今、「森友問題」で世の中はかなり騒がしいような気がします。
ヤフーニュースを見てもその関連の記事がとても多いです。
というのも財務省という東大を卒業したエリートたちが組織ぐるみで公文書を改ざんしていたというのは戦後最大級のスキャンダルだからです。
野党が「証拠を出せ」と言って出てきた証拠の文章が改ざんされていたというのは異常事態なのはいうまでもありませんね。
と言いたいところなのですが、、、
「他に議論することがあるだろ」「北朝鮮問題や憲法改正を議論してくれ」「野党のパフォーマンスはいらない」といった意見がまだちらほら。。。
当初はそういう考えもやむなしでしたが、今これほどの組織犯罪が明らかになっていてまだ無関心なのです。
なぜこれほどの事件が起きていて安倍政権を擁護したり他の議論の方が優先だと言えるのでしょうか。
しばらく考えていました。
ただ、この政治に対する世の中の反応がおかしいのはある一つの理由があげられるのではないかと気づいたのです。
つまり、「政治」というものの捉え方が変化してしまっているからこそおかしい状況をおかしいと思わないのではないかということですね。そういう人が増えているからこそ、おかしな政治家がいても支持されてしまっているとも思っています。
今日は、自分の思考を整理する意味で「政治はなぜおかしい状況になっているのか」というテーマで記事を書きました。
■「政治」という言葉の意味の転換
少し大きな話になって恐縮ですが、森友問題を例に「どうでもいい」「他に議論することがあるだろ」という人の判断を紐解くとあることがわかります。
それは、「8億円」という金額のそろばんしか弾けないことですね。
評価軸が「功利主義のカテゴリー」からしか見れないのです。
だからこそ、「この問題の追及に費やした歳費の方がでかいだろ」といった意見が平然と出てくるのです。
ただ、政治とは本来「多様な人間が存在し、多様な利害が存在している」ということを前提としているのではなかったでしょうか。
そんな一時的で、短絡的な金儲けの観点からしかみないことは政治の死を意味するのではないでしょうか。
アーレントの『政治の約束』には以下の一節があります。
政治は人間の複数性(plurality)という事実に基づいている。神は人間(man)を想像したが、人間たち(men)は人間的にして地上的な所産であり、人間本性の所産なのである。
『政治の約束』ハンナ・アーレント(2018)筑摩書房 p181
政治とは「複数性」を前提とするとアーレントは述べます。これがなければ「政治」は存在しないとさえ彼女は別の箇所で述べています。
「複数性」とは何かを少しだけ補足しますと、これはアーレント独特の語彙なのですが、要は今述べた「いろんな人がいろんな利害を持って世界は成り立っていますよね」ってことを表現している言葉です。
それを調整するのが政治ですよねと彼女は述べているのです。あまりに当たり前のことを言っています。
ただ、これほど当たり前すぎることが、今危機的状況にあるのです。
この「複数性」という観点が崩れ始めたポイントは、幾つかの地点を指摘することが可能です。
ただ、大きくとれば「社会が単一の利害で結ばれている」と考えることが政治の役割とみなされるようになったタイミングをあげられるでしょうか。
「単一の利害」というのはもちろんいうまでもなく「資本主義」というイデオロギーが最重要視する私的利害を追求する考え方と言って良いでしょう。
アーレントも同じ考え方をしていてマルクスの偉大さとして近代社会がある一つの利害で結ばれる社会だと想定したところを讃えています。
・・・・マルクスは「人間の社会化」が全利害の調和を自動的に生み出すだろうという結論を引き出した点で正しかった。
『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)筑摩書房 p67
この話をあまり難しく考える必要はありません。
要するに、とにかく「経済最優先でいく」ということが常態化することが政治の日常になってしまったということです。
例えば、安倍政権はごまかしていますが、平然と移民政策をしています。(本人は「外国人財」とごまかしていますが、国際的な定義で考えれば明らかに移民です。しかもグレーゾンをどんどん緩和しています。)
