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世の中一般について

なぜSNS映えをあそこまで意識してしまうのか

更新日:

 

*本記事に先立ち少しだけ断りを入れます。

私はいわゆる一般的なSNSというのをNP以外一切やっていない化石人類です。(LiNEとかFacebookとか)

ーーーーーーーーーーーーー以下本文ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

最近街を歩いたりカフェに入ったり行くところ行くところで思うことがあります。

 

「写真を撮る人が多いなあ」と。

 

調べたところどうやら今はやりのSNSの影響が大きいようなのです。

どうやらInstagramという写真を投稿するタイプのSNSが流行っているようですね。

(FacebookでもTwitterでもなくなっていたことに驚きました。)

 

 

Instagramは特徴として、画像がメインで文字がちょっとだけだったりまったくなかったりみたいなスタイルにあります。

これまでのSNSはそれなりに文字主導というイメージがありましたから結構ドラスティックな転換のようにも見えます。

 

 

町中で写真をとってはそれをアップするというのが大変流行しているようで、確かに電車などでふと他の人のスマホが見えるとInstagramなるもののアプリを使っている人だらけなのです。

 

 

さてそんな新型SNSであるInstagramの利用をはたから見て思ったことがあるのです。

 

「なぜ彼ら・彼女たちはこぞって写真を上げるのだろう?」と。

「SNS映え」という言葉も生まれるほど多くの人にとってInstagramに良い写真をあげることは個々人にとって極めて重要なようです。

 

今日は、このSNS映えという現象について思うことをつらつらと書いてみました。

結論を申しますと、非合理に見えて実は合理的な行動をしているなというのが私の所感です。

■目次

なぜSNS映えが重要か
SNS映えは悲痛の叫び?
SNS映えから見えてくる今の世の中に足りないもの

■なぜSNS映えが重要か

さて、Instagramに限ったことでもないのですが、ここではなぜ多くの人がSNSにいい写真を投稿することに熱狂するのかを書いていきます。

 

この記事を書くきっかけとなった本があるので、そのお話をまずさせてください。

そこには昔話が書かれているわけですが、どうも今のSNSにまつわることを書いているように思えてならなかったわけです。

 

気になった本というのはソースティン・ウェブレンの『有閑階級の理論』です。

 

この本はなかなか骨太なのですが、有閑階級(現代風に言うと「不労所得者」と「特権階級」を合わせたお金持ちみたいな感じ)を分析し、「生活の必要から解放された人間が何をするのか」を明らかにした本なのです。

 

これがとても面白い。

仕事に忙殺されている人にとっては「自分は何のために毎日生きているんだろう」と考えるきっかけにもなるかもしれません。

 

では見ていきましょう。

 

ウェブレンによれば生命過程の維持から解放されている人間がすることは一つです。

周囲から羨望の対象で見られたり、誇り高く見られようということを目指します。

 

 

では、具体的にどのようにして羨望の対象として見られようとするのか?

これは、「顕示的消費(浪費)」という行為をすることで実現するとウェブレンは述べます。

それゆえにこそ、ごく普通に見られる信仰心と忠誠心に貫かれた儀式や装飾品に対して、顕示的浪費の原理が及ぼす影響が指摘されて良い。例えば、聖堂、祭服や他の同類の材などという信仰心に溢れる消費と呼んで良いものの大部分を、顕示的消費の規範が説明しうることは明らかである。

『有閑階級の理論』ソースティン・ウェブレン(2015)講談社学術文庫

 

ここで言われていることは、生きていくという観点では「完全なる無駄遣い」をいかに豪快にできているかが「尊敬されるかどうか」に大きくかかわっていたということですね。

 

お金は「たくさん持っている」と言うだけではダメでそれを公然と大盤振る舞いすることが力・権威・崇高さのアピールとなったようです。

 

ただ、ここで、若干誤解なきように補足します。

この顕示的消費はあくまで「肉体的快楽」に「繋がるもの」ではなく「繋がらないもの」であることが条件の一つだそうです。

 

その例としては例えば以下のようなものが挙げられます。

このような上流階級の非産業的な時の過ごし方は、大雑把に言うと、統治、交戦、宗教的職務及びスポーツである。

『有閑階級の理論』ソースティン・ウェブレン(2015)講談社学術文庫

 

今でいうとフェラーリとかポルシェを買う人はこれに近いかなと個人的に思います。

 

さてここまでをまとめます。

ウェブレンの分析では、「生きるために活動している」というのは昔から奴隷の延長で見られてきた節があるとのことです。

それ故に、「生きるための活動を回避できていること」が「人として如何に偉大であるか」を示す最も手っ取り早い方法だったということなのです。

 

結局、人間の正体というのは古今東西「顕示欲を満たすことで自らが社会において優位的な立場にいることを示したい生き物」なのだとウェブレンは言いたいのかもしれません。

 

