「会社にしがみついて追われる人生では、もはやありません。」
「自分の人生戦略を抜本的に見直しましょう。」
「これから世の中は驚くべきスピードで変わっていきます。」
昨今、各種メディアで「時代の転換」が頻繁にささやかれています。
それを背景としてなのでしょうか。
今「教養」ブームが到来しています。
「教養」の名を冠する書籍がここ数年だけでも数十冊は刊行されています。
多くの人々が敏感に反応するワードであることが伺えます。
池上彰さんや出口治明さん、藤原正彦さんなどの関連書籍は非常によく売れています。
こういった「教養」という言葉が流行る理由は何なのでしょうか。
要因の一つとして、会社に食らいついてれば何とかなるという価値観が崩壊したことが大きいでしょう。
もちろん、これまで存在した常識の延長で生きる人自体が完全にいなくなることはないでしょう。
その生き方でそれとなくうまくいく人もある一定数はいるでしょう。
しかしながら、徐々にとは言え、テクノロジーなどがひきおこす変化に、現状の延長で生きていくことがまずいと考える人の数は増えています。
さて、そんなこれまでの常識が通用しない時代で力強く生き抜きたいと考え、その方法として教養をつけたいという方にぜひ読んでいただきたい本があります。
それは、エドワード・サイードの『知識人とは何か』という本です。
こちらの本は、「頭のいい人」とはいかなる人物かについてこれまでの話にも通ずる示唆に富んだ一冊となっています。
「頭のいい人」に対する根強い誤解
まずは、サイードが指摘する「頭のいい人」について言及しながら、我々の「頭のいい人」についての誤解から見ていきましょう。
サイードは「頭のいい人」を「知識人」と呼んでいるのですが、この「知識人」の定義が非常に興味深いのです。
少し長いですが、全文引用した方がわかりやすいためお付き合いください。
サイードは「知識人」を次のように述べます。
あくまでも社会の中で特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない、つまり特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない・・・・わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて・・・メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表彰=代弁したり、肉付けしたり、明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。
『知識人とは何か』エドワード・サイード(1998)平凡社
これは、例えば「〇〇大学法学部卒業後、〇〇大学〇〇学科修士課程修了、外資系コンサルティングファームを経て現在は〇〇会社代表取締役」というプロフィールが即「知識人」であることを意味しないということです。
むしろ、サイードの主張にそえば「知識人」からは遠い存在でしょう。
「学歴や肩書きで勝負する時代は終わった」と言う人たちのプロフィールが、学歴や職歴の盛り合わせだったのを見てずっこけたことが私は何回もあります。
もしかすると彼ら・彼女らは笑いを取りにいっていたのかもしれません。
もしくは、「こういうプロフィールを書いているおじさんを信用してはいけないよ」という反面教師になる予定だったのかもしれません。
その真意はわかりかねます。しかしながら、言ってることとやってることが逆ですよねと突っ込まざるを得ません。
かたや、サイードのいう所の「知識人」に対してはどうでしょうか。
「専門家でないくせに何偉そうに言ってんだ」の合唱です。
しかもそういう人に限って「学歴や職歴だけでなんとかなる時代は終わった」と喧伝しているのですから困ったものです。
それなら「学歴や職歴が全て」と言ってくれた方が清々しいものがあります。
こういう話から言えることとして現代社会は、「特定の職域や学歴を寡聞に評価すべきではない」と言いながら、その考えから離れきれていないのが現状なのかもしれません。
その言葉を発している人ほどこれまでの枠で物事を考えています。
専門家も高学歴も会社経営者も平気で嘘をつく時代
なぜこの偏見から逃れられないのかに移ります。おそらく、下記のような考えが背景にあるのでしょう。
- なんだかんだで高学歴の人は正しいことを言う。
- 〇〇会社出身の人なんだから頭いいでしょう。
- 大学教授なんだからそう間違えることはないでしょう。
しかしながら、2018年に何が起きたかを思い出してください。
東大を出たエリート中のエリートと言われる役人が公文書を改ざんしたり、統計を改ざんしたりしているではありませんか。国会でも平然と何度も嘘をつくわけです。
