突然ですが質問です。あなたはSNSを使っていますか。
現代社会でこの質問に「ノー」と答える人はかなり少ないと思います。
特に若い人であれば、ほぼ全ての人がSNSに毎日触れて生活しているのではないでしょうか。実際総務省の統計でも同じような傾向があります。
『年代別にみると、10代20代は2012年時点からSNSの利用率が比較的高い傾向にあったが、20代は2016年には97.7%がいずれかのサービスを利用しており、この世代ではスマートフォンやSNSが各個人と一体ともいえる媒体となっている。40代50代は2012年時点の利用率はそれぞれ、37.1%、20.6%であったが、2014年から2015年にかけ利用率が上昇し、2016年にはそれぞれ利用率が80%程度、60%程度となっている。』
『SNSがスマホ利用の中心に』第1部 特集 データ主導経済と社会変革
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc111130.html
20代では97.7パーセントがLINE、Facebook、Twitter、ミクシイ、モバゲー、グリーのいずれかを使っているようです。「ほぼ全員」と言っていいでしょう。
この結果を踏まえると今はSNS全盛時代と言っても過言ではありません。
さて、このSNSが使われる理由は何でしょうか。
もちろんその理由は多岐にわたるでしょう。ただ代表的なものとして、SNSで誰かとつながり、孤独を埋める効果を期待をしている人は多いかもしれません。
しかし、実際は、SNSが孤独を埋める効果を有しているようには思えません。
この期待と現実のギャップはなぜ生じるのでしょうか。
この話題に対してオススメの一冊を挙げます。
ジクムント・バウマンの『コミュニティ』という書籍です。
孤独を埋めてくれるコミュニティの重要性はもちろん、コミュニティの形成を阻害しているものは何かについて教えてくれます。
SNSではなぜ孤独を埋められないのか
SNSが「孤独を埋め」てくれるという期待がなぜ裏切られるのかについて、バウマンのテキストを参照します。
結論から述べますと、我々自身がコミュニティを否定する思想を持っているからです。
つまり、SNSはコミュニティを構築するのに利用できますが、当の我々がコミュニティを形成することと反する思想を抱いているからです。
その思想とはグローバル化とともに誕生した脱領域的な領域に価値を見出すものです。
脱領域的な領域というのは『十分な規定、十分な組織、十分な規制を欠き、あまりにも頻繁にアノミー化しているために、「何が起ころうとしているのかが確実にわかる」という安心感』(バウマン、2017、) を期待することが難しい世界です。
このコミュニティを否定する思想が我々に蔓延しているためにSNSはコミュニティをもたらさないのです。
昨今流行するtwitterやFacebookなどのSNSは非常に多くの人とつながる機会をもたらしました。インターネットさえあればいつでもすぐに誰とでも連絡できるようになったというのは革命的です。
この流れに乗れば、コミュニティが次々とできて、多くの人の孤独が埋められてもおかしくありませんが、我々がSNSに対して抱いていた孤独を埋める効果は現実にはありません。
この現状に対して、SNSを「役に立たないものだ」と批判する論調がよくあります。
しかし、バウマンの考えを読み解くと、SNSが問題なのではなく、使う我々自身に問題があるのではないかということが鮮明になります。
バウマンの問題提起は、人々が孤独になるように世の中がなってしまったことがコミュニティ崩壊の根本要因だということです。
そして、彼はこの構造転換を作り出したものとして「能力主義」の思想を挙げます。
要するに、我々が「能力主義」の思想に支配されたことでコミュニティを否定せざるを得なくなったというのです。
・・・能力主義的世界観が支持され、公徳の規準になるにつれてコミュニティ的な分かち合いの原理は受け入れられなくなる。困っている人々に手を差し伸べる気にもならないほど彼らが貪欲であることが、その受け入れが難しい唯一の理由ではないし、おそらくは主要な理由でさえない。たんに自己犠牲を嫌うという以上に重要なことが、ここには含まれている。かれらがご執心の社会的な区分を作り出す原理そのものが危うくなるということがそれである。
