- 日本人は個性が足りない
- 日本人は個性を否定しすぎる
- 日本人は個性を身につけないとこれからの時代はダメだ
日本という国では上のように「個性のない国」だと言われます。
そして、それがあらゆる日本批判に用いられるというのはおきまりのパターンです。
「グーグルやアマゾンなどを見ろ、シリコンバレーという個性を尊重する文化から生まれてきた。なのに日本人は正社員や会社の看板にぶら下がって情けない。」といったような話は壊れたオルゴールのごとく聞いたことがあるでしょう。
そこで、本日はきになる「個性の見つけ方」はお話ししつつ、我々が「個性」ではなく本当に求めているものについて書かせていただきます。
個性の本質
そもそも「個性」とはなんぞやという話から入っていきたいと思います。
これは端的に言えば「差異」という言葉で表すことができると私は考えています。
もっとありふれた言葉で言えば「違い」ですね。
社会の中で「違い」を感じる人がいたときそれを「個性」と言います。
- 個性的なファッション
- 個性的な人
- 個性的な作品
- 個性のあるプレースタイル
こういった言葉を使うときを思い出せば、「個性的」という言葉が社会の中の「その他」と違うときに使う言葉だということに異論はないでしょう。
さて、この「違い」は何によって形成されるのかというと私は大きく二つの観点からあると考えています。
個性の見つけ方①〜「消費」という活動を通して〜
まず一つは「消費活動」を通して行うアプローチを上げることができます。
先ほど「個性的なファッション」ということを言いましたが、例えば服装のチョイスなどで我々は「個性」を獲得することが可能です。
極端な例を挙げると小林幸子の紅白の衣装がありますがあれは「個性」の塊でしょう。
誰もが「個性的」になれるのは間違いありません。
しかし、ここであることに我々は気付かされます。
それは「個性」は個性でも自分にとって嬉しいものと嬉しくないものがあるということです。
その例は今の小林幸子のドレスを着るかどうかを考えれば十分でしょう。
おそらく「嫌だ」と即答するでしょう。
他に例を挙げるなら鼻ピアスとかモヒカンとかでもいいんですが、それをやれば個性的になれると言われてもほとんどの人にとって受け入れ難いでしょう。
何が言いたいかというと個性という形で求められる「差異」は但し書きがつくのであるということです。
何故ならば、我々は社会において他者からの「共感」や「承認」を飛び越えた「個性」に耐えきれないからです。
個性の見つけ方②〜「コミュニケーション」という活動を通して〜
このことは身体的な表象にとどまりません。
我々が日々日々行うコミュニケーションを通して感じるところも同じです。
「個性的な人」というのは話をしていても分かることがあるでしょう。
しかし、我々が「個性的な人」になりたいからといって、「私は空を飛べるんだあ」とか「チョリース」みたいなことを日常的にいってる人間になりたいとは思えません。
そういう人をみたら「あっ。やばい人だな」と思うだけです。
これまた、「個性」を認めるにも限度があるという話で、レールから大きくガーター出している人に対して我々は賞賛の意味「個性的」とは言わないのです。
単にレールを外れていれば「狂人」という名称がつくだけです。
ここで「個性的な人」の例として「ソクラテス」という哲学者を紹介します。
彼は、プラトンの作品などを見れば分かる通り、相手に議論をふっかけては前提を全てひっくり返して立ち去る人間です。
「・・・と君はいうが、本当に〇〇かね?」
「・・・と君はいうが、必ずしも〇〇と言えないのではないかね?」
こういった議論のアプローチが大好物で自分からは「答え」らしいものや「意見」らしいものを出そうというのがほとんどありません。
読んでくとソクラテスに対する感想は「頭がいいな」とは思いつつも「絶対に友達にはしたくない」という感想がきます。
欲しいのは「個性」ではなく「承認」
「個性」に対する考えを深めていくと我々が個性というものを求めているのではなく、「承認」を求めているのだということに気づくでしょう。
自分のあるがまま、自分が演じることなくいる状態など言い回しはいろいろありますが、そういった自己を認めてほしいのだということです。
これがあればおそらく「個性」はあろうがなかろうがどうでもいいんだと思います。
「承認」される「個性」は必要だけど、そうでない「個性」はいらないのではないでしょうか。
何が言いたいかというと「個性」の見つけ方が知りたい人向けには申し訳ないですが、「個性はいらない」ということなのです。
「承認」されるような形で「自分の好きなことをやる」「自分が正しいと思うことをやる」というのが大切です。
単なる概念遊びな感もありますが、我々の人生というものが承認をめぐる闘争であるということを本日はお伝えしたかったのでした。