今日は久々に仕事に関する記事です。
あなたの周りには「仕事が楽しい」と言ってる人はどれほどいるでしょうか。
そしてあなたは「仕事」を楽しんでいるでしょうか。
もしそうならばそれは大変おめでたいことです。
一方で、正直なところ「仕事が苦痛でたまらない」という人もいるのではないでしょうか。
苦痛だが、生きていく上で仕方がないからとりあえず続けているという方です。
そんな「仕事が苦痛でたまらない」という人向けに今日はおすすめの思想書を紹介していきたいと思います。
本記事で取り上げるのは女性思想家のシモーヌ・ヴェイユです。
ニーチェ、カント、ハイデガーなどの著名な哲学者に比べるとあまり有名でないためご存じない方も多いかもしれません。
ただ、私は最近彼女の思想哲学を「仕事」について考えるために繰り返し読むようにしています。
少し話が逸れますが、実は哲学者には二種類のタイプがいます。
- 思索を重ねある一つの壮大な結論にたどり着くタイプ
- 現実での実体験を重視し、その時に自らが感じたことが文章として残っているタイプ
いわゆる「哲学」という言葉を聞いてイメージするのは前者のタイプでしょう。
例をあげればデカルトだったりカントだったりハイデガーだったりします。
確かに彼らは偉大な発見をしてそれを説明しました。すごいことです。天才です。
しかしながら、市井にいる我々からすると現実世界とは離れている気がして「それがどうした」という考えになる人も少なくないでしょう。
そういう考えの人にこそ読んで欲しいのが後者のタイプ(現実で具体的に起きたことをとにかく重視する)の思想哲学です。
そしてその一人であるシモーヌヴェイユは特におすすめです。
こちらのグループの思想哲学はアーレントやリップマンなど他にもたくさんいます。
ただ、ヴェイユはこのグループの中でも特異なのです。
具体的には、彼女の代表作に『工場日記』というものがあるのですが、彼女は実際に思想の探求をする過程で工場で働いていたのです。こういう哲学者は他にいません。
リップマンにせよアーレントにせよせいぜい「ジャーナリスト」として現場と接点を取るのが限界なところでヴェイユのこの主体性はすごいの一言です。
一言で言えばヴェイユの哲学とは「我々庶民の市井に一番近いところで思索を深めたもの」なのです。
それゆえに繰り返しになりますが「哲学が苦手、所詮空想でしょ」という方にこそこのかたの本はおすすめなのです。
早速ですが、本日は私なりにヴェイユの思想の概要を紹介しながら「仕事が苦痛でたまらない」人向けに記事を書いてきます。ご笑覧ください。
■ヴェイユの思想的基盤ーはじめにー
まず、ヴェイユの思想的基盤となった思想をご紹介したいと思います。
なぜかというと通常いかなる哲学者にせよ誰か(複数人の場合もある)の影響を受けているものです。
例えば、ニーチェはカントやショーペンハウエルの影響を受けていますが、そのカントはヒュームやデカルトの影響を受けています。そういった具合に全ての哲学者もまた過去の奴隷なのです。
そういった意味で、ヴェイユの理解を少しでも深めるには彼女が誰に影響を受けたのかということを抑える必要があります。
ずばり言えば『資本論』でおなじみのカール・マルクスです。
もちろん彼女は経験なクリスチャンとして聖書などの影響を多分に受けています。
ただ、彼女の問題意識の発端である「労働」に最も注意深く目を向けていたマルクスの思想なしにはヴェイユの思想は誕生しなかったと言っていいでしょう。
そういうわけでヴェイユの思想に入る前にマルクスについてここでは話したいと思います。
さて、マルクスという『資本論』で有名ですが、彼の何がすごいのかご存知でしょうか。
一言で言えば「労働をする動物」という切り口から人間を吟味したことです。
ここについては哲学者がこれまで相手にしてこなかった領域でした。
もちろん労働について考えた人がいなかったわけではありません。
アダム・スミスやジョン・ロックなど労働に着目した人はいます。
ただ、マルクスほど「労働」から人について考えた人はいませんでした。
ハンナ・アーレントが『人間の条件』の中でこのことを触れていますので引用します。
マルクスとその先駆者たちの違いは、ただ、マルクスは、むしろその時代の社会にあらわれていた葛藤の現実のほうを見ていたと言う点にある。・・・・マルクスは「人間の社会化」が全利害の調和を自動的に生み出すだろうという結論を引き出した点で正しかった。・・・・
いいかえると、近代の共同体はすべて、たちまちのうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心とするようになったのである。・・・だから社会とは、ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現れるのを許されている形式に他ならない。
『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)ちくま学芸文庫 p67
アーレントはマルクスとそれ以前の学者の相違について「労働」という切り口から社会を分析したことと指摘しています。
これは非常に重要な指摘でアダム・スミスの場合は「国家」の反映にさしあたって手段として「労働」を取り上げただけで「労働」がどういったものかについての探求は非常に薄いものでした。