私はこの話に同意します。

そして、この話がSNS映えを意識する今の多くの人々にも当てはまるのではないかと。(金銭的に大きい金額ではないかもしれませんが)

 

おそらくインスタグラムで自分が仕事をしている姿をとってアップしている人はいないでしょう。

これは契約上できないからという反論がくるかもしれませんが、例えば営業マンだとしてカフェで少し作業をしている自分を自撮りしようとする人などいませんよね。

労働は、窮乏の証拠であるから、たとえそれが、さらに以前の文化段階から受け継いだ誇大的伝統に従ってまだ下品なものとみなされていなくても、不可避的に不名誉なものになる。

『有閑階級の理論』ソースティン・ウェブレン(2015)講談社学術文庫

 

やはりInstagramなどに上がってくるものというのは「非生産的活動」に従事している姿が100%ではないでしょうか。

ようやく話のつながりが見えてきたかもしれませんが、Instagramに写真をせっせとあげる人はウェブレンの述べる顕示的消費(浪費)をしようとしているのです。

 

自分が如何に尊敬されうる人間であるかというのを「非生産的」活動を映し出そうとしているのです。

実際、その投稿した活動内容が「非生産的」の度合いが強いほど注目度も高まるのではないでしょうか。

 

面白いのが色々これを書くにあたってネットを調べていると「SNSの投稿がうざい」とか「SNSは時間の無駄」と言いながら投稿したり、相手の投稿を見て嫉妬心を燃やしている人が随分といるものだということですね。

 

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■SNS映えは悲痛の叫び?

ここまで、ウェブレンの話とSNS映えをしている人々との関連性についてなんとなく書きました。

 

 

ここは手短に終えますが、SNS映えを狙う人々の内に秘められた悲痛の叫びについて書かせてください。

 

これを考えた背景ですが、「なぜ彼ら・彼女らは顕示的消費を示すためにSNSを選んだのか」と考えた時に、一対他で発信できるという効率性だけでは割り切れない何かを感じたからなのです。

 

 

そもそもより顕示的消費をしっかり伝えるならば、リアルな場で伝えた方がいいではないかと感じたことも背景にはあります。

 

なぜSNSで検事的消費をするという形に小さくまとまったのかというと「リアルの場においてそのような発信の場がないから」ということを感じています。

 

自らを暴露する場所が失われているということです。

「そんな場所いらなくね?」と今あなたは思われたかもしれません。

私も以前はそちらの人間でした。

 

 

しかし、自らが何者であるかを暴露する公的領域というのは人間が人間らしく生きる上で必須だとアレントの話を聞くと少し考えが変わったわけです。

言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。そしてこの挿入は、第二の誕生に似ており、そこで私たちは自分のオリジナルな肉体的外形の赤裸々な事実を確証し、それを自分に引き受ける。この挿入は、労働のように必要によって強制されたものでもなく、仕事のように有用性によって促されたものでもない。

『人間の条件』ハンナ・アレント (1994) ちくま学芸文庫 p288

 

アレントは人間の条件として労働と仕事と活動を上げたわけですが、労働と仕事はなくても人間は死なないが(言論)活動がなければその世界は死んでいると述べました。

 

肉体は勿論生きるわけですが、精神が死んでいるということをアレントは指摘したわけです。

我々は「生きている」という時それはほぼほぼ肉体のリアリティによってのみその如何を判断しがちです。

 

しかしながら、少しだけ想像してみるとわかる通り公的な言論領域の消滅は精神的な死なのです。

 

 

 

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■SNS映えから見えてくる今の世の中に足りないもの

SNSについて調べているところからいろいろと脱線しましたが、ここまでくると現代社会に足りないものが明確になってきます。

 

それは、現実のコミュニケーション基盤です。

ザッカーバーグをはじめとしたSNSプラットフォームを作った人は伝統社会の周縁に伴う人間の精神的な死の危険を前にして対処療法をしただけにすぎません。

 

現実世界における共同体の構築を急がなければますます孤立した個人がなんとかその孤立感を埋め合わせようとSNS映えを意識した写真を投稿して終わるような世界になってしまいます。

 

 

 

街にはたくさんの人が溢れているけれども、誰とも言葉を交わさないのが普通というのは昔の人がみたら異常な光景でしょうね。

人間の共同体に現れ必要とされるすべての活動力のうち、ただ二つのものだけが政治的であるように思われ、アリストテレスが政治的生活と名付けたものをを構成するように思われた。すなわち活動と言論がそれである。そして、そこから人間事象の領域・・が生じるのであるが、そこからは単に必要なもの、あるいは有益なものは、一切厳格に除かれている。

『人間の条件』ハンナ・アレント (1994) ちくま学芸文庫 p46

 

便利は便利だけどそれを使うことを通して最も大切なものを失っていることに気づかされないか?という私の思いつきを今日は書かせていただきました。お読みいただきましてありがとうございました。

 

 

 

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