今日は、金曜日です。
毎日の忙しい仕事を抱えるサラリーマンも今日だけはほんの一息つけるという人が多いかもしれません。
さてその仕事があなたににとって楽しいものであれば、その一息も微笑ましいものですね。
しかしながら、仕事をなんのためにしているのかわからない人にとってはどうでしょう。
つかの間の安穏を感じつつも少し先に見える憂鬱にすでに頭を悩ませ始めているのではないでしょうか。
前者に分類される人であればいいでしょうが、世の中の少なくない人が仕事を何のためにしているのかに明確に答えられないと私は近頃周囲を見ていて感じる次第です。
そういうこともあり、今日は、「なんのために」仕事をするのかに悩む人に少しでも尽力できればと考え、少し文章を書かせていただきました。
■目次
▶仕事をするのはお金のため?
▶自分にしかできない仕事はある?
▶仕事とはなんのためにするか?
■仕事をするのはお金のため?
ほとんどすべての人にとって「なんのために働くのか」という問いを投げかければその1番手には来ないであろうとも5番以内には「お金のために仕事をする」というのが来るのではないでしょうか。
それくらい賃金というものに我々の運命は左右されているのです。
賃金が途絶えることは「死」を意味すると言ってもいいほどに。
一般論として言えるのは、労働者と資本家がともに苦境にあるとき、労働者は生きていけるかどうかで苦しんでいるが、資本家は金儲けできるかどうかで苦しんでいるということだ。
『経済学・哲学草稿』カール・マルクス(2010)光文社
そしてこの流れは止まるどころかさらに加速しています。
逆の見方をする人が多いですが、言い間違いではありません。
私の考えでは時代を経るにつれ「お金のために働く」という層は増えてきていると考えています。
なぜなら、産業革命以降に当たり前ともなっている「分業」イデオロギーは常に前進し続けているからです。
社会において分業が進めば進むほど自らの「行為」が何をもたらすのか本人すらもがわからなくなるのはもちろん他者との関わりも生命を維持するための相互依存に限られてしまいます。
ハンナ・アレントは『人間の条件』の中で「労働」が社会に何をもたらしたのかについて以下のように述べます。
いいかえると、近代の共同体はすべて、たちまちのうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心とするようになったのである。・・・だから社会とは、ただ生命の維持のためにのみ存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現れるのを許されている形式に他ならない。
『人間の条件』ハンナ・アレント』(1994)ちくま学芸文庫 p71
アレントの文章を前後も踏まえて汲み取ると、我々が仕事をするのは今や「お金のため」(生きるため)以上のものになることは難しくなってきていると。
なぜなら、労働の本性に含まれる分業が自らの行為に「意味」を与えることを難しくしているからなのだとか。
このような見方を踏まえると一概に「お金のために仕事をする」という人に「馬鹿野郎」なんて言えたものじゃないんです。
■自分にしかできない仕事はある?
続いては仕事をなんのためにしているのかがわからない人にありがちなことについて。
自分のキャリアプランがわからない人や転職を繰り返す人にありがちなこととして「自分にしかできない仕事」の存在を探し求めることが挙げられます。
では、世の中に「自分にしかできない仕事」はあるのでしょうか。
これに関しての持論を少々。
私が思うに例外はあるのでしょうが、「自分にしかできない仕事」というのは今後減ることはあれど増えることはないでしょう。
その傾向は年を経るごとにさらに強まるとさえ感じています。
なぜそう考えるかには理由があります。
「分業」と並んで近代産業構造に内在するイデオロギーを参照することでそれは掴めます。
一言で言えば、「機械化」(標準化)ですね。
機械は同じ効果をはるかに大きな規模でもたらす。なぜなら、それは熟練労働者を不熟練労働者によって、男性を女性によって、成人を児童によって駆逐するからであり、機械が新たに導入される場合には、手工業労働者を大量に街灯に投げだし、機械がより高度になり、より改良され、より生産的になる場合には、少しずつ彼らを解雇していくからである。
『賃労働と資本』カール・マルクス(2014)光文社
少し前であれば、とてつもなく専門性の高かった仕事やほとんどの人にはできなかった仕事が今や誰にでもできるなんてことは少なくありません。
テクノロジーの導入が進めば進むほど、「誰にでもできる」という事実と感覚は広がっているのです。
ただ、我々の喜びもつかの間出会って、当初は喜ばしいとみなしていたことが「虚無感」に変わるのです。
言い換えれば、機械化が進み世の中の仕事の一つ一つが「誰にでもできるもの」へと変化していくにつれて人々はその行為自体に誇りを持つことができなくなるのです。実はこの事を随分と昔、すでにマルクスは見抜いていました。
彼にとって、織ること、紡ぐこと、掘ること、等々としては何の意味もなく、ただ食卓についたり飲み屋の椅子に腰掛けたりベッドに横たわったりすることを可能とする稼ぎ口としてのみ意味を持つ。
『賃労働と資本』カール・マルクス(2014)光文社
今は人工知能だブロックチェーンだと騒いでいる時代ですが、今までのことを踏まえるとこれからの時代は我々にとって「社会の目覚しい発展」という名の下多くの個人がさらに苦しめられる気がしてなりません。
ともあれ、人間はその労働によって自然を征服し、工業の奇跡によって神々の奇跡を影の薄いものにしたのだが、そんな力のおかげで、生産活動を喜ぶことも生産物を享受することもできなくなるというのは、なんと理不尽なことだろう。
『経済学・哲学草稿』カール・マルクス(2010)光文社
■仕事とはなんのためにするか?
悲観的な話ばかりを書いてきました。
何か前向きな話はないのかと必死に探しました。
ただ、現実に目をそむけ空想に浸るということは性分にあいませんのでやめました。
たとえそれが絶望的であるにしても。
例えば、仕事とは「自己実現のためするもの」「社会の役に立つためにするもの」というのがあります。
私はそれを否定しませんし、その言っていること自体は正論中の正論だと思います。
ただ、そう思える人がいたら「恵まれた人だな」と。
これほどまでに卑屈になっているのは世間の少なくない人にとって明るい気持ちで仕事ができているとは思えないことが私にとっては大きいと言えます。
そのグループの一つが今回話題に挙げている「仕事とはなんのためにするのかと思い悩む人達」です。
そんな、なんのために働いているのかが見えない人に最後に一言だけお伝えしたい事があります。
シモーヌ・ヴェイユという偉大な思想家がいるのですが、
彼女は現実をまざまざと見つめることができれば解決策を出さなくてもそれはそれで救いに一歩近づいたと同じだと述べました。
かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。
人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。
『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ(1995)ちくま学芸文庫
苦しみから逃げないこと、考えることから逃げないこと
仕事をなんのためにしているのかわからない人にはまずはやるべき重要な事ではないでしょうか。
自らの行為を分析してみると何か見えてくるでしょう。ぜひ直視してみてください。
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)