なんとなく感じる社会の絶望的状況
それは言葉にはされないけれども、感覚が教えてくれている、、、
なーんてことが私は少なくありません。あなたも社会に対するなんとなく感じる絶望感ありませんか?
確かに「年金がもらえないかもしれない」「グローバル化の格差社会がとてつもなく進んでいるかもしれない」と具体的なレイヤーに落とすこともできます。
しかし、そんなレベルではなくなんとなく感じさせるなんとも薄気味悪い壮大な絶望感のことを私は言っています。
■目次
▶絶望を感じる空気はなぜ生まれるか
▶絶望を感じた大衆は何を求めるか
▶何が足りないのか
■絶望を感じる空気はなぜ生まれるか
この絶望を感じさせる空気はいかにして生まれたのかということについてまずは考えていきます。
理由についてはなんとなく、いや意外にも明白に私には感じられます。
それは「大衆社会化」ですね。
ここでいう大衆とはどういうものかはアーレントの『全体主義の起源3』から引用してみましょう。
大衆は共通の利害で結ばれていないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識を全く持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験しともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体・・・・労働組合・・・などに自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房
共通の利害で結ばれていない個人の集まりのことを「大衆」と呼ぶのが良さそうです。
例えば、マンションにあなたが住んでいるとして何かの共通の利害で結ばれているでしょうか?
あまりないのではないでしょうか。
多くの人が物理的に近くにいるのに何の社会的集団にも属していないという光景に今やあまりにも慣れすぎているのが我々の社会ですが、昔はそんなことはありませんでした。
物理的に近くにいる人は必ず何らかの形で共通の利害で結ばれていました。
さて、なぜ私は個人が共通の利害で他者と結ばれていない大衆社会を「漠然と感じる絶望感」の要因にあげるのか?
これは、人間に対する我々一般の偏見をさっぴけば見えてきます。
昨今自己啓発などが流行し本質を見失いつつありますが、我々の正体は「他者」及び「社会」が規定します。「我思うゆえに我あり」は誤りで、我々の実存(我々が何者であるか)は社会の介在をなくせば何も残りません。
それゆえに、共通の利害を持たない個人が集まる大衆社会はその本姓からして喪失感や絶望感を感じやすい状況なのです。
アーレントは中間組織の崩壊の結果投げ出された個人が陥る状況を「没我」と読んでいます。
徳としてのではなく感情としての没我は・・・全般的な大衆現象となった。この感情は個々の人間を動かして生命を賭けさせることもできはしたが、それはしかし我々が普通、理想主義という言葉で理解しているものとは全く似ても似つかなかった。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房
■絶望を感じた大衆は何を求めるか
さて、この没我した個人はそのままで生きていければいいのですが、それは思いの外不可能であるようです。
「人間と動物を分け隔てる最大のものは宗教を持つかどうかである」というのはColeridgeなども述べたことですが、そのような著名な方を引用するまでもなく、人間は何かにすがらずにいられません。
では、そういった没我した状況に追い込まれた大衆は何をするのでしょうか?
一言で言えば馬鹿げた世界観へ自己を投入することです。
それに関しアーレントは以下のように述べます。
最後の審判への信仰の喪失ということ以上に、現代の大衆を以前の諸世紀の人々から根本的に分かつものはおそらくないだろう。最悪の人間はその恐怖を失い、最善の人間はその希望を失ったのだ。恐怖も希望もなしに行きることは今はまだ不可能だから、これらの人々は彼らの熱望してきた楽園、彼らが恐れてきた地獄を人力で作り出すことを約束するように見える全ての努力に心を惹かれている。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房
その信仰がいかなる馬鹿げたものであれ没我した個人にとっては魅力的なものとして写り飛びついてしまうと述べています。
この現象は戦後間も無く台頭した革マルと言われた派閥やオウム真理教などの新興宗教が台頭したことなどはまさに当てはまると言えるかもしれません。
つまり、ああいったカルトは社会に絶望した人々がその世界観の妥当性を検証することなく受け入れた結果生まれたものということです。
ところで、ああいうカルトとも言えるような非常識な世界観を前にしてよく人々は「馬鹿なんじゃないか」「あんなものに引っかかるとかありえないな」と言います。
まさに他人事なわけですが、大衆社会化というものがこういったカルトの土壌になっていると考えれば全くもって他人事ではありません。
むしろそういった社会の絶望的状況を直視できない人こそ危ういのです。
誰もがああいった世界観の虜になる準備は出来上がっているのです。
■何が足りないのか
では、どうするのかというともう問題の根が深すぎて特効薬など見つかりそうもありません。
「壊すのは簡単だが壊したものを戻すのはあまりに難しい」というバークの言葉が示すように復古主義に傾倒すれば解決というわけにもいきません。
これは車を爆破したら元に戻せないのと同じです。
であれば、別の車を作るしかありません。
社会が絶望に溢れる中で光をもたらす車を一から作るしかありません。
人と人の有機的なつながりをもたらす共同体が必要です。
それは飲み会パーティーのような一過性のものではなく、安定したそして継続性を感じさせる共同体です。
個々人がその有機体を作ろうという「意志」を持つことが我々を全体主義から救います。
馬鹿げた世界観ではなく人間味のありまともな世界観を再構築できるよう努めていくことが求められるのです。
もちろんそれは苦しいし、さらに絶望感を強める要因になるかもしれません。
ただ、その苦しみを放棄することこそ終わりの始まりであり、絶望を引き受ける勇気が求められているのです。
しかしその時、私たちは苦しむ能力を失い、それと共に忍耐=持続の徳をも失うことになる。活動と活動的存在になることの根本には勇気の存在があり、それを身内に奮い起せる時たいし得るのは、砂漠的情況下で生きる情熱=受苦を忍耐=持続できる人間だけなのである。
『政治の約束』ハンナ・アーレント(2008)筑摩書房