さて、マルクスの思想哲学を書くのが本稿の目的ではないのでこれくらいにしたいのですが、改めてシモーヌ・ヴェイユの話に移る前にマルクスの偉大さを振り返ります。
それは繰り返しになりますが、「人間を労働する動物」という観点から社会分析をおこなった点です。ここをヴェイユは踏襲しています。そしてさらに探求を深めているのがヴェイユの思想哲学といってすら差し支えないかもしれません。
本件のトピックに絡めて言うならば仕事が苦痛である根源的な理由を知るにはマルクスの思想は避けては通れないということです。
■ヴェイユの読みどころ
さて、前置きはさておきいよいよヴェイユの思想の核心に入っていきたいと思います。
具体的には、「仕事がもたらす苦痛」をヴェイユは複数の著書において紐解いているわけですが、彼女の記す「仕事がもたらす苦痛」とは何かをここでは書いていきたいと思います。
彼女が『工場日記』をまとめ、その他様々なエッセーを記す中で見えてきた仕事における苦悩の原因は下記の3つではないかと私は考えています。
- 「思考」(及び「意志」と「判断」)の不在
- 「根こぎ」状態への恐怖
- 集団にいながら解き放たれない「孤独感」
順にそれぞれ見ていきましょう。
「思考」(及び「意志」と「判断」)の不在
ヴェイユが労働者の苦悩を自らの体験及び周囲の観察をする中で何にあるかと考えたか。
それは「思考」の不在です。
つまり、「思考なき生は無意味である」ということに彼女は労働の分析を通して気づいたということです。
彼女の思想がよく現れた象徴的な描写が『自由と社会的抑圧』にはあります。
集団行動でもこれに類する差異が認められる。職工長の監視下で流れ作業に携わる労働者の一団は、哀れを誘う光景である。一方、一握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めをくらい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動の有り様を呈示し、他の仲間に対する公的な権威の有無にかかわらず、誰かが好走した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。かかる瞬間にあって、自由な集団の表彰はほぼ純粋な形であらわれる。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ(2005)岩波文庫 p108
ヴェイユがこの例で言わんとすることは何か。
それは同じ集団行動を基調とする「労働」であっても個々人が「思考」を積み重ねものづくりを行っていた近代以前のものと工場労働者を筆頭とした監視下において作業を行う近代以降のものでは明らかにものが違うということです。
重要なところなので繰り返しますが、彼女は「労働」を見続けることで次のことに気づきました。
それは、「個々人の思考の有無」が人間の快不快を決めるあまりに大きなファクターであるということはもちろん、その「思考」の抑制を促進する仕組みを「近代」という時代はより強化しようとしているということです。
あなたの仕事はどうでしょうか。「思考」が存在するでしょうか。
私の考えでは「思考」があるところには「意志」と「判断」があります。
もちろんここでいう「思考」とは「何も考えていない」ということは意味しません。
ただ、「意志」と「判断」がない中で考えるということは人間らしさの条件である「思考」は極めて欠落した状態だということです。
「根こぎ」状態への恐怖
さて、続いての仕事における苦痛を見ていきましょう。
ヴェイユは労働者を悩ませる大きなものに「根こぎ」というキーワードをあげます。
この「根こぎ」という現象は労働者という階級においておおよそ普遍的に見られるものだと彼女は『根をもつこと』の中で述べています。
完全に、たえまなく、金銭に縛られている社会階層がある。賃金労働者である。中でも、出来高払いの賃金体系が導入されて以来、小銭単位の感情に絶えず注意を向けざるをえない労働者がそうだ。根こぎの病はこの階層において尖鋭化された。
『根をもつこと 上』シモーヌ・ヴェイユ(2010)岩波文庫 p67
さて、「根こぎ」をヴェイユは非常に危機的なものと考えているようですが、そもそも「根こぎ」とはなんなのかということから見ていきましょう。
私なりに日本語でわかりやすく言うならば「根こぎ」とは「本質的に独立した個人であることができない状況」のことをさしていると考えています。
ところが、われらが時代の主たる社会的困難は、わが国の労働者もまたある意味の移民だという事実に基づく。地理的には同じ場所にとどまるとはいえ、精神的には根こぎにされ、追放され、いわばお情けで、労働に供される肉体という名目であらためて認知されるにすぎない。失業はいうまでもなく二重の根こぎである。労働者は、工場にも、自分の住まいにも、彼らの味方と称する党や組合にも、娯楽の場にも、真の憩いを見いだせない。
『根をもつこと 上』シモーヌ・ヴェイユ(2010)岩波文庫 p67
「根こぎ」にある労働者は二重に苦しいとここでは書かれています。
経済的にも精神的にも根を持たないことで真に休まることがないということがここでは書かれています。
