少ないからです。

 

しかしながら、逆に言えば階級社会の崩壊が実現している今の我々の世界はもうそれだけで全体主義を増長させやすい土壌ができているとも言えるのです。

 

ハンナ・アーレントは『全体主義の起源3ー全体主義ー』の一説で下記のように述べています。

これに対し全体主義運動は、いかなる理由からであれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能である。大衆は共通の利害で結ばれていないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識を全く持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験しともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体・・・・労働組合・・・などに自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。

『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1974)みすず書房 p10

少し長いので補足します。

彼女によれば全体主義というのは大衆が存在する社会においては容易に発生するものです。

日本も例にもれません。

 

では、ここでいう「大衆」というのはどういうものだとアーレントは考えているのでしょうか。

アーレントの定義によれば「なんらかの利害で周囲とつながりを持っておらず、バラバラな個人の集まり」とのことです。多くの人はいるけど、それぞれがつながっていないというのは今のマンションなんかがそのイメージに近いですね。

 

 

ところで「階級」というと言葉はなんだか悪いですが、アーレントの言っている「階級」という言葉はもう少し広い意味を持っていることがお分かりいただけるでしょう。

今日的に言い換えると「共同体」や「コミュニティ」と読み替えた方がいいかもしれません。

 

要するにアーレントの考えを要約すれば、階級社会(共同体)が崩壊してバラバラな個人として散らばっている大衆社会においては人々がなんらかの公的の利害で突き動かされることは無くなった結果、とんでもないもの(全体主義運動)ものに加担してしまうということなのです。

ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的には全く無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が馬鹿か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。

『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1974)みすず書房 p10

それゆえに人と人を繋げている階級社会(共同体)の崩壊は全体主義の起源であると彼女は述べているのです。

 

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■全体主義の起源〜大衆運動〜

ただ、階級社会の崩壊で「大衆」が発生したからといってすぐに全体主義が完成するわけではありません。(もちろん起源の一つではありますが)

アーレントのテクストを追いかけていくと全体主義が完成するには「バラバラな個人である大衆」が全員同じ方向を向くための仕掛けが必要になります。

 

その結束力を生み出すものが何かというと「世界観」です。(ストーリーという言葉も近い)

彼女はナチやスターリンを引き合いに「世界観」を生み出す首尾一貫性こそが全体主義の土台として極めて重要であると述べています。

ナチはそのエリートに対して「すべての世界観的な問題における究極的な首尾一貫性」以外の何ものも求めなかったし、スターリンの証言によれば、聞き手をその「強力な触手でやっとこのように抱え込み、聞き手が動けないように」させたものはレーニンの演説の内容でも弁舌の才でもなく「彼の論理の抗い難い力」だった。

『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(2017)みすず書房

ある抗しがたい世界観に人々を動員すればあとはもう自転車をこぎ続けるようにずっと走り続けることができます。だから全体主義「運動」なのです。逆に言えば、止まることは全体主義の終わりを意味します。

 

 

ここで一つ補足しておかないといけないのですが、この大衆を紐付ける「世界観」というものはリアリティを欠いた、いや誤解を恐れずに言えば「嘘」なのです。なぜ「嘘」と言えるのかというとアーレントの言葉を借りれば「政治とは複数性を前提とするもの」だからです。

複数性というのは色々な個性を持った人が溢れていることを指します。

 

つまり、複数性を前提とする現実の政治においてひとまとめにすることなど無理なのであり、それを無理やりねじ込むには「嘘」を使ってそれで騙すしかないのです。

 

しかし、「嘘」であろうとも大衆が巻き込まれるのには理由があります。

それが前章の「階級社会の崩壊」とつながってくる部分になるのですが、平たく言えば人間は「見捨てられた状態」に耐えられないからです。

疑いもなく全体主義運動はそれ以前の革命的な政党や運動よりもラディカルに既成の諸関係に戦いを挑んだ。・・・勿論この過激性の原因の一半は、根無し草と化し現状の存続を何にも増して恐れている大衆の心の底に潜む熱望にある。

『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1974)みすず書房 p106

階級社会の崩壊でバラバラになった個人にとっては何よりも孤立したその状況こそが恐ろしいのであり、その解消のためなら巨悪にでも加担してしまうということをここでは書かれているのです。

