毎日の生活の中でふと思うことがあります。
それは「何のために自分は生きているのか」という疑問です。
長らく私もこの疑問について考え続けているわけですが、人生を通して感じざるをえないこの「何のために自分は生きているのかわからない」という感覚の背景が見えてきた気がするのです。
もしあなたも何のために生きているのだろうかとふと思うことがあれば読んでいただければ少しばかりお役に立てるかもしれません。
今日は私なりの考えを文章にまとめてみました。
■現代人は何のために生きているのか
まず、何のために生きているのかがわからなくなる理由を考えた時に言えることが一つあります。
それは、我々が自分の人生における意味付けを何か間違った(偏った)ものでしているからではないかということが挙げられます。
ではなぜ間違った(偏った)意味付けを始めるようになったかということですが、それに対する私の考えは「そうするように我々の認識が書き換えられたから」です。
その認識を書き換えた代表的人物の一人にマルクスがいると言わなくてはなりません。
つまり、マルクスの打ち出した人間の新しい定義に我々はあまんじるようになったということです。
ただ、これが大きな落とし穴でした。
むしろ結果的には我々を苦しめるものとなってしまったということをあらかじめ言わなくてはなりません。
さて、マルクスの打ち出した人間の新しい定義とは何か。
それは人間を「労働する動物」と捉えるものです。
彼はそう定義した理由は「利害」という言葉ですべてとまでは言わないもののおおよそ人間の行動原理が説明できると仮定したからです。
ここでいう「利害」とはわかりやすく言うと「物質的なものを追い求める人間の態度」(唯物論)のことをいうわけですが、要するにマルクスは人々のリアリティを物質的欲求の充足(快楽のみ)に紐付けたということです。
■現代人から失われつつあるもの
この流れから私が言わんとすることがおわかりいただけますでしょうか。
我々が「何のために生きているのかがわからない」のはマルクスが指すところの「労働する動物」という認識に我々自身が甘んじてしまっているからなのです。
逆に言えばこの認識のカテゴリーに意識的になり脱することで「何のために生きているのか」が少し見えてくる可能性があるのです。
少し予防線を張りますと、私は多くの哲学者が考えたように「労働」をネガティブなテクストだけで捉えるようなことはしません。
奴隷根性と言われる方もおられるでしょうが、我々は労働を通して人生を豊かにすることは可能だという立場を私は取っています。
ただ、その「労働する動物」というマルクスの打ち出した世界観「のみ」に閉じたままでいるということは極めて遺憾であるということです。
私は人間の可能性を「快楽」だけに留まらせたくない。なぜならそれならばその他いかなる動物とも変わらないからです。
ここでおそらくこういう反論があるかもしれません。
「私は働くために生きているのではない。旅行に行ったり美味しいものを食べたりと楽しんでいる」と。
ただ、「消費」は「労働」の延長に過ぎないというのが私の考えです。
なぜならば、消費はマルクスの言うところの「利害」という物質的なものを追い求める人間の態度だからです。
消費と労働はコインの裏表であり、それらは常に一心同体です。労働をするために消費をするし、消費をするために労働をしています。
それゆえに、マルクスの「労働する動物」から抜け出すものではありえないのです。
■何のために生きているのかわからない人への答え
さて、何のために生きているのかがわからない人へ私が言えることを最後に書きます。
ここまでで私が述べたことを一言で言い表すと、我々が何のために生きているのかが一向に分からなくなっているのはマルクスの言うところの「労働する動物」として人間を評価するに甘んじているからだというものです。
では、我々は本来どういう動物であるべきなのか。それを最後に少しだけ。
私が考えるに、アリストテレスの述べた「政治的動物」を再評価することで見えてきます。
ここでいう「政治」とは、最近イメージされるような国会議員のやりとりなどを想起させるものとは異なります。(*もちろんこの定義についてはいろんな考えがあります)
私が思うにもっともっと身近なものです。
一般的に想起される「政治」は「必要に駆られて」という意味では「労働」と変わりません。
どちらかというとその意味での「政治」という言葉はあるべき「政治」の意味からは遠ざかっています。
さて、私が本来そうあるべきと考える「政治」の意味とはいかなるものか。
それは一言で言えば「他者との対話を通して生きていくこと」を指すと私は考えています。
要するに人間は孤独では生きていけず、他者との対話が我々を最も人間らしくするということです。
人間が「言語」を操れるのは他ならぬ「他者との交わり」を目的としているはずです。
実はこの意味での「政治」という言葉は「労働」とは縁遠いものです。
何が縁遠いかというと「その活動を単独で開始できるかどうか」を考えるだけで十分でしょう。
もちろん労働も現代のような文明社会では「何か最終的な生産物を生み出す」ということを考えた場合に、分業を本性とする以上単独では成立しないように見えます。ただ、「労働」はその本性としてそれ自体を一人で始めることができます。(それは無人島に放り出されたロビンソンクルーソーをイメージするだけで事足りるでしょう)
そう考えると今は消滅しつつありながらも我々の人生に最も意味を与えうるものの正体が見えるのではないでしょうか。
「政治」を取り戻さなくてはならないのです。
「何のために生きているのか」
今日はそれについて書かせていただきました。
私の提案は「他者との対話を通して思考し続けよ」ということです。
もちろんこれをすぐ取り掛かったからといって答えがすぐ見つかるわけではありません。
しかしながら、この探求こそが大事なのです。