「哲学」
この言葉を聞いた時の人々の反応は色々あります
が!
「俺ワクワクすっぞ」といった孫悟空のような反応をする人は人類にどのくらいいるでしょうか。
おそらく相当な希少種でしょう。
むしろそれとは正反対に「つまらない」「うざそう」「きめえ。こっちくんな」的な感覚を持つ人の方が多いのではないでしょうか。
私はといえば、哲学書などを扱って色々とかいたりしていますので、「俺ワクワクすっぞ」というグループに入っているとしばしば認識されます。
しかしながら、私の立場はどちらかというと哲学は「つまらない」という立場です。
今日はその理由について書きつつ、「哲学」はどうすることで我々にとって楽しむことが可能なものに変換可能かを書かせていただきました。
哲学がつまらない根本的な理由
さて、哲学がつまらないと感じる理由について早速ですが見ていきましょう。
これは端的にいえば、哲学を「抽象的な概念遊び」と思い込み、それこそが哲学の姿だと思っているからだと私は考えています。
現実に何を意味するか、その概念理解が具体的に何をもたらすかという話にならず「現存在がああ」とか「アプリオリな統合判断があああ」と考えるものとみなすからです。
実際、大概の哲学に手を出し、すぐに撤退する人にありがちなのは概念遊びだと思ってしまうところにあります。
実は、哲学はそれ以外のものがあることをご存知でしょうか。
戸坂潤という20世紀の日本を代表する哲学者がいます。
彼は著書の中で哲学には二種類あると言いました。
で私は右翼・中堅・左翼、乃至ファシズム・リベラリズム・マルクシズム、と云ったような社会学的思想界分布図の代りに、もう少し合理的に内容に立ち入った分布図を使わなければならない。云わばもっと哲学的な分布図を必要とするのである。思想と云えば世界観と思想方法との結合の事だが、之が古来観念論と唯物論に分類されて来ていることは、今更云うまでもない。処で実は之こそが、今日の思想界の社会的分布図を与えるのに、一等役立つだろう当のものに他ならぬ。
『日本イデオロギー論』戸坂潤(1974)岩波文庫
色々と書いていますが、哲学には「観念論」と「唯物論」に分かれるとあります。
そして、これこそが哲学の最もクリティカルな分類方法でると彼はいうのです。
観念論というのは冒頭から述べている「概念遊び」を小難しく表現した言葉です。カントやヘーゲルなどの著書を読むとこのような典型的な「観念論」に終始しています。
なぜこのような立場に立つかというと「物質」よりも「観念」を優位なものとみなす考えが根底にあるからだとされています。
一方で「唯物論」というのはそうではありません。
こちらはあらゆる精神的なものも全ての根底には「物質的」なものがあると考えます。
物質的というと堅苦しいですが、「目に見えるもの」であったり「我々が現実世界において具体的な何かとして把握できるもの」を優位なものとする考えなのです。
で、なんの話ししてたかというと「哲学がつまらない理由」です。
今の話がこの本題につながります。
観念論的な哲学に手を出すのは少なくとも後回しにするべきだということです。
これだけで哲学がつまらないという感覚はかなり消えます。
ですので、ハイデガーとかヘーゲルとかカントとかニーチェみたいな「哲学」の王道と呼ばれるものはむしろ最初に手を出すべきではないのです。
哲学をつまらないものから興味のあるものへと変えるには
ここからは今の議論を受けてつまらない哲学とは異なる楽しい哲学がどういうものかを記したいと思います。
まず第一にしてほしいことがあります。
「哲学」というものを小難しいものと考えるのではなく、もっとフレキシブルに解釈して「我々の思考をもう一段深めるもの」であったり、「我々の思考を別の角度に向けてくれるもの」であったりと考えることです。
この考えに立つ時に手にとる書籍が変わってきます。
「社会科学」というジャンルがその典型例になるかと思います。
社会科学というのは、一言で言えばある個々人の行動が実は社会の構造的な何かによって突き動かされているのではないかと考えるものです。
一例を挙げると、エミール・デュルケームが記した書籍に『自殺論』というものがあります。
これは簡単に要約すると、多くの人は自殺というものを個々人の感情的なものから行われると考えています。「仕事が辛いから」とか「借金で首が回らないから」などです。
確かにその一面があることを否定しませんが、マクロで自殺数を統計的に見たときに毎年一定数死ぬということを踏まえると最も大きな「社会的変数」があるのではないかと彼はいうのです。
彼の結論としては、コミュニティの崩壊により孤立感を深めやすくなった結果、個人が自殺に走りやすくなるのではないかということを説明したわけです。
この例からもお分りいただけるように、「自殺」という具体的なトピックを取り上げると俄然興味を持ちやすいと思いませんか?
そして、「実在論がああ」や「我思うゆえに我あり」などの「いかにも」な哲学より身近なことを議論している分、思考もしやすいのではないでしょうか?
そうなのです。社会科学のような世の中の具体的な分析に力を入れたものを「哲学」として取り入れてみることが重要なのです。
哲学の楽しい関わり方
さらに個人的なことを言いますと、哲学をもう一歩つまらないものから面白いものへと進めるものとして「議論する」ことが重要です。
これはカールヤスパースという哲学者が述べたことなのですが、近代にせよ古代にせよプラトンからニーチェくらいまでのいわゆる典型的な「哲学者」というのは大衆から距離を取り、孤独な思考のうちに「哲学」を見出していました。
しかしながら、哲学とはそういうものではないだろうとヤスパースは言うのです。
彼は「コミュニケーション」の中にこそ哲学の本質は宿っていると考えていました。
そもそもで言えばソクラテスという最も昔の「哲学者」は常に議論を通して思考を深めるとともにその活動を「楽しい」ものと考えていました。
「答えが出るか」というのはここでは重要ではありません。
あくまで疑問について議論をするということを「楽しむ」のです。
この記事をまとめると「哲学がつまらない」と感じる人は2つのバイアスを持っています。
一つが、哲学を「概念遊び」だと考えるというもの。
もう一つが、一人で退きこもり行うとするものです。
いずれもが「哲学」の全容ではありません。
むしろその正反対のアプローチにも「哲学」は宿っているのです。