 

「嘘」でないと一つにまとめ上げることなどできません。

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■全体主義の起源〜統治の手法〜

こうして大衆が一つの川の流れに押し寄せるかのような状態にまとめ上げることに成功すればあとは放っておけばいいのかというとそうではありません。

 

その「世界観」が崩れないよう<指導者>がいろいろな努力をする必要があります。

具体的には「敵を作り出す」ということが重要になってきます。

 

呉越同舟という言葉があります。

ある壮大な脅威に出くわした時に普段は不和である人間同士が協力関係になるという有名な諺ですね。

これと同じ力の原理で全体主義においては敵をでっち上げることを継続して行います。

敵をでっち上げてぶっ叩いたら次の敵をでっち上げる、、、その繰り返しを行うのです。

<客観的な敵>という概念の導入は、全体主義体制が機能するためには、誰が現時点での敵であるかをイデオロギーに基づいて決定することよりも重要である。単にユダヤ人もしくはブルジョワを絶滅するというだけのことだったら、全体主義的支配はただ一度巨大な犯罪を行った後に正常の生活と正常の統治方法の日常性に復帰するものと一応考えてもよかろう。周知のように事実はその逆なのである。<客観的な敵>が誰かということはその時その時の事情によって変る・・・が、この概念は全体主義的権力者が繰り返し言明している次のような事実にぴったりと適合する。すなわち、彼らの体制は古来の意味での統治ではなく、一つの運動であって、その前身は当然ながら常に抵抗にぶつかり、それらの抵抗を絶えず除去していかねばならないという事実である。

『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1974)みすず書房 p202

常に敵を作り出し続けることが全体主義存続において極めて重要であるとここでは書かれています。なぜなら、仮に敵が一つしかいないのであれば、倒した日にはあるストーリーが終焉を終えてしまい運動が解体されまたバラバラな個人に戻ってしまうからです。支配が終わってしまうわけですね。

 

ですから、敵を作り出してぶっ倒し、また敵を作り出すというそのこと自体が「統治の手法」になるのが全体主義なのです。

それこそナチスの全体主義運動は敗戦がなければすべてのユダヤ人を殺害するまで起こっていました。ちなみに当時のナチスはユダヤ人だけでなく終戦近くの時にはポーランド人なども敵としてでっち上げていたため徐々に過激になるというのは言うまでもありません。

 

さて、ここで10年の日本の政治を思い返してみましょう。

小泉内閣ができて郵便局を敵としてでっち上げて攻撃を仕掛けました。プレーンの竹中平蔵は正社員を既得権益とでっち上げ攻撃を仕掛けました。

 

いいことがありましたか?

 

次は民主党に政権交代をしました。

官僚を敵にでっち上げ政治主導を進めると言いましたが、何かまともなことが実現したでしょうか。

 

大阪の維新の会ができました。

既存の議会や大阪市自体を敵にでっち上げてCMなどで嘘を流しまくりました。

結果何が改革されたのでしょうか。

 

 

都民ファーストの会ができました。

小池百合子が自民党を敵にでっち上げ選挙で大勝しましたが、あの熱狂にかなうものだったでしょうか。

 

まあいろいろあるのですが、敵をでっち上げようとする政治家というのは信頼が置けないのです。なぜなら、彼ら・彼女らのやり方はアーレントが『全体主義の起源』で述べた全体主義的支配そのものだからです。

 

ある一つのためにその他の全てを破壊することも厭わないし、目標完遂のために嘘をつくことも厭いません。それが社会として望ましいわけはないのですが、ここ10年以上同じことの繰り返しです。

 

もちろんこれらの政治家は批判されるべきですが、全体的支配はあくまでここまで述べたように大衆の熱狂を必要とします。それゆえにこういったものを担ぎ上げている我々の社会は反省が必要なのです。

 

ある世界観に飽きたら別の世界観に飛び移る人々の移り気なあり方はとても褒められたものではありません。

 

今こそ『全体主義の起源』に目を通し冒頭に述べたこういった全体主義的支配を増長させているものについてより考察を深めてみませんか。

 

以上となります。

ご覧いただきましてありがとうございました。

 

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