テロが多発する事例などを鑑みると、移民政策というのはほぼすべての国で失敗しておりドイツのメルケル氏も白旗をあげたことはついこの前のことです。(シンガポールはうまくいっていると言われていますが、国民の自由を極端に制限することで成り立っていると言われています)
しかしながら、安倍政権は今周回遅れの移民政策をしているんですね。
なぜそんな愚行をできるかというと政治を経済の観点からでしか見れないからです。アーレントのいう複数性の観点から政治を見れないのです。
他には郵政民営化、TPP、農協改革、道州制、水道事業民営化など最近上がってくる構造改革・規制緩和というのはすべて直近のそろばん勘定だけで行われようとしている愚策中の愚策です。
■「政治がおかしい」という状況を正す方法
そういった意味で、政治がおかしい理由は明快で、「金さえ儲ければいい」という発想がイコール政治であるというとんでもない非常識なことが常識になっているからなのです。
こういうことを言うと「経済はどうでもいいのか」と批判されるのですが、(アーレントもよくそれで批判を受ける)そんなことは言っていません。単純にこの思考停止はやばいと言ってるだけの話です。
このおかしい状況を脱するには思考を取り戻さなくてはなりません。
しかし注意が必要です。「思考」はよく誤解されるのですが、一人でできるものではありません。
アーレントは「思考」はいかにして可能かについて下記のように述べています。
マルクスがヘーゲルの歴史哲学・・・から引き出した結論によれば、あらゆる伝統的解釈とは逆に、活動praxisは、思考(thought)の反意語などでは全くなくて、リアルな真の思考の媒体だったのであり、政治は、哲学的威厳など微塵も帯びていないというのでは決してなくて、本質的に哲学的唯一の活動力だったのである。
『政治の約束』ハンナ・アーレント(2018)筑摩書房 p122
黒字にしたところがポイントなのですが、アーレントのいう「活動」とは、平たく言うと「言論活動」を指します。(詳細は「人間の条件』を参照)
言論活動こそ真の思考の媒体だと彼女は述べているのです。
今「思考」が足りないから政治がおかしい状況になっているというのが私の趣旨なのです。
ここで勘違いをされないように予防線を張りますとこのことを持って私は人々をバカにするという主張をするのではありません。
「個人」に原因があるのではなく、この根本的な原因として私はその「思考」を紡ぐ言論活動の場が消滅しているところを憂慮しています。
アーレントは『政治の約束』で以下のように述べています。
すなわち、私たちの目下の不安の真ん中に人間を据えて、不安の種が取り除かれる前に人間は変えられねばならないいと持ちかけるいかなる回答も、深い意味で非政治的であるということだ。なぜなら政治の中心にあるのは、人間ではなく、世界に対する気遣いだからである。
『政治の約束』ハンナ・アーレント(2018)筑摩書房 p137
彼女は、何を言っているかというと我々は世界の危機に対して「人間を変える方」を選ぼうとしがちだと。
ただ、それは非政治的な思考だと彼女は述べているのです。
■政治空間構築の必要性
今この世の中ではリアルな思考の媒体である政治空間が極めて壊滅的な状況にあると私は考えています。
それゆえに、明確な悪意に鈍感になってしまったり、気づかぬうちに巨悪に加担してしまったりしてしまっているのです。
資本主義というのは本性からして非政治的なものになって行ってしまっていくということを考えれば、今後もさらに悪化するイメージは湧いてもよくなるイメージは湧きそうもありません。
ただ、時代の危機には常に偉大な智者食い止めた例が多数あります。
例えば、その知恵の一つがカトリック教会だと言われています。
実はその重要人物の一人であるマルティン・ルターは人々を孤独にすることを憂慮し宗教を広めたと言われています。
ルターはそこで言っている。「そのような(つまり孤独な)人間はいつも次から次へと推論を行い、すべてを最も悪く考える」
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房 p297
他にもアウグスティヌスもそうでした。
日本でいうと誰でしょうか。
歴史には名を残していないかもしれませんが、身近な共同体の長だったかもしれません。
兎にも角にも言えるのが「忌憚のない言論の空間」を創出する「気遣い」が政治がおかしい社会における我々の数少ない対抗手段なのではないかということですね。
以上となります。