数年前のことでしょうか。
「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」という言葉をある政治家が国際舞台の場で語りました。
「グローバル化」の流れの中で人、物、金、が自由に行き来できるようになったことなどを踏まえてのご発言だったのでしょう。
これを読んでいただいている読者の方もそのような考えをお持ちの方が少なからずいるかもしれません。
しかしながら、現実の世界において国境や国籍にこだわる流れは本当になくなったでしょうか。
むしろ、トランプ大統領の誕生やイギリスのEU離脱などの流れは多くの国において国境や国籍にこだわる流れが強まっていることを感じさせます。そして、寛容になるどころか多くの国でヘイトスピーチと言われるような排外主義的な言動や行動が目立つようになってきています。
そういった時代の中にあって、なぜ差別的な言動を人間は取ってしまうのかを考えることが非常に重要です。
「僕は差別などしない」とお考えの方に手に取っていただきたい一冊があります。
それは、小森陽一氏の『レイシズム』という著作になります。本章ではその一端をご紹介いたします。
差別的な言動(ヘイトスピーチ)をするのは誰か
まず、気になるのがどういう人がヘイトスピーチと言われる差別的な言動をとるのかということです。
おそらくこれを読んでいただいているほとんどの方が『自分は加担していないと、・・・確信している』でしょう。(p16)
しかし、『私たちが「人種差別主義」にからめとられていない、という保障はないということを改めて確認しておく必要がある』のです。(p16)
逆に危ないのは、『「人種差別主義」が、よくないことであるという、正しさのレベルで問題を捉えている』(p16)人たちであり、それについて深く考察しないできた人たちほど自らが巨悪に加担する可能性があるのです。
すでに『「生物学」的な「人種差別主義」の論拠が、20世紀後半において、ほぼ全て論破されたはずであるにもかかわらず』(p17)、今日の日本においても差別は間違いなく存在します。
ですが、ヘイトスピーチをしている人が「俺今ヘイトスピーチをしている」ということはほとんどないでしょう。
ここが差別的な言動の難しさです。
「論破!」できるものではないのです。
誰もがその可能性を秘めており、これを書いている当の私がそれに該当している可能性もあるのです。
差別的な言動(ヘイトスピーチ)が始まるメカニズム
では、「差別はいけない」とほぼ全ての大人がわかっているにもかかわらず、差別的な言動が色々なところで発生してしまう理由はなんなのでしょうか。
これについて知るためには、『私たちの中に拭い去ることができない形で発生する、異質性嫌悪の感情』(p17)を取り上げずにはいられません。
この嫌悪感が生じる理由は、『よく知らないはじめて出会う他者に対する、理解していない、という思いから発生するおびえに根ざしている』(p18)からです。
おそらくここで気になるのは、なぜそういった異質な他者に対して「怯え」を感じてしまうのかというところでしょう。
その感覚は正しく、実際ここが差別が発生する起源を理解する上で重要なポイントです。
著者はその答えとして『他者から攻撃されるかもしれないという危険と不安』(p18)を感じるからという理由をあげます。
ここで押さえるべきはこの理由以上に、この理由を我々に納得させる前提にあると著者は述べます。
その前提とは『自分の側に他者に対する攻撃性と暴力性が内在していることを知っている』(p18)という知覚です。
この知覚は『言葉を操る生きものとしての人間の脳ではなく、動物の脳において、他者との関係を判断してしまう』(p18)時にしばしば見られます。
ここまでをまとめます。
端的に言いますと、ヘイトつピーチの起源は、動物的思考に切り替わり自らの攻撃性や暴力性を相手も持っているはずだという投影を始めるタイミングに生まれるということです。
これは、人間は言語を他者との間に介在させないと恐怖からくる暴力によってしか他者と相対することができないということを意味します。
逆に、『言葉を操る生きものとしての人間は、言葉を他者との間に介在させることで、暴力以外の他者との関係を構築することを可能に』してくれるのです。
そして、これこそが『社会性を強化し、他の生き物に対する優位性を長い時間をかけて作り出してきた』(p19)ものだというわけです。
そ
差別的な言動(ヘイトスピーチ)をわれわれ自身が取ることを避ける方法
では、清廉潔白を信じたい我々が差別主義的な行動(ヘイトスピーチ)をしていないか確認するにはどうすれば良いのでしょう。
これについて最後に見ていきます。
著者は次のように述べます。
『人種差別主義を克服する営為は、それぞれの言語システムの中で、「自明」のこととして使用されている、肯定と否定の価値評価を伴った、言語相互の結語関係の網の目全体に対して、「なぜ?!」という問いを発し続け、その耐久性を検証することなのだ。』(p72)
つまり、「なぜ」その判断を我々はしているのかということを絶えず「思考」し続けることが重要なのです。
そして、もしその「思考」に耐えられない程度の判断であるならば、『言語相互の結合関係の網の目全体を転覆する勇気・・・を持つことをためらわないこと』が大切です。(p72)
ただし、同著を読み進めていくとわかるのですが、この「なぜ?」と発問する能力はしばしば年を重ねて人間として成熟するほどに衰えてしまう可能性が高まるようです。
なぜなら「思考をし続ける」というと響きはいいですが、いつかは止めるタイミングがないと何も行動ができませんから。
ですが、そういった蓄積により多方面において思考が止まってくると差別主義的な言動(ヘイトスピーチ)をしてしまう可能性を我々は自己認識する必要があります。
その自己認識を担保する現実的な手段としては、「思考」という言葉の意味をもっと広く考えることが重要でしょう。
「思考」というと自ら一人で考える姿をイメージしますが、前章であったように言論を用いて他者と関係性を作れることが暴力性を回避できる有効な手段だとありました。
それゆえに、公共哲学の始祖とも言えるヤスパースが『私という実存する存在はけっして前もってそのような孤立化において自己自身であるのではなく、他者であることによって初めてそうなのである』と述べたように、他者との対話を通して自らの再構築を行うことが望ましいのです。
つまり、「思考」を己との対話においてのみならず、他者との対話の中にも見出していくことが重要なのです。