『コミュニティ』ジクムント・バウマン(2017)ちくま学芸文庫 p95
「能力主義」は個人をスキルというものにより「区分けする」思想だと本書で書かれています。「能力主義」の根本原理こそが、人々の「区分を取り除く」ことを主要とするコミュニティと合わないのです。
「社会的成功者」の認識からコミュニティの崩壊理由は見える
この話を裏付ける一つとして、「社会的成功者」を考えてみると良いかもしれません。
この言葉への印象は分かれると思いますが、目立つ要因があるのではないでしょうか。
それが区分を設ける「能力主義的」な世界観です。
俗に言えば、金持ちを「社会的成功者」と同義で捉える認識がより強固になったことです。
「社会的成功者」は、コミュニティを否定する価値観を持ちます。もちろん彼らも「コミュニティ」を評価しているように見えます。
しかし、彼らの言う「コミュニティ」は孤独を埋め合わせるという意味でのコミュニティではないと考えるとうまく話は繋がります。
今の話をバウマンは非常にわかりやすくまとめています。
言うまでもなく、グローバル・エリートの辞書に「コミュニティ」という言葉はない。もしくは、この言葉が語られるとしても、非難か酷評の場合に限られる。グローバル・エリートの生活世界Lebensweltの「コミュニティ」と、その他の弱く恵まれない人々の「コミュニティ」とが、ほとんど共通項を持たないのは当然である。二つの言語、つまりはグローバル・エリートの言語と置き去りにされた人々の言語で各々「コミュ二ティ」といった場合、その概念は、明確に異なる生活経験を集約するとともに、全く対照的な熱望を表現しているのである。
『コミュニティ』ジクムント・バウマン(2017)ちくま学芸文庫 p97
これは現在「社会的成功者」でなくても、「社会的成功者」を希望する人にも当てはまります。彼らは、「能力主義」を正当化するためにコミュニティを破壊しろというのです。
孤独を埋め合わせるコミュニティに必要な条件
「能力主義」に懐疑的な言説をすると「社会主義者」「共産主義者」などという批判がでるかもしれません。
現に私はそういう批判を受けたことがあります。しかし、この極端な二項対立こそがコミュニティ破壊を助長しています。
バウマンの主張は、個人の能力や個性が最大限発揮できる自由は担保されるべきだが、その思想の際限のない拡張は社会を崩壊させるという常識的な話です。
バウマンいわく、人間は「自由」と「安心」の二つを必要とします。
近代的個人主義は、人々の解放の動員であり、自立性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、誰もが未来に責任を持ち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。・・・個人化の過程の中で交換されるものは、安心と自由である。すなわち自由は、安心と引き換えに売りに出されている。
『コミュニティ』ジクムント・バウマン(2017)ちくま学芸文庫 p37
さらに、「能力主義」思想に傾倒した人間の恐ろしさに関して彼は次のように言います。
・・・・この新興の有力者たちは、機略に富み、自身を膨らませていたが、かれらにとって、自由は、考えられる限りの安心の補償になると思われた。行動を制約する絆が多少でも残っていれば、それを断ち切り振り切ることが、自由と安心の両方の最も確実な製造法であることは、論を待たなかった。
『コミュニティ』ジクムント・バウマン(2017)ちくま学芸文庫 p19
「自由」と「安心」は交換不可ですが、自由を拡大し続けることで安心につながるというすり替えを行っているのです。
確かに、ごく少数の人はそのようなことを達成できます。しかし、少数の人の自由を拡大すると、抑圧される人が多数出ることを考えると彼の意図は見えてきます。
現代社会で再度コミュニティ形成に意欲を持つのであれば、「自由」と「安心」双方に気を配ることが最低条件となります。特に「自由」に傾いている現代社会では、「安心」を如何に担保するのかが重要になります。コミュニティによって人々の孤独感を埋めるにはこの二軸のバランスが重要なのです。