社会人が辛い
そう感じる人というのは少なくありません。でもその感覚を解消することは容易ではないように感じます。
私がその理由について述べるまでもなく、辛いという感情の克服は容易ではないと暗に多くの人が悟っているのではないでしょうか。
社会で生きるとは辛いうことなんだと。
そういった中で我々ができる対抗策というのは限られています。
最近では多くの人が心理学やらビジネス書などを読んで自らを奮い立たせるという対処療法をとっているように私は感じます。
相も変わらず『7つの習慣』をはじめとしたメンタリズムの本というのは人気が根強いのは本屋に行けば分かることです。
今後も末長く読まれることでしょう。
ただ、安易なメンタリズムというのは身を滅ぼすというのが私の持論であります。
『7つの習慣』がいい本という解釈でもいいのですが、この本が読まれなければならない我々の社会がやばいのではないかと考えるのも大事です。
では、私にとって根本的な治療法は何か?
それは「なぜ世の中が辛いのか」というのを短絡的な自我の視点からではなく社会に蔓延する思想から考えるということです。
シモーヌ・ヴェイユという思想家がいるのですが、彼女は非常にいいことを述べています。
「辛いという感情は、自分の辛い原因を知ることができた時点でおおよそ解決している」というものです。
私は極めてこれに共感します。
ですので、社会に関する洞察をすることはそれが仮に解決策を実現することが叶わなくても課題を見ることができた時点でおおよそ救われているというのが私の見解です。
今回、その流れで我々の社会の基盤とも言える資本主義という大きな枠組みからあなたの社会人生活が辛い要因について考えました。
それがあなたの辛いという感情を多少なりとも軽減すれば幸いです。
大きく3回に分けてこの文章は書きます。
- 「個人の孤立化」の加速
- 「目的」と「手段」という認識のカテゴリーの浸透
- 「公的世界」の消滅
第一回は資本主義による「個人の孤立化」の加速をテーマにします。
■社会人が辛いという感情の起源としての資本主義
あらかじめ断りますとあなたが辛い理由を考える時に、「職場があってない」とか「上司が悪い」など個別的な要因が存在することはいうまでもありません。
ただ、私にはもっと原理的なものに向き合いたいという衝動があります。それを踏まえていろいろ妄想してますので、興味があればお付き合いください。
早速本題ですが、資本主義の世界ではどうしてあなたの辛いという感情は生まれてくるのかという壮大なテーマに向き合っていこうと思います。
これを理解するにはまずもって資本主義とは何かということを考えなくてはなりません。
これに対する答えは一億通りあるのは間違いありませんが、あえてここではひとつに絞ります。
それは、資本主義分析の先駆者であるマルクス『資本論』の骨子に沿って言えば「労働力の商品化」です。
平たく言えば、資本主義が強化された世界では、これまで商品でなかったものをガンガン「商品」にするということです。その筆頭が人間なのです。(*ちなみに経済思想家のカール・ポランニーはそれ以外に「土地」、「貨幣」や「環境」なども挙げています。)
マルクスは『資本論』の冒頭で下記のように述べています。
このテクストは極めて重要ですので是非ご覧ください。おそらく私の述べていることが理解いただけるのではないでしょうか。
資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『膨大なる商品集積』として現れ、個々の商品はその成素形態として現れる。故に我々の研究は、商品の分析を以って始まる。
『資本論』カール・マルクス(2017)
マルクスは資本主義を「社会の構成要素のすべてが膨大な商品の集合である」と考えることがまず何を持っても大切であると断言しています。
だからこそ彼の資本主義批判は商品化に馴染まない人間を商品化し奴隷のように使い捨てするブルジョアに向かったわけです。
マルクスという人物はその出した結論でもって批判されることが少なくありませんが、彼の資本主義分析の功績はそこを勘定してもなお落ちません。現代もなおマルクスが偉大といわれているのは「労働力の商品化」という発見です。
私としては、ここからの議論の土台としてマルクスの見方に合わせて進めたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
本題に戻しましょう。
あなたが辛いということと「労働力の商品化」は何の関係があるのか?