そして誰も責任を取りませんし、平謝りをして済ませようとしています。
挙げ句の果てに、役人は「誤解を招いたのであれば・・」という言葉だけで、相手の認知能力のせにしようとしている始末です。
民間企業でも何件あったでしょうか。データの改ざんに決算の改ざんなど、名だたる大企業が行なってました。
大手の電機メーカー、銀行、鉄鋼メーカー、不動産会社などなど思い出すだけでもかなり挙げられます。
大学教授や評論家にも酷い人達がいます。立法過程にアドバイザーとして入っておきながら、通った法案によって自分が取締役をやっている会社で利益を受け取っている人なんかがいい例でしょう。
本当にこういった人物たちが「頭のいい人」と言えるでしょうか?私にはどうもそうは思えません。
ところで、何故「優秀」とされている人たちは、このようなデタラメなことが言えるのでしょうか。
これについてのサイード答えは「専門家」であるがゆえにできてしまうというものになります。
具体的には、「いいかえると、本来の意味でいう知識人は、政府や大企業に使える場合、モラルの感覚をひとまず脇に置くようにという誘惑の声、またもっぱら専門分野の枠の中だけで考えるようにし、とにかく意見統一を優先させ、懐疑を棚上げにせよという誘惑の声」に屈せざるを得ないと言います。なぜなら、その所属する職域は必ず何かの利益を代表せざるを得ないからです。
サイードが述べる「頭のいい人」になる方法
このことを踏まえると、サイードは誰を「知識人」と考えているかが明確に見えてきます。彼は完全に独立した状態でないにせよ、なるべく独立した立場からものが言える人を「知識人」と呼んでいます。
では、具体的には誰を指すのでしょうか。サイードは「アマチュア」を「知識人」の条件として挙げます。
「知識人が相対的な独立を維持するには、専門家ではなくアマチュアの姿勢に徹することが、何より有効」だと彼は述べるのです。
それゆえに、知識人であることは、「社会の中で特殊な公的役割を担う個人」を意味し、断じて特定の専門家となることがあってはなりません。
さて、「アマチュア」というと「未熟」「素人」という言い換えをする人がしばしばいます。
おそらく、良い意味でこの言葉を認識されていない方も多いでしょう。
しかし、サイードは「アマチュア」の価値を否定的な文脈では使っていません。積極的に評価しています。
もちろん、誤解のないように補足しますと、「アマチュア」はただ単に好き放題言う人を指す訳ではありません。
サイードの語る「アマチュア」になるには、大いなる努力が求められます。
サイードは偉大なアマチュアを「懐疑的な意識に根ざし、絶えず合理的な探求と道徳的判断へと向かう活動」ができる人と定義します。
これをし続けられるためには、とてもではないですが家でゴロゴロしてポテチを食べているだけでは無理です。
そうなるためには冒頭にも引用しました「公衆に向けて・・・メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表彰=代弁したり、肉付けしたり、明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人である」ことが必要です。
最後、簡単にこの章をまとめる意味合いで改めて「頭のいい人」とは何かについて書いていきます。
サイードは、「頭のいい人」として「知識人」という言葉を使いました。
「知識人」はどういう人なのかというと、特定分野に精通している人でも、学歴や職歴などのポストで評価される人でもありません。
逆に、特定の利益に資する専門家は「知識人」から遠ざかると考えていたのです。
一方で、彼が「知識人」として挙げたのはアマチュアです。
サイードは、専門家ではない我々の誰もがその能力次第で「知識人」になることができると述べたのです。
ただし、そのためには大いなる努力が求められます。
特に自らの懐疑的な意識をフル稼働させながら、特定の権力に所属することから距離を置き論理と感情の両面から検討しなければなりません。
そして、自分が考えるだけでは駄目です。
それを多くの人にわかりやすく伝えることができる言語化能力が必須です。
この高いハードルを超えられた数少ないアマチュアを「知識人」と呼ぶことができるのです。
なお、ここまでの話は話はいうのは簡単です。
しかしながら、サイードのいう「知識人」になるのは果てしない道です。
この立場を目指すものは多くの壁にぶつかることが避けられないでしょう。例えば、自分ではわかっていてもそれを言語化してより多くの人に理解してもらうというのは簡単ではありません。
しかし、もしあなたがそういった壁も含めて楽しみながら自らを鍛錬できる人であれば今の所「知識人」に最も近い人だと言えるかもしれません。