そしてこの恐ろしい現象は絶えず強化され続けるとヴェイユは述べます。
根こぎは人間社会にとって他に類を見ない最も類を見ない最も危険な病である。おのずから増殖していくからだ。真に根こぎにされた存在には二つの行動様式しかない。ローマ帝国期の奴隷の大半がそうだったように、死の等価物というべき魂の無気力状態に落ち込むか、あるいはまだ根こぎの害を被っていないまたは部分的にしか被っていない人々を、往々にして暴力的な手段に訴えて完全に根こぎにする行動に身を投じるか、そのいずれかである。
『根をもつこと 上』シモーヌ・ヴェイユ(2010)岩波文庫 p69
これは、非常に興味深い指摘で、今「社長」と呼ばれる人で「根こぎ」でない人がどれほどいるでしょうか。
社長という昔は「根こぎ」から免れていた人でさえ「根こぎ」に追い込まれているのです。
おおよそ全ての人が真に休まることがない時を生き続けているのです。
なお、この話をするとよく上がる批判がありまして、「今は労働者の境遇は改善された。この時とは一緒ではない」「古代の方がいいというのか」といったものです。これに対する私の考えはその批判は理解できるが、根本的に近代以降社会構造が「根こぎ」であり続けているという目を覆いたくなる事実は変わっていないという立場です。
仮に何かしら軽減されようとも、本質的な部分ではここ200年から300年人々を苦しめているものは同じだということです。
集団にいながら解き放たれない「孤独感」
さてヴェイユの思想の最後になります。
この「集団にいながら解き放たれない孤独感」というものを仕事の苦痛の原因にあげることを理解できる人は多いのではないでしょうか。
もちろん「労働」は「分業」を本性とするというマルクスの指摘通り周囲には概ね他者が存在します。(クラウドソーシングなるものが最近はあるので普遍的とまでは言わない)
しかしながら、その「他者」は本来的な人間としての交わりということを一切しません。
「富」を生産するという目的の手段としてたまたまそこに集められたにすぎません。
『自由と社会的抑圧』には下記のテクストがあります。
手段と目的の関係の転倒は、ある意味ですべての抑圧的社会につきものの法則であるとはいえ、ここで全面的もしくはそれに近く、ほぼ全滅に及ぶに至る。科学者が科学の力を頼むのは、思考のさらなる明晰さに達するためではなく、既成の科学に付加されうる成果を発見したいと希っているからだ。機械は人間を生かすために機能するのではない。機械に奉仕させるためにやむなく人間を養うに過ぎない。金銭が生産物の交換に適した手順を供給するのではなく、商品の流通こそが金銭を循環させる手段なのだ。最後に、組織とは共同行動を促す手段ではなく、いかなる集団であるにせよ、集団の行動は組織強化の手段でしかない。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ(2005)岩波文庫 p123
特に最後の一文が大切です。
何を言っているかというと、近代以降の組織は「共同行動」を促すことを目的に構築されているように見えるのは表面だけで、その実は分業をするためにより個々人の間についたてが建てられたようなものだということです。
言い換えれば、我々は労働というものをするにあたって他者と共にありながら常に孤独であるということです。
もちろん現代においてはそうでない仕事も多少あるでしょう。
そういう人はヴェイユの思想を古臭いものだと考えます。
ただ、多くの労働者にとってこの「孤独感」が今なお存在することは否定できぬ事実ではないのかと思うのです。
そして、この孤独こそが仕事における苦痛にも少なからず関わっていることを無意識的であるにせよ感じさせているのだと私は考えています。
■ヴェイユの読んでおきたい本リスト
さて、仕事が苦痛である人向けに何か心理学的な解決策を書いていると思われた方にとっては期待はずれだったかもしれません。
しかしながら、ダイエット本の決定版がいつまでたっても出ないのと同様、「仕事の苦痛の取り除き方」を書いているものがあったとしてそれはよく言って「逃避」でしかなく、時間と共にまた追いかけられるに違いありません。
悪く言えば自分をいつわる内部的自己欺瞞でしょう。
今、仕事が苦痛でたまらない人に伝えたいことはその現状と向き合うことです。
そして、その苦痛について思考を行うことだと思います。
ここから逃げるのではなく、向き合った時からその「苦痛」は消滅はしないものの和らぐことはあり得るように思います。『重力と恩寵』という本でヴェイユは下記のように述べています。
かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。
人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。
『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ(1995)ちくま学芸文庫
最後に仕事が苦痛だという人にぜひ読んで欲しいヴェイユの著書をリストアップしますので、ぜひ読んでいただければと思います。
哲学と言いつつも小難しくなく我々の日常の体験と重なる部分が極めて多い臨場感のある書物ばかりです。