それを次に見ていきたいと思いますが、あらかじめ結論を述べます。
あなたの辛いという感情は「労働力の商品化」が進む過程で生じる個人の孤立(solitude)に極めて密接な関係があるのではないかと私は考えています。
■資本主義の功罪
あらかじめ述べますと、今書いた「労働力の商品化」に伴う個々人の分断は悪いことばかりではありません。
「労働力の商品化」はよく言えば個々人に「自由」をもたらし、個々人にある種「平等」をもたらしたものでもあるのです。
例えば、いままでであれば個々人は生まれた時から生まれたところの共同体に縛られ生き方を制限されてきました。
つまり、選択肢がない、もしくは極めて限られている人生が当たり前だったのです。(それに疑いさえ持つ人がいなかったという意味で不幸ではありませんが。)
ギルドやいまも多少はありますが世襲での職業決定などがその典型例でしょう。
武士の子供は武士になり、職人の子供は物を作り、農家の子供は農業をするというものです。
今では考えられませんよね。
もちろん今でも世襲が0になっているとは思いません。
ただ、世の中の9割強の人は世襲が将来が決まっていることはないと思います。
これは資本主義のなした技なのです。
つまり、今のように多様な選択肢を享受できるというのは資本主義が既存の共同体(階級秩序)を破壊することで起こったと言えます。私はよく左翼だと言われるのですが、資本主義のこの面は良いことだと思っているので全てを否定はしません。
ただ、最近のグローバリストや自由主義カルトに見られるのですが、この資本主義も行き過ぎると極めて危うい側面を見落としてはいけません。
その筆頭例がここまで繰り返し述べている「孤立」です。
ハンナ・アーレントという思想家がいるのですが彼女は『全体主義の起源』の中で孤立という現象の起源を下記のように述べます。
孤立とは、人々が共同の利益を追って相共に行動する彼らの生活の政治的領域が破壊された時に、この人々が追い込まれるあの袋小路のことである。けれども、孤立は、力を破壊し行動能力を破壊しはするが、いわゆる人間の生産活動なるものに手をつけないばかりか、むしろこの生産活動のために必要なのである。
『全体主義の起源3ー全体主義ー』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房
まさにここまで私が述べてきたように、孤立は人々が共同の利益を追って協力する政治領域の破壊によって生まれてくると彼女は述べます。
この資本主義の進捗の過程を見れる最近のトピックがあります。
日本はおおよそ資本主義に覆われているもののそこから逃れてきた領域があるのですが、それに今市場原理を注入しようとしているのです。
もちろんそれは農業です。
最近、小泉進次郎氏が全農に攻撃を仕掛けているのをご存知でしょうか。
全農(JA)を既得権益だとして徹底的に批判し、株式会社化しようと彼は繰り返し述べています。
小泉進次郎は農協を株式会社化することで、農業の生産性を高めようと考えているのです。
これはパフォーマンスとして父親を彷彿させるようなものです。
確かに、一見すると素晴らしいように見えるかもしれません。
効率が悪いものはどんどん淘汰して、生産性を上げていこうということですからね。
しかしながら、ここまでの流れで分かると思いますが、いいことばかりではありません。
少し極端かもしれませんが仮に全農が株式会社化されれば地方は壊滅的な衰退を迎えるでしょう。
なお、こういうことを言うと「地方から人が消えるのか」という趣旨の反論があるのですが、もちろん私は人がいなくなるととは考えていません。
上にあるように孤立化させ「労働力の商品化」を強化すれば「生産活動」は寧ろ強化されます。
おそらく農作物の収穫高は多少上がるとさえ思います。
ただ、地方の土地には生産活動をするのに適した多くのバラバラなWorkerで溢れる可能性が高いと思います。
*農業を市場原理に入れすぎることのリスクについては今回は割愛します。
市場における「価値」では測量できない「価値」を失うという可能性を小泉進次郎氏は考えていないのです。
■これが一つの社会人にとっての辛いという感情の正体
ここまでで私が述べたかったことをまとめます。
改めて私の結論を述べます。
あなたが社会人としての日々感じる辛いという感情は資本主義の純粋化の過程で進行する「労働力の商品化」がもたらした「個々人の孤立化」と切っても切り離せないということです。あなたは「自由」と引き換えに社会に投げ捨てられているという表現がいいかもしれません。
孤立からくる生産活動は「生産性」と引き換えに多くの悲劇を個人に降りかけます。
その一つがニーチェという哲学者が犯した誤謬でもあるのですが、「孤立した個人」を全て力の源泉と見ることですね。
ですから積極的に個々人を分断していくのを良しとします。
しかし、個々人を孤立化させていくことで市場における「価値」を生み出すことだけが社会における「価値」なのでしょうか。マルクスは資本主義の帰結を「全利害の調和」と述べました。
・・・・マルクスは「人間の社会化」が全利害の調和を自動的に生み出すだろうという結論を引き出した点で正しかった。
『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)ちくま学芸文庫
「金さえ儲かればいい」
それと引き換えに何もかもを犠牲にしていくのが資本主義が純粋化されていく中で起こることなのです。
なおこの孤立の恐ろしさについてアーレントは下記のように述べます。
孤立はテロルの始まりであるともいえよう。確かにそれはテロルの最も肥沃な地盤であり、テロルは常に孤立の結果なのである。。この孤立はいわば全体主義以前のものである。
『全体主義の起源3~全体主義~』ハンナ・アーレント(1994)
テロルというのは何かを書き始めると今回の尺が持たないので簡易な理解としては「我々を萎縮させる行為」と言って良いでしょう。
彼女が言っているのは孤立した個人は脆く簡単に萎縮し、いとも簡単に隷従してしまうということです。
どうもおかしいですよね。
「自由」を目指し、既成の秩序を解体していくとなぜか逆に萎縮する状況になるというのは。
ここに資本主義の問題点が見えてくるのではないでしょうか。
そして、社会人としての辛いという感情もまたその全容がなんとなくですが、見えてくるのではないでしょうか。